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一瞬で降りてきた感覚…「料理」って、自分自身と食材への「労り」だった!
少し前に、「想像していなかった未来」というハッシュタグ&お題がnote界隈を騒がせていたように思います。
私自身はどうかと言えば、だいたい変わらぬ毎日、概ね希望と予想通りのここ何年か、を送っていて、「ネタになるようなドラマチックなエピソードはあるだろうか…」と、振り返りの無さと若干の退屈さを感じていたところだったのですが。
今年の秋冬シーズンは月に2回は風邪をひき、熱などにうなされつつも部屋でゆっくり過ごす時間がありました。こんなに意識的に休養するなんて、何すればいいんだろうと思いつつ、外食できないので毎食、家で調理をするのですが…
それまでは動画や様々なサイトなどで謳われる、「作り置き」「時短」「節約」などの言葉に今までピンときたことがなく、ただでさえ効率重視で済ませる物事に心を削がれている気がする毎日なのに、どうして料理まで…と、
「料理=手間」
「手間なものは省いて楽しよう!」
というイメージそのものに惓んでいたし疲れてしまっていました。
確かに疲れている時は料理をするのが億劫ですし、平日に毎日献立を立ててできるかと言ったら難しい。ところが体の中に入れるものまで効率重視でなんでも良くしてしまうのは、それはそれで自分の体に無責任な気がする…と、長年堂々めぐりの葛藤ばかりだったというのが正直なところです。
それが今回、風邪の回復に必要な栄養素を考えながら、買い込んだ野菜でじっくりとスープを作ったところ…いつもはそれこそ「時短」のつもりで調理時間も短時間で済むスープばかりだったところを、弱火でじっくりことこと煮込み、一眠りする間に作ったスープは、たった一口でその違いがわかる、素材の味がしっかりと出た、美味しいスープだったのです。
「これだ…!」
と、その瞬間、私の中で料理のイメージが「手間」ではなく自分自身と食材への「労り」へと一新したと同時に、手間は省くもの、という効率重視の感覚が、豊かさには必ずしも直結していないと感じるようになったのです。
周囲でも、効率重視を重んじて色んなことを省いている方の周りには、ギスギスしている方が集まっているなぁと感じ始めていたことが、繋がった瞬間でもありました。
ひと手間かけながら、野菜や肉の温度や質感を確かめる、旬を感じるその時間すら楽しむ。
そんな、料理の時間があってもいいのではないか!と、今の私は声を大にして言いたい。
もちろん、毎日が大変なら、せめて土日だけでも。気の向いた平日だけでも。
帰り道に気まぐれで購入した、小ぶりのブーケが、手入れをすればするほど長持ちすることに気付いたのもこの「ひと手間」を意識し始めてからですし、
更に言えば、無機質なデスクワークばかりの毎日のなかで、色鮮やかな野菜を視覚と触覚で感じたあとは、味覚で楽しむという贅沢が出来るなんて、料理って、素敵!!
今の生活に足りないものは、今まで億劫がって遠ざけていたものにこそ、宿っていたのでした。
それに気付いたきっかけになったのは、もしかしたらこちらの動画かもしれません。
アゼルバイジャンのカントリー調の生活や料理を紹介する、20〜30分という長尺の動画なのですが、
BGMや特別な加工は無し、野菜を刻む音や薪のはぜる音、川のせせらぎ、家畜の鳴き声というありのままの生活そのものが、切り取られています。
(五十嵐大介『リトル・フォレスト』、講談社 のアゼルバイジャンver.と言ったところで。)
ここでじっくりと作られる料理を見、こんなにもゆったりとした時間の中で育まれるものは何か、と考え始めてから、私自身の料理に対する意識は少しずつ変わり始めたのかもしれません。
異国の地で、毎日(?)こうして大量の料理をこさえる働き者のお母さんの手元を目の当たりにしたら、「忙しいから時短料理で」なんて、私は言えない。
あの手のひらのしわ一つひとつに、これまでのお母さんが作った料理の歴史と、それを囲んだ笑顔が、刻まれているのです。
あぁ、あのラムのミート・パイ食べたい。
いや、作りたいかも!?
食欲だけではなくやる気までそそられるなんて。良い意味でとても罪深い、アゼルバイジャンの生活。
今夜はあちらの生活に触発され、玉ねぎとマッシュルームを炒めたものを鶏もも肉で巻いてオーブンで焼くという、新しいレシピに挑戦した記念でもありました。
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