「探す学び」と「浴びる学び」
ミュージシャンの山口一郎さんが「今の若い子は”浴びる遊び”ばかりで、”探す遊び”をしていない」「情報が少ない時代、CDを3000円でジャケ買いしてハズレだったり。でも勿体ないから繰り返し聴いては、その良さが分かったり」と話してました。
この言葉にインスピレーションを得て、今の時代の流れ、台湾にいて感じる急速に早まっていく、情報社会スピードの加速を感じながら、世界で起こっているオイリュトミーの学びの変化について考えてみました。
オイリュトミーの授業中に、先生があらかじめ準備をし、それぞれの授業で分かりやすく伝えられるように凝縮して伝えることは、生徒にとっては「浴びる学び」と言えるでしょう。
授業中に受け取った事柄を、何度も何度も日々の練習の中で繰り返し、自分のものにしていく、自分の中を深掘りしていく作業を人は稽古と呼び、それは「探す学び」になります。
世界=他者というクラスメートと毎日ともにオイリュトミーの稽古することで、自分自身というものを深く知るきっかけが与えられます。
等身大の自分に毎日向き合うことで、自身とは何か、自分の好ましいところ、あるいは変容させたい自分自身の幼稚さに、丸ごと付き合うことになります。
この先生、このクラスメイトに出会えて本当に良かった、一生の友人ができた!最高に幸せ、と感謝に満ちて心躍る日もあれば、
なぜ私のことを分かってくれないのだろう、なぜあんなふうにしか考えられないのだろう、なぜ私を認めてくれないのだろう、と不満を言いたくなる日もあることでしょう。
人間として生きている間、私たちの心はさまざまな動き方をします。
その揺れ動きの中で、確かに自分の核として、静かに鳴り響く自らの存在の中心を見つける、そこに耳を澄ませる、その学びの機会をオイリュトミーは与えてくれます。
オイリュトミーの学びも、多様性の時代らしく、フルタイムやパートタイムと多くの可能性が出始めてきました。
パートタイムトレーニングを提供することになったら、気をつけなくてはならないのは「浴びる学び」のみになってしまうことです。短期集中で、たとえば2週間ほど集まり、先生から浴びるように授業を受け、それが終わるとそれぞれの場所に帰って練習する、そこでは他者を通じて自分に向き合う時間が極端に限られてしまいます。
またオイリュトミーで最もよく使う「生命体」の部分は、他者と動くことにより活性化されるため、個々人練習ではその活性化が微小にとどまる傾向があります。(*詳しい説明はまた別の記事でいたします。)
その壁をどうしたら乗り越えられるのだろう。
オイリュトミーに興味を持ってくれて、学びたいと思ってくれている人たち、しかしフルタイムのトレーニングとなると、現在の生活を支えている日々の仕事を辞めるわけにはいかないから、入学は難しい、そんな方々に、どうやってオイリュトミーのをトレーニングを提供できるか、そんな風に考えている日々です。
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