「昭和維新」の背景

昭和初期、所謂「昭和維新(当時は革新運動とも謂った)」に関わる諸事件―血盟団、五・一五、二・二六等が相次いで起こった。
そこに至る背景・原因は、大きく分けて3つである。第一に、外来思想・文化の流入、第二に、政権の失策と腐敗・堕落及び国家の行詰りと衰退、第三に、皇室の危機である。

この3つが政権の打倒と国家の革新に人々を向かわせたのは、昭和初期が初めてのことではない。惟れば、明治維新の前にもこの3要素は顕在化していた。そして現在の日本社会にも同様の傾向がある。

※なお、以下はあくまで当時の認識を基に執筆するもであり、現在の歴史的事実や見解とは異なる場合もある。


外来思想・文化の流入「直訳輸入」への批判

「直訳輸入」・「直訳的」
 当時の国家主義者、革新右翼と呼ばれる人々の文献に頻出
 何の批判もなく、外来思想をそのまま需要する、といった意味合い

主として、

  • 功利主義

  • 個人主義

  • 自由主義

  • 資本主義

  • 自由放任主義

  • (多数決的)議会主義

  • 民主主義(デモクラシー)

  • 共産主義

  • 社会主義

  • 平和軍縮思想

  • 人道主義

思想・文化流入の経過

岩倉使節団の帰朝→日本が未発展段階にあることを痛感
→「開国進取」標榜し、欧米諸国の制度・文物の移植に狂奔
功利主義・個人主義、自由主義が流入
 所謂「鹿鳴館時代」のような、卑下卑屈が流行
 文化面:衣服から建築其の他に至るまで、西洋流の文物が氾濫

日露戦争勝利での国際的自立~第一次世界大戦時の好景気(所謂大戦景気)
→日本は列強に並ぶ近代的商工資本主義国として完成
 多数の成金を輩出
 財閥が地位を強固に
 →経済的基調として、自由放任主義が支配

政党勢力が閥族政治家に代わっていく
 議会中心主義、「政党内閣こそ憲政の常道」

大正初期、所謂大正デモクラシーの流行
 明治末期以来弾圧(例えば大逆事件・赤旗事件)されてきた共産主義が解放されたように勢いを取り戻す

国内の経済的な逼迫
ロシア革命、コミンテルン創立
⇒青年インテリ、労働者の中に共産思想が浸潤

大正後期、共産党が氾濫
 検挙してもキリがないほど

同時期、ジャズやレビュー、喫茶、酒場といった頽廃的な享楽文化が流行

第一次世界大戦後、悲惨な総力戦の反省
平和軍縮思想、人道主義の世界的流行
 日本国内でも、言論機関~政治界までをも席巻
  軍部大臣の資格者拡大
  台湾総督が文民化
  労働争議の拡大と共に学校に於ける軍事教育の反対も各地に普及

ウィルソンの正義人道主義→国際連盟
 一方、英仏列強の植民地は残存、連盟はそれを保証する機関
 当時の日本国民の多くは、この矛盾に気づかず、国際主義と平和主義が流行

以上の様な、思想的・道徳的危機に際して、度々「日本主義」が主張される。これは、直訳輸入と対置されるものとみてよい。つまり、あらゆる事に於て日本の特質に則っるべきとするものだが、詳細は他の記事で論じようと思う。

政権の失策と堕落、国家の行詰りと衰退

当時、政党の腐敗、経済問題、外交・軍事上の不振が見られた。後半の2点については、外的要因も多分にあるが、その難局を乗り越えきれなかった政府にも責任が向けられた。また、現状の構造や体制も疑問視されるようになる。

政党の腐敗

基本的な元凶は政党政治
明治の元勲ら世を去る→政党政治家台頭
→議会中心主義が一般世論にまで流行→政治的な基調に

政党政治=党利党略(どの党が、いかにして政権を獲るか)
 各党、資金を得る為に財閥と癒着
 議会は、議論の場ではなく、政党同士の潰しあい・党争の場に
 ⇒国策を顧みる余裕なし

経済問題

大戦景気
→物価の騰貴や経済格差招く→労働者階級と資本家階級の反目

  • 大正中期以降の悲惨な日本経済

  • 大正七年、米騒動

  • 九年、大不景気(戦後恐慌)

  • 十二年、関東大震災

⇒各地で争議が頻発

  • 昭和二年、金融大恐慌(昭和金融恐慌)

  • 五年、昭和恐慌(世界恐慌のあおり)

⇒円が下落、輸出が激増
 世界のほとんどを支配する英米仏の反撃で阻止

世界の状況
 資本主義の世界的な流行→独占強化→自然調節機能喪失
 企業の合理化と機械化→失業者が激増
 列強各国は経済ブロックを形成
 →日本は貿易という活路も失う
  とりわけ農村漁村は窮乏、中小商工企業は没落

外交・軍事上の不振

同時代の日本は、国際社会からの抑圧に直面していた。外交的・軍事的にも行詰りつつあった。

貿易・市場問題
人口増加問題
資源問題
⇒いずれの解決にも、対外的進出(これは必ずしも侵略を意味しない)が必要
 特に支那大陸に

ブロック経済、支那大陸に英仏の権益
米国も支那市場を狙う
→日本の大陸進出を察知し、正義人道と平和を口実に阻止
 当時日本国内の言論機関、財界、政界で大勢を占めていた自由主義者達もまた、これに同調する始末

ワシントン軍縮条約
支那に対する九ヶ国条約
ロンドン軍縮条約

⇒日本への警戒感から策定、平和軍縮思想などの流行もあって成立
 石井・ランシング協定で確認されたはずの支那に於ける特殊権益は放棄を余儀なくされ、大陸進出の道は閉ざされた
 →とりわけ軍部の強い反発を招く
  民間の一部からも非難「政党・財閥・特権階級による屈辱亡国的条約」

山梨・宇垣陸相期、陸軍の整理縮小
 政党政治家や民衆からの好感狙い
→失業者も出る中、これに危機感を覚えた青年将校は先鋭化

アメリカ:移民法案可決、日本人排斥

ともかく、この英米仏の経済的侵略に対抗すべく外交方針を定める必要があった。にも関わらず、政府のそれは、退嬰・不振・日和見・追随外交を体現したもであった。

皇室の危機

上記の政治的・社会的問題は、確かに「昭和維新」の熱狂に大きく影響した。ただし、当時の右派が初めて全国的な大同団結を果たしたのは、あえて大仰な言い方をすれば、皇室の危機ともいえる状況に際してのことだった。ここでは詳しく述べないが、当時の右派は、個々人乃至少数での活動が基本であった。また、多少の差異から、一体として結びつかず、深刻な対立関係にあるものまであった。その活動は、時局に応じた糾弾やテロが主であった。

東宮殿下欧州諸国御巡啓
宮中大事件

統帥権干犯問題
 軍縮条約を巡り勃発
 →本来の海軍と政府との問題を超えて、陸軍や民間にまで波及

天皇機関説に対する国体明徴運動
天皇機関説:美濃部達吉が提唱
 議会中心主義・政党政治家に理論的根拠を与えた

天皇と国体とは密接な関連、日本の特質性を重視する日本主義に於ける根源
→分野は違えど、日本主義を旨とする諸分子が殆ど例外なく団結

機関説批判に対する政府の対応
 統治権の主体者が天皇であるという前提を鮮明にせず
 美濃部に適当な処分を加えず


参考資料

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