見出し画像

書評:丸山眞男『現代政治の思想と行動』

戦後を代表する日本政治学者による政治的動力の理解とは?

本日ご紹介するのは、丸山眞男『現代政治の思想と行動』という著作。

丸山は、戦後日本の政治学界において抜群の知名度を有する、戦後日本を代表する政治学者であると言って良いだろう。

しかしその評価は専門家により分かれるところ。

それは一つには、その体系の内部から解釈や判断等の要素を極力排しそれらを外部化することが可能な自然科学のような領域とは異なり、社会科学という領域が解釈や判断を一定程度体系内部に含まざるを得ないという、社会科学の一般的特性に起因する事情がある。

また一つには、丸山の生きた時代とその特徴が、必ずしも時代普遍的なものでないかもしれない(要は現代的には古いかもしれない)という事情がある。

本投稿では、特に後者を意識ししつつ、丸山政治学の中心的主張はそもそも何だったのかという点を紹介できればと思う。

※但しそれが私の個人的理解であることは認めざるを得ず、その点ご海容願いたい。

①本著の概観と丸山政治学の特徴

本著は、丸山による論文や講演、手紙、短編文学などが一定のテーマに基づいて寄せ集められた、随筆集寄りの著作となっている。

「一定のテーマ」というのが、タイトルにある「現代政治の思想と行動」だということは一見明白なのだが、果たしてこのタイトルが適切かどうかについては、実は疑問が残るところでもある(後程再度触れる)。

本著は前述の通り随筆集寄りで内容も広範に渡るため、全体を通した所感を記すのは困難なのであるが、「丸山政治学の中心的主張の紹介」という本投稿の趣旨に添い、本著から丸山の政治論、政治思想、政治哲学の特徴や傾向を紡ぎ出してみたい。

私なりに丸山政治学の特徴を端的に表現するならば、「イデオロギーと社会イメージによる政治的動力の研究」と言えるのではないかと考える。

より詳しくは、「イデオロギー」とそこに住む人間の「社会イメージ」がどのように交錯し、どのように政治的動力を生み出していくかに注目するのが丸山政治学の特徴、ということにな流だろう。

この丸山政治学理解を仮説として念頭に置き、本著を俯瞰してみるならば、第二部においてイデオロギーが論じられ、第三部においてイデオロギーと人間の関係性が論じられ、第一部において二部三部の内容を具体的事象へ適用する形で日本ファシズム、軍国主義等の各論が論じられる、という構成になっていることがわかる。

率直に、読むならば第二部⇒第三部⇒第一部と進めるのが良さそうである。

②丸山政治学の中心概念その一:イデオロギー

他方、第二部の存在にも関わらず本著では実は「イデオロギー」という用語が必ずしも明確に定義されずに使用されており、読者は本著を読むに当たり丸山が「イデオロギー」という概念をどのように理解していたかを多少なりとも知っておくことが望ましいと言えるだろう。

しかし、「イデオロギー」という用語は適切な代替日本語を持たない西洋的な概念である。

「イデオロギー」に適切な代替日本語がないことが本著のタイトルに対する違和感にも少なからず影響していると言える。

この事自体が日本と西洋の相違というテーマのもとで十分に題材となり得るわけであるが、それは一旦端に置き、「イデオロギーとは何か」について、少々考えてみたい。

「イデオロギー」という用語を辞書で引くと、

「政治・道徳・宗教・哲学・芸術などにおける、歴史的、社会的立場に制約された偏った考え方、観念形態」

などとある。思想・考え方一般の中でも特殊な要件を充足するものであることがわかる。

「歴史的、社会的立場に制約された偏った」という点が重要で、これはある思想なりが社会的に動力(即ち人民の判断・行動に対する影響力)を持った状態であることを意味する。

一方丸山は本著四章の前書きで、政治的イデオロギーについて以下のように述べています。

「一般に政治的イデオロギーは、国家・階級・政党・そのほかの社会集団が国際ないし国内政治に対していだく表象・願望・確信・展望・幻想などの諸観念の複合体として現われる」

これが、「イデオロギー」という用語に定義を与えるものではなく、その概念が持つ特徴に言及したものであることはその表現からも論を待たないのであるが、それでも定義に少なからず関係するであろう説明が含まれているものと捉えることができよう。

前述の辞書的意味と丸山の特徴言及の差分で際立つのは、丸山の言及が「一定の社会的集団によって抱かれる」という要素を含む点にある。

即ち丸山による「イデオロギー」理解の特徴は、ある思想なりが「一定の社会的集団により抱かれる」状態と捉えている点にあると理解することができるだろう。

以上の「イデオロギー」を巡る議論が、本投稿で紹介したい丸山政治学の中心的主張とその特徴の一つ目である。

③丸山政治学の中心概念その二:社会イメージ

さて丸山は、政治的動力を「イデオロギー」の一方的な影響力にのみ求めるのではなく、「イデオロギー」とそこに住む個々の人間が抱く「社会イメージ」との相関関係が政治的ダイナミズムを創出するという考え方を取っている。

よって丸山は、政治・歴史など全て含めた「社会」を読み解くには、「イデオロギー」にのみ注目するのではなく、個々人が抱く「社会イメージ」に反省的であるべきだという点を強調する。

この「社会イメージ」を説明するにあたり、リップマン『世論』(以前の投稿で紹介済)が適切に引用されていることは示唆的だ。

リップマンはその著作『世論』において、人間がその属する社会に対し先行して抱く環境認識のことを「擬似環境」と呼んだ。
この「擬似環境」という概念と丸山の「社会イメージ」という概念の意味合いは極めて近いものと捉えることができるだろう。

なお余談に近いが、「社会イメージ」という概念が持つ特徴を捉えるに当たり、「社会イメージ」に対する知識人の身の置き方についての丸山の持論に触れることは有益だと思われる。

それは、丸山の知識人論は、エドワード・W・サイード『知識人とは何か』に先駆けるものとして捉えることができる、という点に着目することにある。

サイードの「周辺的」という概念との親和性については、異なる「社会イメージ」の間に身を置き絶えず自身の「社会イメージ」を反省することを力説する以下の文章が示唆的だ。

「境界に住むことの意味は、内側の住人と実感を頒ち合いながら、しかも不断に「外」との交通を保ち、内側のイメージの自己累積による固定化をたえず積極的につきくずすことにある」

以上の「社会イメージ」を巡る議論が、本投稿で紹介したい丸山政治学の中心的主張とその特徴の二つ目にである。

④丸山眞男と現代

丸山政治学が「イデオロギー」理解においてその要件とする「一定の社会集団により抱かれた」という点を重視するならば、丸山が生きた冷戦期における「イデオロギー」の担い手たる代表的な社会集団(あるいはそれに対する「社会イメージ」)に比べ、現代におけるイデオロギーの担い手は遥かに複雑となっているのが現代である。

現代における「イデオロギー」の担い手は国家・階級・政党等の比較的固定的な社会集団だけでは既になくなっており、社会科学が言うところの「認識共同体」のようなグローバルに染み渡る無形的連帯感が取って変わっている状況が現代であると言えよう。

故に、丸山政治学を固定的社会集団が「イデオロギー」の担い手として前提とされているものと理解するならば、現代に通用しない部分が出てくることになる。

他方、「社会イメージ」を巡る議論はどうだろうか。

これは必ずしも固定的な社会集団の存在を前提とするものではなく、むしろ「個々の人間」という政治的最小単位を少なくとも理念上は想定した、極めて柔軟性を持った概念である。

丸山において議論がし尽くされたということはもちろんできないが、「社会イメージ」に注目する政治的動力の立論は、継承・発展されるべき余地を十分に持つものと私は考えている。

読了難易度:★★★☆☆(←通読の場合)
政治的動力の分析度:★★★★☆
現代的意義度:★★★☆☆
トータルオススメ度:★★★☆☆

#KING王 #読書#読書感想#読書記録#レビュー#書評#社会科学#政治学#丸山眞男#現代政治の思想と行動#イデオロギー#社会イメージ

いいなと思ったら応援しよう!