書評:フローベール『ボヴァリー夫人』
「ボヴァリズム」とも呼ばれる自己認識の過ちとは?
今回ご紹介するのは、フランス文学よりフローベール『ボヴァリー夫人』。
主人公のエマは、田舎の医師ボヴァリーの美しい妻。夫との単調な生活への辟易と恋に恋する体質とが相まって、不倫と虚栄を重ね遂には身を滅ぼすに至るというストーリーである。
精緻な心理描写や、凡庸な日常から抜け出したいというエマの願望への共感などから、広く愛される作品だ。
そして何よりも、現実の自分を認めることができず、「本来ならば自分はもっと高い評判と幸福に満ちた人生に値する存在だ」との自己認識から、「こうありたい自分」にただひたすら憧れ追い求めてしまうエマの姿は、「ボヴァリズム」という言葉が生まれるほどにこの種の人格的特徴を典型的に描写したものとして、高い評価を得ている。
本作が投げかける一つのテーマが「ボヴァリズム」なる自己認識の問題であるとした時、そこにどのような特徴を認めることができるだろうか。
エマに特徴的なのは、非日常や評判に満たされた人生への願望を強く抱いていたことである。誰しも、目標・夢・こうありたいという願望を抱くことは全くおかしなことではない。こうした願望はそれ自体が人生のエネルギーとなるものとして肯定されるべきである。
しかし人が目標や夢、願望を抱く過程を考えてみると、そこには自分ではない誰かの姿がモデルとして、憧れとして影響することを指摘できよう。
エマは恋愛小説を読み耽って育った人物であり、エマの願望は多分に小説の中の情熱的な恋愛や非日常への憧れから生まれたものであった。ただエマはの願望はあまりに強く、その情熱は不幸にも現実を否定する方向へと向かってしまう。
その現実否定は、今自分が置かれている状況(田舎医師のもとで単調で凡庸な生活)に対してのみならず、自分自身の現実、即ち自身の現実の認識すら過たせてしまう域に至ってしまっている。
このようにエマの悲劇を読み解く時、憧れや願望は人生に活力をもたらすだけではなく、自分を見失うという自己認識の過ちをも招きかねない諸刃の剣であると指摘することは、言い過ぎだろうか。
エマは、誤った自己認識、即ち「本来ならば自分はもっと高い評判と幸福に満ちた人生に値する存在だ」といった、自らを実際以上の人間である考える高い自己評価とでも言うべき自尊心を備えた人物であった。
この認識から彼女は不倫に身を窶し破滅に至るわけであるが、他者や環境との関係という点で抱いた感情に注目すると、平凡な夫や単調な田舎暮らしに対する嫌悪感のようなものが伺える。より抽象化するならば、人や環境のせいにする他責感や被害者意識というでもいうべき感情、他者や外部への攻撃的な感情であったと指摘することができるだろう。言わば、根拠のない自尊心が被害者意識を内包し、自尊心と被害者意識がスパイラル上に増長した結果、満たされることの無い域にまで至ったのがエマの姿ではないだろうか。
自己認識の過ちから来る他責感と被害者意識。この作品が描いたエマの心理を一般的に生じ得るものと受け止めることができるならば、これは他者への拒絶や否定、攻撃性につながるものと言うことができるのではないかと思われる。
思うに、憧れには「対象に憧れる」場合と「状態に憧れる」場合の二つがあり、その間には微妙な、それでいて根本的な差異が存在するのではないだろうか。
「状態への憧れ」とは、詰まる所「自己愛」だと言えよう。他者を対象とする愛とは根本的に性質や方向が異なる。自己愛には際限がなく、度を過ぎた場合にはもはや歯止めが効かなくなる。エマの姿は正に「状態への憧れ」であったと言えるだろう。何故なら、「こうありたい」という自己の状態への願望があるからこそ、自己認識は過ち得るからだ。
人間誰しも自己愛があって当然だ。しかしそのコントロールを失った場合の行き着く姿が、エマに体現されているものと思った。まことに恐ろしい精神的な悲劇性である。
私の場合エマに対するシンパシーはなかった。ただ「こうなりたくない」と反面教師的な存在と見えた限りである。「理想」「自己愛」は誰しもが持つものであり、であるが故に誰しもがエマのようになるギリギリの淵を常に生きるものだと思うから、恐怖なのである。
読了難易度:★★☆☆☆
願望・憧れ諸刃の剣度:★★★★☆
自己認識の脅威度:★★★★☆
トータルオススメ度:★★★★☆
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