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お金の時代の終わらせ方(新六波羅蜜)

神に選ばれ、運命によりここへ導かれし主人公のあなたへ。

人生がRPGであり、プレイヤー(主人公)であるあなたが最終的に「お金の時代(金融資本主義)を終わらせる」というシナリオになっていると僕が言っても、ほとんど誰も真に受けず信じません。それは僕がこのRPGのクリエイターである創造主自身から受けた啓示なのですが、そんな事を言おうものなら余計に気違い扱いされるだけでしょう。僕はお金の時代をどのようにして終わらせ、次の世の中がどうなるかの展望まですべて教えられているのですけどね。

「ではそれを全部今ここで語ってみろ」と言われるのでしょうが、まだ主人公として本当に目覚めてない段階の方にいきなり全部そのままを語ると、確実に拒否反応が出て逆効果になることが予めわかっているので、語り方が難しいんですね。(ので、ちゃんと順を追って記事にしていきます)

理想と信念を持って「やりたいことをやり遂げようとする」のではなく、「できそうならやる」と考えるような人は、「できなそうならやらない」と考える人なのであり、そういう人は権力に立ち向かうことなどすぐに諦めて権力に隷従してエゴに埋没したNPC人生を歩み、エゴを乗り越えて世界を救おうとする主人公にとってエージェント・スミスみたいな抵抗勢力になることが目に見えているんです。

そういう人たちはいざお金の時代が終わりに向かって自分が稼いできたお金に意味がなくなりそうになったら「お金のために色々我慢して努力してきた自分の人生は何だったんだ?」「稼いだお金で他人を利用できなくなるのは悔しい」「我慢も努力もしてない奴が自分と同じレベルの生活をするなんて許せない」って抵抗してくるのが自明なのです。

そういう人たちに限って「お金の時代を終わらせる」なんてことが本当にできそうかどうかを判断してやろうという感じで僕に具体的な「方法論」を先に求めてくるのですが、実際は己の臆病と怠惰から権力に隷従する自分を自己正当化するために、最初から「無理に決まってる」という結論ありきでこちらを否定するつもりで聞いてきているので、話すだけ無駄なんですね。理解したくない人に理解してもらうことは不可能です。

人生というのは、ログインしているあなたをプレイヤー(主人公・世界を救うメシア)とするRPGであり、当然最後には世界が救われるというシナリオになっています。しかしあなたが主人公として目覚めて世界を救おうとせずにエゴに埋没するNPC人生を続けるつもりなのなら、何度リスタート(輪廻転生)を繰り返そうともゲームクリアに至ることはなく、世界は決して救われないのです。

事象が認識者の認識に依存するという量子の仕組み(1人1宇宙)は、この仮想現実世界にログインしているプレイヤー一人ひとり全員を主人公として同時に成立させるためにあり、そうでなくては存在理由がありません。ゲームをプレイする時点でプレイヤーである自分が主人公であることは自明であり、それはこの世界でも全く同じなのです。

僕に対して「頑張って下さい!応援してます!私もお金の要らない時代がきっと来ると信じています!」みたいな激励メッセージが来るのですが(もちろん応援していただけること自体はとても有難いことですが)それは自分が主人公であり、自分の世界が自分次第に作られているってことを全然わかってないNPC思考なんですね。なぜ「お互い頑張りましょう!」にならないのでしょうか?

この人生というRPGは桃鉄のように「周囲と競いあってお金をいっぱい稼いで先にゴールすれば勝ち」のようなシミュレーションゲームではなく、「自分から愛を連鎖させ、みんなと協力しあってお金の時代を終わらせ、みんなが幸せな社会を実現することがゴール」のRPGであり、その表題はまさに「愛は地球を救う」なのです。

そしてこのRPGのラスボスは異次元にいる悪魔であり、それが誰にでもあるエゴ(自己保存欲求=我欲・保身・虚栄・怠惰)を刺激して人々をお互いに争わせ続け、分離・反発させようとします。そしてその最たる手段がお金なんです。

我々は異次元にいる悪魔を直接攻撃することはできませんし、悪魔に乗っ取られている支配者を攻撃したところで余計に分離・反発が生まれて逆効果であり、それは悪魔の思うツボなんですね。万が一今の支配者層を倒せたところで新たな支配が生まれるだけですし、力(権力=強制力)を力で倒そうと考えるのは愚かな事なのです。前記事エゴ(欲)とは何か?に書いた通り、正義というのがエゴそのものなのですから、正義を盾に権力者を倒そうとすれば、ベクトルが分離・反発に向かうことに変わりはないのです。そしてそれは愛・融和・ワンネスとは真逆のベクトルなのです。

世の中のすべての問題は究極「愛の不足」が原因であり、逆に言えばすべての問題の解決策は「愛」なのです。

だからまず主人公である自分から愛を発揮することです。自分がエゴを乗り越えて愛を発揮し、お互いの個性を尊重し、お互いの個性を生かしながら、ワンネス(私=あなた)に向けて目覚めの連鎖を起こして行けば、それは指数関数的に広がっていつか必ず世界は救われるのです。コロナウイルスがあっという間に世界中に連鎖したように。そしてみんなが自分と相手がイコールの存在だと気づき、出会った人を自分自身と同じように大切にするようになれば、争い合い・奪い合う意味はなくなり、無償で助け合うのが当たり前になり、お金は必要なくなるのです。

しかし多くの人がお金(を基盤にした社会のシステム・競争社会)が嫌になって疲れ果てていてさえも、お金を稼ぐためにあまり好きでもない仕事に縛られ我慢しながら生きています。そして「お金の要らない社会を作りましょう」と言う僕に「そんなこと言ったって(お金がなかったら生きていけないんだから)しょうがないじゃないか」と、まるで「えなりかずき君」みたいに口をトンがらかせて反論してくるんですね。

もちろん今日からいきなり社会システムは変更できません。僕だって乞食修業時代ですらお金を寄付して貰って生きていたわけで、完全にお金無しにジャングルでサバイバル生活をしていたわけではありません(それでも生きていける自信はありますけど)。今でも少額で無償の寄付(主に電子書籍購入のためのアマギフ)は常に大歓迎しています。僕がみんなに「今の仕事・金稼ぎをすぐにやめて財産を放棄し、一切対価を求めずに奉仕をする托鉢坊主になりましょう」みたいな無茶を言っているのと勘違いしないで下さいね。

価値観が変わっていないのにシステムだけ無理やり政治力(権力=強制力)で変えようとしても逆効果です。そんなことをすれば社会主義革命と同じで悲惨な結果しか待っていません。

だからまずは価値観の革命を自分から連鎖させていかなければならないのです。社会みんなの価値観が変われば、社会システムは自動的に変わります。

あなたはRPGでエゴの悪魔が支配する敵国に侵入(ログイン)しているのです。それが今のお金を基盤とした社会システム・マトリックスです。あなたはそこでテロのような武力・暴力などの違法手段を一切使わずに、愛によって革命を起こして社会をひっくり返すゲームをしていると考えてみて下さい。信じるか信じないかはあなた次第ですが、実際それは本当にそうなので。

ただ自分がNPCのまま・レベル1のままでいきなり社会システム(ラスボス)に逆らっても勝ち目はありません。表面上(物理世界)では社会システムに従っているフリをしながら、支配者の目の届かない精神世界(スピリチュアル)で修業して密かにレベルアップしてくのです。

そうしてあなたがレベルアップし、そのワンネスへの目覚めが周囲に連鎖してしまえば、それは必ず世界中に広がり、火をつけたスチールウールのように誰にも途中で止めることはできないのです。

連鎖反応は倍々に大きくなっていくドミノのようでもあります。先々に巨大なドミノの群れが見えたとしても、それをひっくり返すには目の前の一つを倒すだけでよく、それは必ず最後まで連鎖していくようクリエイターによってプログラムされているものなのです。支配者を批判して倒そうとするのは、順番(シナリオ)を無視して、先々にある巨大で手の届かないドミノに遠くから息を吹きかけて倒そうとするようなもので、支配者も支配体制もビクともするわけがなく、そんなことでエネルギーを消耗して勝手に絶望するのは無駄でしかありません。愛はあくまでも目の前から連鎖させて下さい。決して問題を直接手の届かないところから解決しようとしないで下さい。

それでは、誰でも今すぐに実行できる具体的で実践的なお金のシステムとの戦い方(魂のレベルアップ方法)をお伝えしたいと思います。誰にでもできて、今の仕事を辞めなくてもできることばかりです。これは天使と悪魔の代理戦争であり、このスピリチュアルな戦いの結果は物理世界にも必ず反映されるのです。すべての存在はフラクタル(相似形)に創られているのであり、精神(意識)が物理世界を作っているのですから当然です。ですから僕のこれから言うことを決して単なる精神論のように考えて「そんなことしても意味がない」などとナメてかからないで下さい。

<お金の時代の終わらせ方(魂の修行方法・新六波羅蜜)>

1.お金(我利)を目的に働かず、愛(利他)目的で働く
2.執着・損得勘定を捨て、無償で奉仕・寄付する
3.お金を使う時もお金のことを極力忘れる
4.お金・権力による尊厳の蹂躙に屈しない
5.常にエゴ(お金・正義)より愛を優先する
6.信心を持ち、心から信頼・感謝し、日々形にする

1.お金(我利)を目的に働かず、愛(利他)目的で働く
お金(我利)のことは極力忘れて、純粋に自分に与えられた能力と努力で人に奉仕して助け喜ばせることができること自体を愛して下さい。目の前のお客さんや仕事仲間を助け喜ばせるため一生懸命に夢中で奉仕をして、気がついたらお金が入っている、という感じになれば最高です。
それには自分が大好きで得意なことを仕事にするのが一番なのですが、例え今の仕事があまり好きではなかったとしても、その社会的意義を考え、自分を偽ることなくそれを堂々と自他に語れるようになって下さい。まずはどんな仕事であっても、目の前のことを誇りを持って一生懸命やれるようになれば、必ず天職に導かれますので心配しないで下さい。もし他人が損をすることで自分が得するような誇りを持てない仕事をしているようなら、即辞めることをお勧めします。
そして個人事業であれば報酬はできるだけお客さんに決めてもらい、値下げ交渉には極力応えてあげて、お金がなくて困っている人からは極力お金を取らないで助けてあげて下さい。
人を助けることはあくまで自分にできる範囲で良く、無理だと感じる時は断れば良いのです。「自分にはみんなを救う余裕(キャパシティ)はないから平等に誰も救わない」などと考えていてはいつまでも世界は救われません。一人ひとりが自分のキャパシティの中で他人を救う連鎖を自分から起こしていけば世界は救われるのです。

2.執着・損得勘定を捨て、無償で奉仕・寄付する
あの世には何も持っていけないのですから、己のエゴ(我欲・保身・虚栄)に執着せず、生活をミニマムにし、出会った人のエゴを満たしてあげることを優先して下さい。お金や権力やモノの損得ではなく、お互いの感情・経験を大事にして下さい。生活をミニマムにするための節約は美徳ですが、単に己のエゴのためにお金を貯め込もうとせず、人を助けたり喜ばせたりするのにお金を惜しまず、細かいお金の計算に捉われないで下さい。
エゴ(欲)とは何か?に書いた通り、得をしても損をしても人間はダメージを受けるように作られているのですから、損得勘定で物事を考えること自体が不幸なことなのです。世界はワンネスであり相手は自分自身なのですから、出会った人を例外なく自分自身のように大切にして下さい。
例え全く儲けにならず損をすることになっても、困っている人がいたら無償で助けてあげて下さい。それは自分自身の鏡であり、あなたと同じように無自覚に人間を演じている創造主の分身なのですから。それは聖書の羊と山羊のたとえに書かれている通りです。
無償で奉仕・寄付すること(布施)は、既存の六波羅蜜にも最初に挙げられていることで、とても大事な修行なのです。布施する相手がそれを良い事に使うか悪い事に使うかを判断してはいけません。あなたが愛の表現としてその行為をできたかどうかが重要なのであって、それが実際直接的に相手の役に立ったかどうかは重要ではありません。そして布施をする相手の善悪を判断しないことです。相手が良い人ならきっとあなたが救わなくても救われますからね。誰からも助けられないような悪い人こそあなたの救いが必要なのです。
また布施というのを金銭に限定して考え「自分には余裕がないから布施などできない」みたいに考えないで下さいね。笑顔で接すること。見返りを一切期待せず無償で親切にすること。相手の話を真剣に聞き、否定せずに気持ちを共有すること。出会った人を例外なく愛する(尊敬し、感謝し、許す)ことも大事な布施なのです。そういう布施こそが相手の自己肯定感を上げて幸せにするのであり、自分の自尊心も上がって幸せになるという最大の見返りがあるのです。そしてそういうことのできる人が相手から愛されないわけがありません。人は自分の自尊心を上げてくれる人を愛するようにできているのですから。
自分が無償で人に親切にしていたら、人の親切を素直に受け取ってその喜びを素直に表せるようになります。そしてそれが親切にしてくれた人に自尊心という最高のプレゼントとなるのです。エゴのために生きていると、相手の好意が見返りを期待されているような気がして重く感じたりしますし、実際に見返りを期待するような人を引き寄せてしまっているのです。そして人を頼ることが自分の無能さの証明のように感じてプライドが傷ついたりして、なかなか素直に受け取れなかったりします。人の親切には心からの喜びを素直に表現すればよく、極力実利的なお返しはしない方が良いです。実利的なお返ししなければ見返りを期待して親切にするような人は自然といなくなって、周囲が見返りを求めない愛に満ちた人ばかりになります。そして誰かに何かしてもらったら、本人にお返しいたい分を他の人に親切にすることで愛を連鎖させて下さい。

3.お金を使う時もお金のことを極力意識しない
自分がお金を払って人に何かをしてもらう時でも決して偉そうにしたりせず、お金を介している関係であることを忘れ、まるで無料でしてもらったかのように心からその相手の仕事・存在に感謝し、その感謝を形にするようにお金を払うことです。そして気持ちの良いサービスだったら請求額よりも多く払いましょう。そうしたらお金を介した関係であっても、きっと心の友人になれるはずです。くれぐれも「こっちはお金を払ってるんだから満足させてもらって当然だ」「こっちが嫌な事を我慢して稼いだお金なんだから、お前もお金のために嫌な事でも我慢しろ」などという横柄な態度で自分のために仕事をしてくれる人に接しないで下さい。それこそが愛の不足であり、必ず自分自身に返ってきて自らを苦しめることになります。すべての存在は一つ(ワンネス)なのですから当然です。

4.お金・権力による尊厳の蹂躙に屈しない
お金を払って偉そうにしてこちらが望まないことを強要して来たり、お金・権力で人の尊厳を踏みにじるような行為は頑として断って下さい。お金より大事なものがあるということを身を挺して相手に覚らせて下さい。自分が容易にエゴ(我欲・保身・虚栄)のためにお金・権力に屈してしまうようでは、お金・権力者の支配力がどんどん増して人間がどんどん悪魔化してしまいます。
その象徴的なのは売春・枕営業で、性という人の尊厳の基本をエゴ(我欲・保身・虚栄)のために安売りしてしまうような行為は権力への隷従そのものです。それに慣れて当たり前のようになってしまっては、お金の力がより強くなってお金・権力を持つ者はどんどん増長するようになり、自分だけでなく他のみんなも易々と尊厳を踏みにじられるようになってしまいます。※今売春や枕営業をしている方を蔑視するつもりはありませんが、できるだけ早く足を洗う事をお勧めします。歳をとってその仕事にしがみつくようになったら自尊心は壊滅的になってしまいますから。
もし客や上司や経営者や政治家などの権力者による尊厳の蹂躙を拒絶することで仕事を失って生活ができなくなるぐらいなら、そんな仕事は必要ない(向いてない)ということですから、辞めさせられたら辞めるきっかけを貰えたことに感謝して下さい。尊厳を踏みにじられても我慢し続けていては、自分の自尊心がどんどん下がって卑屈になり、人生が嫌になって心を病み、果ては自殺してしまうようになるかも知れません。保身のための我慢は結局己の身を亡ぼすのです。実際に今の社会では多くの人がそのようになってしまっているでしょう。そういうエゴのための我慢というのは自分自身と世界に対する愛の不足であり、自滅するのが必然なのです。
仕事というのはお金を貰って更にお礼を言われるレベルでなければなりません。それにはお金に関係なく一生懸命に奉仕を続けることです。本当に好きな仕事でなければそれは難しいでしょうし、本気で嫌な仕事を無理して一生懸命やっていたら心が壊れてしまいます。
例え清掃や介護のような一見は誰にでもできそうな仕事でも、あなたがその仕事を愛し一生懸命にやれるのなら、それは誰にもできないレベルになっていって「この仕事はこの人でなければダメ」と心から求められるようになるのです。(僕の仕事の中心も言わば清掃と介護のようなものであり、それこそが神事なのです)それが自尊心の糧になるのであり、お金を目的に尊厳を踏みにじられるような仕事の我慢代で駄賃を貰う奴隷になっていては、自尊心を失い愛を失うのが必然です。
あなたの個性が邪魔になるような仕事にしがみつき、あなたという存在を人から求められるようにならないのなら、自尊心など育みようがありませんし、そんなことでは主人公として成立しないのです。

5.常にエゴより愛を優先する
これも前記事エゴとは何か?に書いた通り、愛とエゴは真逆の概念であり、エゴに生きれば必ず愛を失う定めです。誰からも愛されずお金にしがみつくしかない老後を過ごし、心の仏国土に愛する住民が一人もいないままこの世を去る人生ほど悲惨なものはありません。
決してエゴ自体が悪いモノではないので、エゴを無理になくそうとするのではなく、執着を捨てて自分のエゴより相手のエゴを優先して満たしてあげて下さい。自分を犠牲にしているように自分で感じるのであれば、それは自分への愛(思いやり)不足であり、良くないことなのです。愛(思いやり)は自分に対しても誰に対しても平等でなくてはなりません。
多くの人は能力に自信がないために正しさを価値として、間違っていると思う人を批判することで自尊心を保とうとし、愛を失っています。しかし正義というものはエゴを連鎖・暴走・悪魔化させる最たるものなのです。どうか常に正義(何が正しいか)よりも、どうすれば相手に愛が伝わるか(思いやり)を優先して下さい。決して「相手は間違っているのだから傷ついても構わない」などと考えないで下さい。その思考の連鎖がこの世の不幸の元凶なのです。
どんな悪人に見える人も、あなたが出会う人は例外なく創造主の分身であり、あなたの人生の物語(覚り)に必要だから派遣された共演者であり、あなた自身の鏡です。ですから出会った人を例外なく尊敬し、存在に心から感謝して笑顔で接し、相手の欠点や過ちを許して補うことで、愛を示して下さい。相手の話の良し悪しをジャッジして否定せず真剣に聞き、感情を共有して下さい。問題は解決しなくていいに書いた通り、問題解決(便利さ・正しさ・合理)より、気持ちを共有することの方が大事です。それこそがお互いの自尊心の糧となるのですから。

6.信心を持ち、心から信頼・感謝し、日々形にする
信心を持つというのは、どこかの宗教団体の信者になるという意味ではありません。どうか主体的・自発的に信心を起こし、一つの宗教に固執せずに広く学んで下さい。どんな神であっても、それは創造主の分身(アヴァターラ)であり、どんな神を入り口に信心を深めようと、本質的には同じことなのです。すべての存在は創造主自身ですから、我々が創造主自身を拝んでも意味がありません。個性(過ちや欠点を含む)を与えられた我々が、同じく個性を与えられた神仏を拝み満たし合うことで物語は生まれるのです。宗教にも個性があり完璧な宗教は存在しません。もし存在したらみんながそれに従うので自由意志の意味がなくなり、信じる意味もなくなります。宗教の個性・不完全性を理由に信じないというのはナンセンスです。宗教を信じるというのは自分で考える主体性を放棄することではなく、心から納得できないことにまで従ってはいけません。
僕らは創造主の分身なのですから、我々がその分身同士で愛し合い、人生という物語を心から楽しむことが、一番創造主を喜ばせるのです。くれぐれも誰かのエゴのためにお金や奉仕など何かを無理に強制してくるような悪い宗教には騙されないで下さい。
聖書に次のようなキリストの言葉があります。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だがあなたがたの天の父は鳥を養って下さる。あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうち誰が、思い悩んだからといって寿命をわずかでも延ばすことができようか。(中略)あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはみな加えて与えられる。だから明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である。」(マタイ6章)
我々が病気や事故で死ぬ確率を全部合わせたらとっくに死んでいますし、確率で考えればそもそも我々も世界も生じていません。自分の才能と努力で稼いで食べれているという「驕り」と、使命を与えられて今を生かされているっていうことへの「感謝と信頼の欠如」が「将来への不安」を生み、神よりもお金という悪魔を信じて依存せずにはいられなくなっているのでしょう。しかしいくら稼いだところで信心(天に養われているという感謝と信頼)がなければ不安が解消されることはなく、「いくらあっても安心・満足できない」とエゴは暴走し、醜い争い合いの果てに命が尽きる人生になるのは明白です。不安で将来に怯えながら幸せというのはありえません。キリストの言う通り、人は神と金の両方に仕えることはできないのです。
前述したように、お金は悪魔による世界支配の手段なのです。それは連鎖的に人をエゴ(我欲・保身・虚栄)の悪魔にするものです。悪魔は悪魔の顔をして近づいて来ません。悪いものとわかっていたら誰でも警戒して近寄ることはせず、悪魔は悪事を働き人々を分離・反発させるその使命を果たせません。一見して悪魔が天使より魅力的に感じられなければ、誰も悪魔を頼ったりはしないでしょう。それでは「天使と悪魔の代理戦争」である人生というRPGは成立しないのです。
信心はその思いを形(行為)にすることが大事です。全知全能で完全無欠の創造主は我々に何も必要とせず、ただ与えるだけの偉大なる贈与者なのです。最初から完全に満たされている創造主に対して我々は直接何かをすることはできないのですから、創造主の分身たる人間の欠点や過ちを許し、尊敬・感謝し、無償で補うということが、信心(愛=尊敬・感謝)を形にするということなのです。
我々が何か努力できる環境・肉体・才能も含めてすべて与えられたものなのに、見返り(結果)を期待して何かをするというのはナンセンスです。それを努力(我慢)とは感じないぐらいに、自分の行為自体を愛して下さい。
宗教的な行為によって神々に信心(愛=尊敬・感謝)を示し、喜ばせようとすることも大事なことなのですが、人に無償で奉仕する(助け・喜ばせる)という基本が抜けていては何にもなりません。「金を拝んで神を拝まず」はいけませんが、「神を拝んで人を拝まず」もダメなのです。人も神の一部なのですから。
創造主は我々の経験の全てを吸収するために世界を創ったのですから、当然誰が見てなくて誰も評価いなくてもあなたの全てを見て評価しています。それを信じることが信心の核であり、人が見てるかどうか・評価するかどうかを気にして行動を変えるようでは魂の修行にはなりません。

いかがでしたでしょうか?要するに「自分からお金の価値を相対的に下げて愛を価値としていく」ってことです。誰も嫌な事をして尊厳を踏みにじられてまでもお金を欲しがらなくなれば、お金に今みたいな権力(強制力)はなくなり、支配者の支配力は下がるのです。そして誰もお金を目的に生きることはなくなり、愛(真理・神・幸福)の時代が近づいてきます。

この「新六波羅蜜」は「覚りを開く方法」「みんなが幸せになる方法」「世界を救う方法」とイコールであり、少なくともあなた自身は「損得勘定で生き、金のために嫌な仕事の我慢代で生きて、金を稼ぎ奪われるだけの苦しく虚しい人生」から解放され、すぐにでも幸せを実感できるようになってくると思います。それでもあなたは恐らくこれで本当にお金の時代が終わって世界が救われるとまでは考えられないと思いますが、もしあなたの愛が連鎖すれば、それは指数関数的に広がって、いつか必ず世界は救われるのです。

この新六波羅蜜は心がけみたいなものですから、最初から完璧にできないからといって「自分はエゴが強いから無理だ」などと言ってすぐに諦めないで下さいね。僕が提案していることはすべて100mを10秒で走るのとは違って誰でもできることなのですが、かといって完璧にできる人もいないのです。僕自身も他人様に言うだけのことはやってますが、まだまだできてないなと反省することも多く、日々改善を心がけています。楽器の演奏と同じで、最初はどれだけ下手でも日々楽しみながら続けて行けば必ず上達するものです。いきなり完璧にできたら人生は成長の物語にはなりませんから、完璧にできない自分を愛しつつ、楽しみながら続けてみて下さい。どんどん自分を好きになって人からも愛されて周囲のみんなと幸せになりますから。

あなたが日々エゴを乗り越えて愛を実践してそれを育てるなら、例え最初はからし種のように小さく見えても、果ては巨木に育ち、更に風や鳥たちがその種を運んで世界中に広がって行くのです。

能力やお金や権力がなければ世界を救えないなどと考えるのは、RPGで最初からレベルMAXで仲間や装備・アイテムが全部揃ってなければ絶対にクリアできませんと言うようなもので、それでは愛と勇気が試されず、何のゲーム(成長)要素もありません。お金も権力も知名度も何もなく、エゴに埋没して臆病で怠惰なレベル1の時に、愛と勇気を振り絞って起こす菩提心(衆生を救おうという覚悟)だからこそ価値があるのです。

それによってあなたはNPCから主人公として目覚め、自分が主人公であるとしか考えられないようなドラマチックな出来事が次々に展開されるようになり、必要なものは必要に応じてどんどん与えられ、人生という「世界を救うRPG」が最高に面白く幸せなものに導かれることでしょう。

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