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映画<レザボア・ドッグス デジタルリマスター版>~語られなかったもの~

三十年前の思い出

クエンティン・タランティーノの初監督作品。日本で1994年に映画館で公開されたときに観に行った。三十年前か。
パルコパート3の中の映画館だっけ? とにかく渋谷だった。
喫茶店の会話のシーンのあとのオープニング、黒スーツ・サングラスの強盗一味が「Little Green Bag」が流れる中、スローモーションで歩いてくるシーンが、かっこよすぎて、鳥肌が立った。比喩じゃなくて本当に鳥肌を立てながら座っていた。
きっとあのとき映画館の中にいた人たちは、それに似た衝撃を受けていたのではないだろうか。今思い出しても、なんて幸せな瞬間だったんだろう。
次の二作目の監督作「パルプ・フィクション」で、いきなりカンヌ映画祭のパルムドールをとったタランティーノは、あっというまに映画界の寵児的な存在になった。
その後のタランティーノ作品もぜんぶ見続けてきたけれど、私には第一作の「レザボア・ドッグス」に勝る衝撃はなかったなあ。
というわけで、義理を果たしにいくような使命感で、三十年ぶりの公開を観に。

三十年後に、聖セバスティアヌスに気がつく

初めて見るときほどの衝撃をもらうことは、もうなかったけれど。三十年を経て、新たな発見をした気がする。
「レザボア・ドッグス」は、ふつうでは隠さないシーンが隠されている・語られない構成が斬新と評されている。花形となるはずの強盗シーンが全く描かれていない。
映画を再見して、まだ隠されている・語られていないことがあるというひらめきが突然訪れた。
Mrブロンド(マイケル・マドセン)が出所後にナイスガイ・エディ(クリストファー・ペン)と再会する回想シーン。
再会の場は、エディの父のオフィスの部屋で、その壁に飾られていた絵がアンドレア・マンテーニャの「聖セバスティアヌスの殉教」だったの。
その絵に気づいたとき、あ、タランティーノが描こうとしていたテーマって、これっ?!と驚いたのだ。
「レザボア・ドッグス」は衝撃的なシーンが多すぎて、そちらに目を奪われつづけていて、部屋に飾られた絵の存在なんて目に入っていなかった、三十年前は。
「聖セバスティアヌス」は、ローマの親衛隊の一員だったけれど、キリストの信者で、そのことが発覚して刑されて全身に矢を射られた逸話を持つ。
ローマの軍隊の中にいたキリスト信者=強盗一味の中にいた警官。設定がセバスティアヌスに似ている。
Mrブロンド(マイケル・マドセン)に激しい拷問を受けながらMrオレンジ(ティム・ロス)を守った若き警官、マーヴィン・ナッシュ(カーク・バルツ)は、殉教者のごとく死ぬ。
そして「聖セバスティアヌス」は、ゲイカルチャーのアートの象徴のような存在でもある。
「レザボア・ドッグス」は、通行人程度以外の女性はまったく出演しない、女不要の男たちだけの世界。
過去の犯罪時、エディの父の名を白状せず四年間の実刑に服した(日本のヤクザ映画が好きなタランティーノらしい設定)Mrブロンドとエディの兄弟仁義みたいな絆。Mrブロンドの服役中の性的被害の匂わせの会話もある。
そして。
Mrホワイト(ハーヴェイ・カイテル)とMrオレンジ(ティム・ロス)のふたり。このふたりの関係は何?「レザボア・ドッグス」の中では、何も、何も、語られていない。
でも、どうしてMrホワイトはあれほどにMrオレンジを信じ、守り、どうしてMrオレンジは、あの瞬間にMrホワイトに、本当のことを伝える必要があったのか? 
伝えなければ自分は助かったはずなのに、なぜあの瞬間に伝えて、彼にすまない、と謝ったのか?そしてそのあとMrホワイトのしたことは。ホワイトの傷ついた表情は。
まるで。まるで。心中ではないか。
なのに、ふたりがそこに至るまでの絆を築いたシーンは描かれていない。
語られていない宝石店強盗のシーンのごとく、隠されている。
「レザボア・ドッグス」は、男同士の絆に殉教した男たちを描いた物語だ。
三十年後の今、そう思う。


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