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書評:夏目漱石『私の個人主義』
個人主義を他者および社会との関係性の中で捉えた漱石の個人主義論
今回ご紹介するのは、夏目漱石『私の個人主義』という著作。
漱石によるいくつかの講演が一冊にまとめられた著作となっている。
余談からであるが、講演を文字に落としたものだからか、漱石のユーモラスな一面も垣間見られ、なかなか面白い。また、漱石が自分史を語る部分もあり、その内容は非常に興味深い。
さて、そんな特徴も備えた漱石の個人主義論であるが、彼は個人主義という理念を一体どのように理解していたのだろうか。
漱石は個人主義というものを、徹底的に他者および社会との関係性の中で捉えている。これは現代の倫理学にも通用する大変現代的な理解であると言えるだろう。
個人主義と倫理・道徳は相関関係にあると言える。
つまり、個人主義の進退に付随するように、時代時代の道徳レベルは変化するということ、言わば道徳は個人主義の関数であると言えるであろう。
よって、個人主義を定数化して(固定的なものと捉えて)道徳の復興を唱える説は空論であるということになる。個人主義の程度に合わせ、道徳は常に脱構築されていかねばならないからだ。
私の過去の投稿で、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』をご紹介した時に、こうした個性と社会性の関係性について書いている。
その際に綴った内容をここで再掲させていただきたい。
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ドストエフスキーの描く世界には、一つの逆説がある。それは、自身の個性を磨き上げるのは、人との交わり、人との繋がりだという逆説だ。
個性を花に例えたとする。
個性の元の姿は、言わば花の種である。
種は、種だけを大事に守っていても花は咲かない。
それだけではいつしか個性の種はコーヒー豆のように干からびて、芽吹くことすらできなくなってしまう。
個性の種が芽吹き花を咲かせるには、土壌が不可欠だ。
個性という種にとって土壌を成すのは、他者との交わり、繋がり、時には対峙である。
他者との豊かな交わりが言わば良質の土壌を耕し、そこから個性の種は良質の栄養を得て、いつしか自分だけの大輪の個性の花を咲かせることができる。
そうした大輪の個性の花がまた時代・社会を刺激し、若い世代の憧れとなり、他者と共存する、社会の一員としての生き方へと一人一人と導いていく。
ドストエフスキーが恐らく願ったのは、こうした人と人が豊かに繋がる社会を通して個人が自己実現していくような、そうした個性と社会性の同一性が育まれた世界だったのではないかと考える。
極端な言い方となるが、「個性は社会性から生まれる」のだ。
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ここでは、社会性の中において個性は育まれるという方向性を指摘した。個性と社会性の相関関係における、逆矢印の視点である。
着目する影響関係の方向性は違えど、漱石とドストエフスキーが個性や個人主義を社会との関係性の中で捉えようとしているという点において、不思議な一致が見られると私は考えている。
こうした私の持論は、ドストエフスキーや漱石といった文豪の叡智を紐解きながら、自身の体験、生きる現実の中で思索を重ねてきた一つの結論だ。
読み継がれる作家や作品には普遍的な知恵がある。私達人類にとっての共通財産だ。
誰しもが手に取り、学び、そして自身の思索と価値観の構築の糧とすることができるのだ。
読書の素晴らしさの一つはそこにあるのではないかと思えてならない。
読了難易度:★☆☆☆☆
主張の現代性度:★★★★☆
文豪に共通して見られる度:★★★★★
トータルオススメ度:★★★★★
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