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ゆうさい
2021年6月9日 22:25
こんばんは、ゆうさいです。仕事でたまたま取引先の方と話をしていた際に、同じ歴史好きだということがわかりかなり話が盛り上がった。その盛り上がりのきっかけというのが、皆さんお馴染みの歴史シミュレーションゲーム「信長の野望」。私の場合は、初代「信長の野望」からスタートして、「武将風雲禄」というシリーズまでどっぷりはまってやってました。今回は、この「信長の野望」というゲームが、どれだけ素晴ら
2021年6月7日 22:32
こんにちは、ゆうさいです。今回がいよいよ浜田城の最終章(後編)です。中編をまだお読みではない方は、こちらを先にお読みください。仙石騒動でごった返した浜田藩ですが、またまた大きな事件を起こしてしまいます。後年に「竹島事件(たけしまじけん)」と呼ばれることになる密貿易事件です。借金に苦しむ藩財政を立て直すため、藩の御用商人だった廻船問屋の会津屋八右衛門さんが、李氏朝鮮との密貿易を提案
2021年6月5日 15:56
こんにちは、ゆうさいです。今回も前編に引き続き、浜田城の歴史をご紹介ます。前編をまだ読まれていない方は、ぜひこちらからまずは前編を読んでみてください。古田家が跡継ぎ不在により改易となると、浜田城には1649年に播磨国の山崎藩から松平康映(まつだいらやすてる)さんが入城します。康映さんの後もこの松平氏が続きますが、3代藩主の康員(やすかず)さんが病弱の上、養子だった康房(やすふさ)さん
2021年6月3日 05:22
浜田城は、島根県浜田市北側の松原湾近くの、海抜70mほどの山上にあります。この城は、1619年に古田重治(ふるたしげはる)さんが、徳川頼宣(とくがわよりのぶ)さんの和歌山転封にともなって、伊勢松坂藩より5万4000石に国替えとなった後、約9ヶ月という期間をかけて築城したお城です。浜田城完成した3年後の1626年にスペインの宣教師ディエゴ・デ・サン・フランシスコは、この浜田の地を「非常によい
2021年5月26日 11:23
こんばんは、ゆうさいです。今回は前回の投稿の後編です。まだ前編を読まれていない方は、前編を読んでからのほうがわかりやすいので、まずはこちらをお読みください。~前回からのつづき~丸岡城代となっていた青山宗勝さんは、主君として仕えた丹羽長秀さんが死去すると、そのまま豊臣秀吉さんの家臣となり越前に2万石が与えられました。さらに九州平定への従軍や伏見城の普請にも功績を挙げ、遂には越前丸岡
2021年5月22日 07:18
こんばんは、ゆうさいです。実は先週から左上の歯が痛いんです。痛みの種類は、ズキズキというよりも痛痒いような鈍い疼き…。以前、反対の右側の奥歯に根尖病巣(歯の根っこに炎症がおきる病気)ができていて治療を行ったことがあり、その時も同じような痛みだったのを思い出しました。この病気の原因は、以前おこなった根尖治療(歯の根っこの治療)が不十分だったことによる影響が多いようです。痛みの種類が同
2021年4月13日 22:31
先日、娘と杉の間伐材を利用してお箸をつくるワークショップに申し込み参加してきた。お箸のつくり方は、小さな鉋(カンナ)を使って、一本の棒を削っていく作業のみ。最終的には微妙な調整が必要ではあるが、意外と子供でも安全かつ簡単につくることができるんだと、黙々と作業をしながらひそかに感動。ちなみに完成したお箸はこんな感じ。マスキングテープを巻き、袋に入れるとなかなかいい感じの仕上がり
2021年5月20日 07:19
今回は、前回投稿した掛川城の後編をお届けします。まだ前編を見られていない方は、できましたら下記よりご覧いただいた上でお読みいただければ幸いです。掛川城は徳川の大軍に囲まれながらも、朝比奈泰朝(あさひなやすとも)さんは掛川城で氏真さんを守り懸命に戦います。この攻防戦は5ヶ月にもわたり行われましたが多勢に無勢。ついに主君である氏真さんの身の保全を条件に徳川軍と和議が結ばれ、1
2021年5月17日 18:17
今回は、新幹線からもはっきりその存在を確認できるお城、掛川城をご紹介したいと思います。この掛川城、築城は1473年頃で、駿河国守護の今川義忠(いまがわよしただ)さんが遠江進出の足掛かりとして、重臣の朝比奈泰煕(あさひなやすひろ)さんに築かせたのがはじまりといわれています。でもこの時の城は、今は「掛川古城」と呼ばれていて、現在ある掛川城の北東約500mの位置にありました。現在
2021年5月13日 17:58
こんばんは、ゆうさいです。今回は前回の投稿の後編です。まだ前編を読まれていない方は、前編を読んでからのほうがわかりやすいので、まずはこちらをお読みください。~前回からの続き~福井城の築城が完成し、その北側に城下町を新しくつくろうと動いていた矢先、結城秀康さんは死去してしまいます。享年24歳という若さでの急逝でした。秀康さんの死後は、嫡男の忠直さんが跡を継ぎ二代藩主となりました。
2021年5月11日 23:08
福井の「井」の部分。そう、井戸の「井」ですよね。以前の投稿の一乗谷館跡でも井戸の跡がいくつも発掘されていますが、本当にこんな形をしています。しかも県名にもなっている「福井」の「井」がこの福井城内にあった井戸からきているといわれています。ということで、少し無理矢理ですが今回は福井県福井市にある福井城をご紹介したいと思います。実はこの地は、1575年に織田信長さん家臣の柴田勝家(しば
2021年5月7日 20:43
こんばんは、ゆうさいです。今回は前回の投稿の後編です。前編をまだお読みでない方は、先にそちらを読んでいただけるとわかりやすいので、まずはこちらをどうぞ。1565年、足利義輝が松永久秀らによって暗殺されるという「永禄の変」が起こります。朝倉義景さんは、大和国の松永久秀さんのもとに幽閉されていた義輝さんの弟、義秋さんの救出を助け居城のある一乗谷に迎え入れました。義秋さんもその恩に報い
2021年5月6日 05:34
越前の名門朝倉氏が11代にわたり居城とした一乗谷は、東西の幅が500m、南北3kmの谷底にある平野に居館を築きました。谷の入口部分には土塁を築いて城門が作られ、京に近い南側は上城戸、北側は下城戸と呼ばれています。この間の約1.7kmには、朝倉氏の居館や侍屋敷などが作られ、一大城下町が形成されていたんです。当時応仁の乱で京の町は荒廃していたので、多くの公家や高僧・文人が避難してきたことで
2021年4月30日 20:49
こんばんは、ゆうさいです。今回も引き続き、金沢城の歴史をご紹介します。前回の投稿の後編となりますので、まだ前編を読まれていない方は、こちらを先に読まれるとわかりやすいのでぜひどうぞ。加賀前田家2代目となる前田利家さんの嫡男利長さんは、土塁の城壁部分にことごとく塁石を築き、また山間を切り抜き地中に陰樋を設けて水を引いていきました。現在の百間堀とも呼ばれる蓮池堀は、佐久間盛政さんの手