雑感『ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編』
「壁抜け」を実現させたもの
第3部は「僕(岡田トオル、岡田亨、オカダトオル)」のストーリーにさまざまなサブエピソードが縦横に貫く形式を取るが、メインラインを追っていくと意外とシンプルな構成となっていることがわかる。
すなわち、「僕」が井戸を入手して「壁抜け」を実現し、クミコと思しき女性と再会。暗闇の中で「誰か」を撲殺したのち帰還する、という流れだ。
ポイントはやはり「壁抜け」の成否だろう。第3部序盤の時点で、「僕」は壁抜けまで至らないものの、井戸の底から「あの部屋」に接近することができるようになっている。
しかし、壁抜けは容易には達成されない。「僕」が壁に向かって足を踏み出そうとした瞬間、「いつものように」208号室のドアを鋭くノックする音が鳴り響く。「ようやく形作られ始めたばかりの僕の通路」はすっぱりと断ち切られてしまう。
のちに綿谷ノボルとのオンラインでのやり取りを通じて、この208号室への侵入の試みが、彼に悪夢を見せていたと判明する。綿谷ノボルもまた、夢の中で「僕」の侵入を阻むため妨害を試みていたのだろう。
とすると、最終的に「僕」が「壁抜け」を実現できたのはなぜか。
ひとつ注目したいのは、シベリア抑留体験を語った間宮中尉の手紙が、32章「加納マルタの尻尾、皮剝ぎボリス」と34章「ほかの人々に想像させる仕事(皮剝ぎボリスの話のつづき)」に分けられていることだ。そして33章「消えたバット、帰ってきた「泥棒かささぎ」」は、それらに挟まれるかたちで挿入されている。つまり、33章で壁抜けができたときに、「僕」は間宮中尉の手紙を読んでいたのか否か。それが大きなポイントとなる。
実際、33章を読んでも、「僕」が間宮中尉の手紙を読んでいたのか、あるいは32章部分に該当する前半部分のみを読んでいたのかはわからない。しかし37章「ただの現実のナイフ、前もって予言されたこと」で、「僕」は間宮中尉の手紙に言及する。
この「想像してはいけない」は、正確には34章で炭鉱の実権を握ったボリスによる忠告である。つまり、単純に時系列で考えると、「壁抜け」を実現した33章時点で「僕」は手紙の後半部分まで読んでおり、「想像してはいけない」という助言をすでに受けている状態だということになる。
ここで改めて、壁抜けを実現させたときの描写を見てみよう。
ここで「僕」は、ある種のスランプに陥っていることがわかる。
これよりさかのぼること5日ほど、「僕」は井戸の底に潜っていない。そこに至るまでの経緯を振り返ると、まずナツメグから「しばらくのあいだお客はここには来ない」と告げられる。週刊誌による「首吊り屋敷の謎」の第二報に加え、「僕」と綿谷ノボルの確執が明らかになったからだ*1。
ちょうどその夜、「僕」はシナモンのコンピューターを使って綿谷ノボルとチャットでやり取りし、そのコンピューターを介してシナモンから「ねじまき鳥クロニクル#8」が開示される。
「ねじまき鳥クロニクル#8」はそのまま本書の28章にあてられ、「(あるいは二度目の要領の悪い虐殺)」という副題が付されている。このエピソードはナツメグが「僕」に語り、幼いシナモンに語り聞かせていた、1945(昭和20)年8月の新京における動物射殺の後日譚に当たるものだ。だから「僕」は、シナモンがナツメグの話をもとにその続きを創作したものと考える。そして「年代記(クロニクル)」という形式をとった(あるいはとらない)物語群の存在は、「僕」に物語と現実が侵食し合っていることを気づかせる。
上記引用は、先行する24章で綿谷ノボルの記事を読んだ「僕」の述懐である。綿谷ノボルは記事中で、自身がその政治的基盤を受け継いだ伯父が、昭和の初期に満州へ渡り、ロジスティックス(兵站学)を専門とするテクノクラートとして、きわめて現実的な視点から「冬季におけるソビエト軍との戦闘は現段階装備にて遂行不可能」と断ずるレポートを提出したと述べる*2。
このことは間宮中尉の手紙の内容はもちろん、「ねじまき鳥クロニクル#8」ともリンクする。なぜなら、1945年8月に同時的に起こった間宮中尉のエピソード(左腕を失う→シベリア抑留)と動物園の動物および中国人士官学校生殺害とは、ソビエトによる侵攻がその背景にあったからだ。
歴史的背景をひもとこう。
1945年8月にソビエトが満州国へ侵攻してこれたのは、「かつては豊富であった関東軍の精鋭部隊と装備の大半は運び去られてしまっていたし、その大半は既に深い海の底に沈み、ジャングルの奥に朽ち果てていた」からだ。同年2月のヤルタ会談で、ソ連は対日参戦の密約を英米と結び、虎視眈々と南進の機会を狙っていた。
そもそも「揺るぎなき北の護りを豪語した関東軍」が弱体化したのは、「昭和十四年」(1939年)のノモンハン事件後、日本軍が南方への侵攻を拡大し、そこに戦力を集中させたからだ。そして、その方針に影響を与えたのが、先述の綿谷ノボルの伯父の報告書である。彼が石原莞爾を敬愛し、兵站強化では意見の一致を見つつも、石原の持論「ソビエトとの全面戦争が避けがたいもの」と真逆に働いたのが興味深い。また、間宮中尉も本田伍長の暗躍により、日ソ戦の回避に一役買ったことも忘れてはならない。
そして、実際にソ連との全面戦争にのぞんだのは、アドルフ・ヒトラーのドイツだった(1941年6月~)。ベルリンが赤軍に侵略され、ヒトラーが自殺に追い込まれたのが1945年4月。ドイツの降伏により、ソ連軍に余裕が生じ、対日参戦にいっそうの現実味を帯びるようになる。1945年8月8日、ソ連、対日参戦布告、9日ソ連軍、満ソ国境を越えて侵攻を開始する。
このように見てくると、「昭和十四年のノモンハンでの戦争」が歴史的因縁の「輪の中心にある」ことが理解できるだろう。そして、33章時点で井戸に潜った「僕」は、たしかにその輪の中にかっちりと配置されている。たとえば「お守り」として機能していたバットひとつとっても、新京の動物園での中国人処刑にダイレクトにつながってしまう。だからこそ、バットは何者かによって井戸の底から持ち去られたのだ*3。歴史的因縁という文脈から離れることが壁抜けでは必須だからだ。
再び、「壁抜け」に成功するくだりに注目しよう。なかなか意識をひとつに集中することができない「僕」はプールのことを思い浮かべたのだった。
このあと、闇の中で音に集中しているうちに「僕」は眠りに落ち、意識を取り戻したとき、208号室へ移行していることに気づく。
このように「泳ぐこと」がもたらす没頭が、どうしてもできなかった「壁抜け」をひょいと実現させる*4。それは間宮中尉の「想像してはいけない」という助言と奇妙に符合する。208号室を想像するのではなく、何か別のことを考えること。妄想することーー。
本当に想像してはいけないのか?
小説そのものは考えないと書けないだろうし、それこそ想像しなければ物語は立ち上がってこないだろう。しかし、没我がもたらす妄想を抜きにしても、物語は成立しないのではないだろうか。その傍証とも言える「語り部」たちの姿を、本書では何人も見つけることができる。
笠原メイが「僕(ねじまき鳥さん)」に送る手紙は、1章「笠原メイの視点」を皮切りに7章、11章、16章、19章、30章、38章が独立した章として割かれている。だが、41章「さよなら」において、彼女の手紙は1通たりとも「僕」に届いていなかったことが判明する。同じ手紙であっても間宮中尉のそれは「僕」に届く描写があり、先に見たように、そこに書かれた「想像してはいけない」という忠告に「僕」が従ったのとは対照的だ。この対比にどんな意味があるのだろう。
上記引用における「モウソウ」は、笠原メイ自身が「宮脇さん一家」のかつての「幸福なイトナミ」の一部になったように感じたこと、さらに「変な話」と前置きしたうえで「最近ときどき自分がクミコさんになってしまったみたいな気持」になることを指している。そしてその「モウソウの雲」に「すっぽり包まれて仕事をしている」とも記されているわけだが、笠原メイの現在の仕事はかつらをつくることだ。なぜなのか本人にもわからないが(「ミャクラクのないこと」)、笠原メイはかつらのことを「宿命的に気に入って」いる。
笠原メイは山奥の「飛行機の格納庫みたいに広くて、天井がやたら高くてがらんとし」た工場で「百五十人くらいの女の子」とともに、かつら作りに没頭している。
この二つの引用からは、笠原メイが「かつらを作ることだけを」真剣に考えているとき、過去のことが「ミャクラクなく」よみがえってくることを示している*5。つまり、何かに専心すればするほど、妄想の入り込む余地が出てくる。
ナツメグもまた、「モウソウ」に現実を侵食されている人物である。彼女の語る新京動物園の物語は、実際には終戦間際の引き揚げ船の船上で幻視したものだった。
ナツメグは大砲がこちらへ向けられたときにはすでに意識を失っており、潜水艦が「理不尽に唐突に」水中に消えてからもこんこんと眠り続け、佐世保に着くまで目を覚まさなかった。とすると、極度に張り詰めた死への予感が、彼女の意識を保護するために幻想を見せたということなのだろうか。いや、それだけでは説明がつかない。
たしかに目の前に迫る潜水艦は死の象徴と言えるだろう。しかしナツメグは、事態を「戦争とは関係なく」起こる普遍的な出来事ととらえている。
おそらくこの二つの引用は呼応している。そして、後者の動物園の幻視をナツメグの「モウソウ」と考えるなら、目の前にある普遍的な脅威(潜水艦。Sub)と等価交換可能な普遍的な暴力(動物園。Zoo)が召喚されたとも言える。
もうひとつ、上記のナツメグの例から言えるのは、同じ人間は二つの出来事を同時に見る(知る)ことはできない、ということだ。これは物語中の幻視または予言をする者に共通する。
まず、ナツメグは動物園の物語の主人公である、青いあざを持つ獣医(自身の父、シナモンの祖父)の行く末について、実際には知らない。
しかしシナモンの「ねじまき鳥クロニクル#8」では、獣医の行く末とそれ以外の登場人物の末路もはっきりと語られる。中国人をバットで撲殺した若い兵隊によってだ。彼だけがねじまき鳥の鳴き声を聞くことができる。
しかし、若い兵隊には自分の運命だけは見えない。にもかかわらず、10章の語り手によって彼の運命もすでに明らかにされている。
つまり動物園での殺害に携わった人物は、処刑される「若い主計中尉」を除いてシベリアの炭鉱送りになり、収容所生活で命を落とす。そう明記されている。
そして、シベリアの炭鉱送りになった人物がもう一人いる。間宮中尉だ。つまり、間宮中尉のストーリーと、ナツメグ/シナモンのストーリーは新京の町とシベリアで結びつく。「僕」が主計中尉が「間宮中尉であったとしてもおかしくはな」い、と言うのにはこうした背景がある。さらに、「顔にあざのある獣医」の末路である「深い竪穴での出水」は、まさに物語の結末で「僕」が井戸の底に湧き出た水で溺れ死にそうになることと符合する。さらにそれは、本田さんの「水には気をつけた方がいい」という予言とも符合する。因縁の輪は、本来、ナツメグ/シナモンが知りようのない、「本田さん・間宮中尉ライン」をも巻き込んでいく。
そもそも「ねじまき鳥クロニクル#8」とそれ以外の物語群は、ナツメグの幻視をシナモンと共有し始めたことから立ち上がったのだった。その後、シナモンは声を失い、ナツメグと物語を共有することをやめ、独自の体系を築くに至ったと「僕」は推測する。
「僕」の推測はほぼ正鵠を射つつも、自身が物語の登場人物であるかぎりは想定の域を出ない。
当然ながら小説『ねじまき鳥クロニクル』の存在を、「僕」は知らない。小説『ねじまき鳥クロニクル』のない世界に「僕」は存在している。しかし、我々は今まさに『ねじまき鳥クロニクル』を読んでいる。とすると、シナモンは「こちら側」にアクセスできるのだろうか?
本書をメタフィクションとして読み解くのはたやすい。我々読者が読んでいるストーリーそのものが、シナモンが構築している物語と考えればよいからだ。
しかし、それでは物語そのもののダイナミズムが一歩後退してしまう。ナツメグや彼の父がとらわれていた、運命の「のびてくる長い手」の存在を肯定することにもつながってしまう。やはり本書はシナモンの「かたちを変えつつ存在しつづける物語」を内包した、スタティックな物語なのだと考えたい。
ここで『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の世界観を参照したい。「ハードボイルド・ワンダーランド」の「私」は、脳外科手術を経て、意識の核ともいえる思考回路を有している。「私」の意識の核とはすなわち「世界の終り」というドラマだ。「世界の終り」の舞台である高い壁に囲まれた「街」は、外界の影響を受けない代わりに、一度中に入った者が外に出ることを許さない。そこには時間も感情もない。つまりダイナミズムは存在しない。それは表層的な意識の変化をノイズとしてカットすることで、意識の核の純粋性を維持しているがゆえだ。そして、意識の持ち主である「私」には、意識の核の内容を知り、コントロールすることはできない。「世界の終り」は完全なブラインド回路であり、ブラックボックスなのだ。
これに対し、シナモンの物語はダイナミズムこそが主役だ。表層的な変化、外界からの刺激を積極的に受け入れることで、絶えず変化を続ける*7。そこでは時間はクロノロジカルにもなりうるし、ノンリニアにもなりえる。
また先に見たように、管理者であるシナモンの既知のことのみならず、未知のこと、たとえば間宮中尉や本田さんが「僕」に語ったこともその一部として取り込み続ける。この取り込み能力は、もともとはナツメグの特性(「幻影と真実とのあいだに広がる薄暗い迷路」をさまよう)であったが、シナモンが物語体系に自律機能として取り込んだのかもしれない。そういう意味で、シナモン/ナツメグにとって「僕」は、彼らの物語を広く展開させるためのハブになっていることがわかる。
いまいちど『世界の終り~』に立ち返ると、なぜ意識の核が固定化され、ブラックボックスに仕立てたられたのかというと、意識の核の正体を知った者はそれを改変してしまうからだった。思考システムがダイナミズムを有してしまうと、やがてカオスが訪れる。それは避けなければならない。
とすると、シナモンの物語をカオス化から守る者はいるのだろうか。シナモンがゲームにおけるゲームマスターのように物語を管理し続けているのだろうか。シナモンと彼の管理する物語はそれこそブラックボックスなので、答えはない。しかし少なくとも、ひとつの原理というべきものは示されている。ねじまき鳥の存在だ。
「ねじまき鳥クロニクル#8」の兵隊たちの運命はそのまま、収容所でボリスの圧制下に亡くなっていった日本人捕虜の姿に重なる。というよりも、おそらくそのものとなる。
彼らの運命を決めたのは、間違いなく1945年8月の敗戦である。彼ら兵隊はソ連軍が迫る新京で任務遂行にあたり、獣医は「運命と二人きり」になるため動物園に残る。間宮中尉は志願してハイラルの前線へ出向く。そして、ナツメグは日本本土に向けて引き揚げる満州国官吏や満鉄の高級職員の家族とともに洋上にあった――。
これらの3つのエピソードは、1945年8月半ばに同時発生的に起きている。その背景には、満州国崩壊という大きな運命が横たわる。
日本陸軍の南進に、綿谷ノボルの伯父による報告書が嚙んでいたことは先に述べたとおりである。そして以下に見える満州国の滅亡に、綿谷家が絡んでいるのもひとつの因縁なのだろう。
こういった状況で新京に残された兵隊たちも、上層部に見殺しにされた者の一部だろう。ねじまき鳥の鳴き声を聞いた若い兵隊は、開拓農民の出であることも記されており、二重の意味で「棄民」であることは明らかだ。
動物園の兵士らが「ごめんだ」と考える死に方を、間宮中尉は望んでいた。そして、「戦車のキャタピラにじわじわと踏み潰され」、左腕を失う。彼らの願望と運命がここでも大きく交錯している。そして、生きて本土の土を踏んだのは、ボリスを抹殺するために彼ら日本人捕虜仲間を見殺しにしつつも、本懐を遂げられなかった間宮中尉だけだったのも皮肉としか言いようがない。
間宮中尉が「皮剝ぎボリス」の射殺に失敗したのは、「想像することは命取りになる」というボリスの忠告に背いたからだった。そもそも「そんな資格がない」とも言われている。でも、失敗のもっとも大きい要因は、おそらく次の描写だ。
これを字義どおりにとるならば、ボリスを殺すことができなければ、間宮中尉の生きてきた意味がないということになってしまう。
おそらくこの物語では、死や暴力にのぞんだとき、直視、直面してはならないのだろう。だから幼いナツメグは潜水艦を直視せず、動物園を幻視した。中国人の脱走者の頭をバットで殴った若い兵士は、仲間の兵隊たちが墓穴を埋めているとき、実際には「何も見ていなかった」。彼はねじまき鳥の声を聞きながら、その場にいた3人の運命を予見していた。
笠原メイの「モウソウ」もまた、直視や直面を避ける行為だ。妄想癖はもちろん、笠原メイの持って生まれた特性であると同時に、一種の自己療養として働いていることが暗示される。
一人きりで考えごとをすることが回復につながるのなら、シナモンが誰とも口をきかずに物語を紡ぎ続けるのもまた自己療養なのかもしれない。
シナモンが深く親密にコミットするのは、コンピューターを通して彼にとっての「ほんとうの現実」とたわむれているときだと「僕」は考える。
シナモンはコンピューター上の「別の世界」で「澄んだ声で能弁に語り、大きな声で泣いたり笑ったりしているのかもしれない」。「僕」はそう想像するわけだが、それはある種のメタバースのようなものかもしれない。
モニターの中の世界でたわむれるシナモン。山の中の工場でかつらを作りながら「モウソウ」を続ける笠原メイ。この二人が自己療養の途にあるのなら、二人の負った傷とは何か? それは他者の物語に飲み込まれた経験である。
ナツメグの夫(シナモンの父)は、謎の変死を遂げる。ナツメグの解釈に従えば、物語から出てきたものに殺されたということになる。
では、物語を共有してきた母子は、どうやって危険を回避したのか。ナツメグは語り部として「幻影と真実とのあいだに広がる薄暗い迷路」をさまようことで、物語に飲み込まれることから逃れたのかもしれない。潜水艦/動物園のスイッチングも、その回避のひとつと言える。これに対し、シナモンは母親と共有していた「神話体系のようなもの」の迷路に「飲み込まれて」しまうが、前述のように、その物語を自ら改変していくことで危険を回避し続けているのかもしれない。
笠原メイのケースはやや明示性を欠くが、序盤に以下のような記述が見られる。
ここには「僕」をかつて死の淵まで追い込んでやろうとしたことに対する悔悟のようなものは見られず、「会いたい」という愛着がまず示される。そして「あの路地を抜けて、塀をひょいと乗りこえて、ねじまき鳥さんと話をしたい」誘惑に駆られる。なぜ、「僕」と会うことが抵抗すべき誘惑になるのかというと、自宅のかいわいはすべて「ねじまき鳥さんの世界」に属するからだ。
笠原メイはおそらく本能的に、他者の物語に飲み込まれることを回避している。ここでは、その物語とは「僕=ねじまき鳥さん」の世界であるが、「僕」の世界はシナモンの「ねじまき鳥クロニクル#1〜#16」へも拡張されていく。笠原メイの手紙が一通も届かなかったのは、こういった拡大・変容する物語への包含を拒否した結果とも考えられる。もっといえば、「ねじまき鳥クロニクル#1〜#16」と本書『ねじまき鳥クロニクル』を隔てるものは、「笠原メイの視点」の章の有無だとも考えられる。
もう少し、笠原メイの手紙に注目してみよう。
シナモンの物語が増殖・改変を繰り返しているとして、その一部が「僕」に開示されたことで、「僕」のメインラインがさまざまなサブストーリーと連結し、歴史との接続を果たしていったのは、先に見てきたとおりだ。
これに対し、「笠原メイの視点」は手紙という形式をとるものの、不達のため「僕」への開示は行われない。その内容を知るのは筆者と読者のみだ。
笠原メイは物理的に「路地」のかいわいから距離をとる一方、山の中の、百五十人くらいの女性のみが働く工場という特殊な環境に身を置いている。彼女たちのほとんどが、結婚適齢期までのいわば「腰かけ仕事」としてかつらの制作に従事している。しかし笠原メイだけは「この仕事を全面的に受け入れようとしている」。かつらを作ることだけを「ほんとうにじっとりとからだに汗がにじんでくるくらいしんけんに」考えている。なぜか?
「ひとりぼっちで、誰からもどこからも五百キロくらい遠く離れ」たこの場所は、笠原メイにとっての「行き止まり」であり「世界の終り」なのかもしれない。
というのも、この章の、つまりこの手紙の末尾には唐突に「私はこれから一生処女のままでいようかなって思ったりもしています」とつづられる。バイクで亡くなった男の子のことを思い出してのことだが、「僕」をはじめ、あとに残してきた世界、つながりのある世界(路地、井戸、柿の木、自分の手でつくったかつら)が彼女を現実に結びつけている。そのように笠原メイは考える。これは、これ以上の変化をもう望まず、手元の材料だけでやっていこう、という意思表明ともとれる。これを「世界の終り」と考えて何か差し支えが生じるだろうか。
笠原メイがひとりぼっちでふける「モウソウ」のなかに、「ときどき自分がクミコさんになってしまったみたいな気持」も含まれることは先に述べた。
自身が「モウソウ」と呼ぶくらい唐突ではあるし、「僕」のストーリーのメインラインである「クミコを綿谷ノボルから取り返す」ことと関連があるのかもよくわからない。しかし、笠原メイのこの「モウソウ」は、208号室から帰還した「僕」が見た夢と重なる部分があることも確かだ。
ある意味では、「僕」が夢の中で「ひそかに予想していた」ことは、加納クレタと間宮中尉を物語のくびき、あるいは呪いから解放してくれている。少なくとも解放したいという「僕」の希望を感じる。同様に笠原メイは、クミコに対してくびきや呪いからの解放を試みたのかもしれない。ほかでもない「僕」のために。
彼女の「世界の終り」で、クミコは笠原メイに姿を変えて生き続ける。「世界の終り」の図書館の少女のように。だが本書の「僕」は、「こちら側」の深く損なわれた、現実のクミコを取り戻すことを選ぶ。
昼の国と夜の国の戦い
「僕」は綿谷ノボルとのチャットでの対決において、こう書き記している。
これはかつて加納クレタが告げた「岡田様が失っていく世界で、綿谷様は獲得していきます。岡田様が否定される世界で、綿谷様は受入れられていきます。またその逆ことも言えます」と、「僕」の叔父が「たっぷりと何かに時間をかけることは、ある意味ではいちばん洗練されたかたちでの復讐なんだ」と述べたことのミックスとなっている。
しかし、上記引用の「僕」の「推察」は、間宮中尉に制止された「想像」ではないのか。
「僕」が「想像」する綿谷ノボルの脅威には、「ねじまき鳥クロニクル#8」で示された、「ねじまき鳥」の「大きな力」も取り込まれている。
そしてもちろん、間宮中尉が手紙で明らかにした「暴力と血に宿命的にまみれ」た、「皮剝ぎボリス」の存在も取り込まれている*8。「僕」の「想像」は「いくつもの思いつきをひとつに繋げたもの」だが、それは自分だけで考えたものではないのだ。
想像することは確かに命取りになる。しかし、綿谷ノボルとの対決において、「僕」は「自分を空っぽにして」想像せざるをえない。
クミコを救うため「僕」は想像するリスクを取り、結果的に「いろんな人たち」の代理戦争を行った。これが間宮中尉がボリス殺害に「私が生きていた意味」を求めたこととの決定的な違いだ。
一方、想像とは「僕」が語ったように、思いつきの連鎖でしかない。「僕」は綿谷ノボルを「不特定多数の人々」から「歴史の奥にあるいちばん深い暗闇にまでまっすぐ結びつ」くものを利己的に引き出す者と断じて、排除する選択をとる。だが、これはあくまで「僕」の側から見た綿谷ノボルだ。
第1部において、1938(昭和13)年、ハルハ河畔で本田さんは「今ある歴史への改変」を試みた。すなわち「日ソの本格的な戦争」の回避だ。綿谷ノボルの伯父もまた、テクノクラートとして、ノモンハン事件後の対ソ戦の回避へと働きかけている。しかし、その結果、1945年敗戦間際でのソ連侵攻が成り、先に述べてきた本書のさまざまな人物の運命がほんろうされる。
当然ながら歴史への意識的な介入は、作用と反作用を招く。そのことに自覚的なのか否かは不明だが、綿谷ノボル自身は、少なくとも雑誌の誌面上では日本を変えようとしていると述べていた。彼のビジョンを改めて見てみよう。
綿谷ノボルによれば、いずれ機能不全を起こすであろう<共通プリンシプル>にとってかわる、「より高度な職能を持つプリンシプル」による正しい方向性の規定が喫緊の課題であるという。
「僕」はこれに対して、皮肉にも「だからどうすればいいと言うのだ?」とつぶやく。しかし、実際のところ、すでに21世紀に突入して久しい今日の日本に必要なのは、綿谷ノボルの言う「より高度な職能を持つプリンシプル」しかないのではないか?
「効率」は「経済的有効性」に接続する。戦後の歳月を通して、日本人はそれのみに拘泥してきた。これが綿谷ノボルの持論である。
しかし、現在、「経済的有効性」すら日本は失っている。綿谷ノボルが想定したよりも、もっとひどいことが現実的に起きている。
とするならば、今の我々の現実は「綿谷ノボル抜き」の世界なのではないか。「僕」の「だからどうすればいいと言うのだ?」という突っ込みに対し、強大な力の顕在化を果たした綿谷ノボルであれば応えていたのかもしれなかった。そんな綿谷ノボルを、「僕」は排除した。「僕」もまた本田さんと同様に「今ある歴史への改変」を試みた人物なのだ。
想像、思いつき、モウソウ。これらは非力な人間存在の大きな武器となると同時に、その行使は歴史や運命への挑戦の意味を持つ。たとえ、きわめて個人的な必要に迫られてだとしても、それは「昼の国と夜の国の戦い」なのだ。どちらがほんとうに正しい側なのか? モーツァルト『魔笛』の王子と鳥刺し男は途中でわからなくなる。それでも「お姫様を奪い返す」と決め込んだ者だけが、歴史へ挑戦する資格を与えられる。
*1 若手有力政治家・綿谷ノボルが「僕」の義兄であることが、スキャンダルを避けたいナツメグ/シナモンの手を引かせる。彼らの顧客か、パトロンなりが有力政治家筋であるからだ。牛河は調査を進めるうえでその存在に気づき、綿谷ノボルから鞍替えをする。こうして、ナツメグ/シナモン、牛河が一時退場することで「僕」はふたたびひとりきりとなり、「壁抜け」を達成する。また、綿谷ノボルが排除された世界では、おそらくその対抗馬たる、くだんの有力政治家が力を持つ。牛河はその下で暗躍するのだろう。つまり、牛河こそが「綿谷ノボル抜き」の世界である我々の現実に一番近いところにいる、現世的なキャラクターだと言える。
*2 綿谷ノボルの伯父は、『羊をめぐる冒険』の羊博士をほうふつとさせる。農林省のエリートであったかつての羊博士は、1935(昭和10)年春、陸軍の求めにより満州へ渡る。「中国大陸北部における軍の大規模な展開に向けて羊毛の自給自足体制を確立」するための現地視察だ。しかし同年7月、緬羊視察に出かけた羊博士は「羊」との間に「特殊な関係」を持ったのち、帰国。のちに「羊」は次の宿主である「先生」に鞍替えし、羊博士は「羊抜け」の状態のまま生きることを余儀なくされる。余談だが、本稿で何度か繰り返している「綿谷ノボル抜き」という表現は、この「羊抜け」と、同作で「僕」が口にする「羊抜きでね」というせりふから借用している。
*3 バットは「壁抜け」後、208号室で謎の女性から「プレゼント」される。血で固まった人間の毛髪つきで。
*4 「区営の二十五メートル室内プール」を何度も往復することは、そのまま井戸で壁抜けを試みる反復行為のアナロジーともなっている。
*5 笠原メイの「ミャクラク」を欠いた回想は、第2部において井戸の中で自身の過去にアクセスを試みた「僕」の姿に重なる。「僕」が思い出す近過去/遠過去はやはり脈絡を欠いていたからだ。
*6 10章の動物殺害のエピソードは、ナツメグが「僕」に語ったという体をとっている。とするなら、ナツメグは父である獣医の行く末はわからないとしつつ、ねじまき鳥の声を聞く若い兵隊がシベリア送りになることはわかっていた、ということになる。シナモンはそれに合わせて「ねじまき鳥クロニクル#8」(28章)において、そのほかの人物もシベリア送りになったという設定を付け加えたのだろうか。もしかしたらナツメグは、「青いあざ」「ねじまき鳥」などと同時に「シベリア(間宮中尉)」を「僕」から言外に感じ取ることで、話しながら物語を改変していったのか。そしてその改変は、もはや共有をやめたはずのシナモンの「ねじまき鳥クロニクル」にも即時反映されるのかもしれない。
*7 我々の生きている宇宙では、エントロピーは増大を続ける(こぼれたミルクはコップに戻らない)。しかし「世界の終り」において、エントロピーは増大した分だけ減少し、時間は進まない(こぼれたミルクを「獣」がコップに戻す)。これに対し、シナモンの物語ではエントロピーは増大するものの、宇宙そのものが変化を続ける(コップだったはずがマグカップになったり、そもそもミルクではなく水がこぼれたことになっていたり)……。こんなイメージだろうか。そもそもエントロピーの増大とは、「乱雑さが増していく」ということである。いってみれば、宇宙はカオスへとまっしぐらに進んでいる。「死」を有する我々生物だけが、そこに至るまでの「時間の矢」を想定し、カオスに秩序を与えようとしている。だから、ナツメグ/シナモンの物語は始原へのさかのぼりの試みなのかもしれない。
*8 「皮剝ぎボリス」は、どうしてもヒトラーを想起させる。ヒトラーについては、第1部で間宮中尉がちらりと言及するにとどまっているが、この20世紀最大の悪は通奏低音として本作全体を貫いている気がする。たとえば第1部においては、特務機関の山本が画策した工作が成功すれば、ドイツが早期に対ソ戦に突入した可能性が示唆される。また、第3部ではドイツの敗北がソ連の満州侵攻に現実味を持たせた。注目すべきは、両件とも結果的にボリスの権勢にとって好都合なかたちで落着している点だ。もしかしたらボリスは、ヒトラーから「何か」を継承したのかもしれない。その証拠に、ヒトラーが暗殺計画を「悪運」により回避したように、ボリスに間宮中尉の弾丸が当たることはなかった。なお、ヒトラーとゲッペルスが「メディアを通して、その拡大された力を広く社会に向けることができるようになった」ことは自明であり、「僕」はそれが綿谷ノボルにおいても起こると懸念している。つまり村上は、ボリスと綿谷ノボルの存在を描くことで、直接的にヒトラーに言及することなく、その存在と悪の継承を描いているのではないか。