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ちゃんと休むことが苦手なことについて。
私は休むことが苦手である。
決して休むことが嫌いなわけではない。
なんならいつも休み、というか、時間の空白を作ることを求めている。
何週間も前から休みを予定して、どんな風に過ごしたいか妄想する。
美味しいケーキでも買って家で映画見ながら食べるのもいいな、できれば心があったまる洋画が見たいな、出かけるならば夕方からお酒の飲めるカフェなんかに行って、普段飲まないようなアルコールドリンクを飲んだりもいいな。なんてね。
でも実際に休みになると、不思議なことに心が動かない。
簡単にいえば疲れている。
美味しいケーキを食べようにもケーキ屋さんに行くのが億劫だし、胃袋が「そんな気分じゃないよ」って言ってたりする。
映画を観ようかなと思ってアマプラのチャンネルをあれこれいじってもピンと来るものに一向に出会えない。
一人でお洒落なカフェに行こうにも勇気がいる。というかその前に、ちゃんと着替えて(それなりの服着て)、化粧もして・・・そんで、お酒飲むってことはバスで出かけるってこと?時間調べないとだよね?ああなんてめんどくさいの。
そうしてだんだんと思考が鈍くなり、気がつくとYouTubeで「休み やる気がしない」なんて文字列打って検索しちゃう。そんなことしても余計にやる気がなくなるだけなのに。
原因はなんとなく分かる。そういう時は大抵にピアノの練習が捗っていないときだ。もう20年くらい、音楽を、ピアノを「できるようにしないといけない」生活を続けていると、何もしていない自分を許すことができないのだ。
義務感で練習していてもいい音楽が生まれくるとは限らないので、休みたい時は休めばいい。今の私の頭ではわかっているけれど、過去の私がそれを許さない。
とはいえ過去の私というのは決して常に努力を惜しまない真面目な私ではなくて
「1日○時間練習しなさい」と師匠から言われたことを破って内緒でアルバイトしていた高校生の不実な私。
音大受験したいと言いながらも内心では厳しいレッスンについて行かれず「もう辞めたい」と涙を堪えて通っていた根性のない私。
もっと努力しないとと分かっていながらも本番から逃げ続けた臆病な大学生の私。
つまりは自分自身の無力感、不足感、罪悪感を感じていた私。
「ちゃんとしたい」と思っていても「ちゃんとしていない」自分が必ずいて、それを認めるのが嫌で、なので「ちゃんとしていない自分」を隠して「ちゃんとしようとしている自分」を演じてしまっているようで不快なのだ。
そういう相反するものにエネルギーが引っ張られ、奪われるからきっと日々疲れるんだろうな・・・と思う。
そんな時に処方箋となる言葉は「どんな自分も受け入れよう!」ということになるのだろうけれども。それ以前に「ちゃんと」っていう言葉(もはや呪いのような言葉)が、私の中にたくさんたくさん張り巡らされていることに気が付き、それについて正しく考え直さなければいけない。
「ちゃんと練習しよう」「ちゃんと休日を楽しもう」って無意識に思っているその
「ちゃんと」って・・・なんなんでしょうね。
ああそれよりも、努力するのも休むのにも、私らしい私をもっと解放したいなあ。
それができたらもっといい意味で頑張れる気がするよ。
今はまだわからないけど、気がついただけOKということにして。
とりあえず今夜は大好きなSam Cookeを聴いて眠ることにしよう。