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読解『生のなかの螺旋』①ーー情動

情動
一時的で急激な感情をとくに情動という。人間でいえば、喜び、悲しみ、怒り、恐怖、不安というような激しい感情の動きのことである。英語ではエモーションemotionで、その語源は、ラテン語で「揺り動かす」とか「かき回す」という意味である。

『日本大百科全書(ニッポニカ)』



ロバート・ノージック『生のなかの螺旋 自己と人生のダイアローグ』(井上章子訳。ちくま学芸文庫。2024)は、章ごとに性愛、幸福、親子、死にゆくことといった身近な題材を取り上げており、巻末の吉良貴之氏の解説によると、「かなり雑多な、それまで分析哲学ではあまり扱われることのなかった「人生哲学」的なテーマを多く取り上げている」とのことだ。
吉良氏によると、本書は同著者の専門的な研究書とは異なり、「文章も一般的に書かれて」おり、「何より、本書は読者を説得することを目的とするのではなく、考えるための材料を提供することを目指しているとノージック本人も述べている」という。そして「面白そうなところをつまみ食いしながら、引っかかったところがあればそこで自分なりの考えを深めるのに役立ててもらうのがよいだろう」と解説者は見解を述べている。

ということで、本稿では、著者および解説者の意向をくみ、考える材料のひとつとして、本書の「情動」の章を読み解いていきたい。

ノージックは情動について議論を進めるため、「高慢」という情動について考察していく。その「高慢」は、辞書で引くと以下のように定義されている。

高慢
自分は才能、能力、容貌などがすぐれているとうぬぼれ、得意がること。また、そのさま。

(日本国語大辞典)

ノージックはその「高慢」の例として、「1週間で本を3冊も読んだ」というケースを挙げている。

仮にあなたが先週本を三冊読破したので自慢に思うと言うと、わたしがそれは記憶ちがいで、わたしがかぞえたところ先週あなたはただ一冊読んだだけだ、と言うとする。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』(ちくま学芸文庫) p160)

いきなり不思議な前提ではある。もう少し先まで引用しよう。

あなたはその訂正を認めるが、それでもなお三冊読んだから自慢に思うと返事する。これはひとを混乱させる。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』(ちくま学芸文庫) p160)

確かに読者も混乱させられる。
これについてノージックは、「何かを自慢するためには、それが実情と考えるか信じるかしなければならない」という。つまり、「一冊読んだだけ」という指摘を認めた「あなた」は、「それでもなお三冊読んだ」ことを事実として認めることも、信じることもできない。だから、自慢は成立しなくなるわけだ。その結果、「あなた」がどのような感情を抱いていたとしても、それは「高慢」とは呼べない。

「高慢」について、ノージックはさらに「評価」つまり価値軸を持ち出す。下記も同じ3冊の本の例だが、「あなた」はたしかに3冊を読んでいる(あるいはそう信じている)ことが前提だ。

仮にあなたが当の三冊の本を読みその自慢を吹聴したときに、わたしがそれはすこしも自慢すべきことではないと言うとき、それは三冊の本を読むことが悪いことで、(中略)仮にあなたがこの評価を受け入れ、悪かったと認め、にもかかわらず三冊読んだことを自慢に思っていると言うとしよう。わたしは混乱して、あなたが集中している行動に何かよい面、慣習を軽蔑する勇気などのようなことがあるのか、と訊く。あなたはどれも悪いが、それでも、したことは誇りに思う、と答える。ここでもまた、あなたの感じていることは何にせよ、高慢ではない。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』(ちくま学芸文庫) p161-162)

引用の「中略」部分では、一週間に本を3冊も読むことの価値を否定する理由が述べられる。すなわち、

・何かを三つまとめてすることが悪い
・本というものが悪い
・あなたがそれらの本を読んだことが悪い
・何かほかのことをして時を過ごすべきだった

これらの理由を根拠に「三冊の本を読むことが悪いこと」だと「あなた」が認めたとき、自慢は成立せず、「あなた」の感じているものは「高慢」ではなくなる。

ここまでの内容をまとめてみよう(というか著者がまとめてくれている)。

何かについて高慢であることは、それがそうだと信じること、また積極的にそれが貴重であるか、よいか、賞賛をされることか、であると評価することである。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』(ちくま学芸文庫) p162)

ややこしいが、ふつうは「たしかに3冊読んだ」という信念を否定されることはないし、「3冊読んだのだからすごい(だろう)」という価値観を否定されることもない。ということは、ふつうは「あなたが三冊の本を読んだという信念およびあなたのその行為をプラスに評価すること」が自然発生的に成り立つだろう。
さらに同時にこのとき、

おそらく、ある感情、ある興奮、ある内的経験も伴うであろう。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』(ちくま学芸文庫) p162)

ノージックは、これら(感情、興奮、内的体験)を「高慢」という情動にするためには、特定の信念や評価と結びつくことが必要だとしている。

もっとも単純な結合は、その信念、評価が感情にまでたかまるときであり、すると人は自らの信念、評価のゆえにその感情をもつことになる。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』(ちくま学芸文庫) p162)

堂々めぐりのようだが、どういうことだろうか。
つまりノージックは「信念」(たしかに3冊読んだ)、「評価」(3冊読んだからすごい(だろう))が、「感情」にまで高まることがある。だから、「信念」「評価」と「感情」が結びつき、情動(ここでは「高慢」)が生まれる、と言っているのだ。これが「もっとも単純な結合」である。

もっとも単純というからには、もっと複雑なケースもある。
たとえば思考実験として、本を3冊を読んだ「あなた」に電気的化学的刺激を与えて胸部に興奮を生じさせ、感情を一時的に高めたとしよう。すると、信念や評価なしに「あなた」は「高慢」になれるのだろうか。その答えはこうだ。「あなた」がその感情の高ぶりを「信念、評価のせい」と考えれば「高慢」へ至る。

こう考えると、情動にはいくつかのパラメータがあることがわかってくる。それが「信念」「評価」「感情」だ。著者はまず、これらのパラメータによって情動が「エラー」(と仮に言っておこう)を起こす可能性を3つ挙げている。

・「信念」の虚偽 …1冊しか読んでいない
・「評価」の虚偽または過誤 …3冊読むことに価値がない、あるいは悪である
・「感情」と「評価」のアンバランス 

最後の「感情」と「評価」のアンバランスについては、面白い例が挙げられている。
たとえば「わたし」が道で1ドル札を拾ったとしよう。1ドルはたいした額ではない(評価)。にもかかわらず「わたし」は無常にうれしい(感情)。これは情動のエラーである。つまり「評価」と「感情」に一定のバランスがともなわないと情動には発展しない。たしかに1ドル札を拾って、ものすごい多幸感を得られることもあるかもしれないが、それはただ「おめでたい」だけだ。

情動がエラーを起こさないケースについては、逆を考えればいい。
つまり、「信念」「評価」「感情」の均衡が保たれている状態だ。

・「信念」が真 …たしかに3冊読んだ
・「評価」が正しい …3冊読んですごい(だろう)
・「感情」と「評価」のバランス …相応にうれしい

この信念、評価、感情の「三重構造」においては均衡がとれるケースより、むしろ均衡が取れないケースのほうがありふれているかもしれない。
たとえば、妥当な評価が得られない場合(過剰に持ち上げられる、逆に過剰におとしめられる)。褒められても(もしくは、けなされても)感情が動かない場合などだ。この状況はわれわれにとって苦しい。なので、結果、われわれは「信念が真であり、評価が正しく、感情が(評価と)釣合いを保っていることを望む」。つまり「三重構造」が均衡を保っている状態を望む。

ここでもう一度、三要素のひとつ「評価」に注目しよう。
実社会において「客観的に正し」い評価があまり期待できないのは、実感としても理解しやすいだろう。そこで仮に、評価の「最強の基準」をはじき出しくれるスパコンと自分をケーブルで結んでみるとしよう。そして、その基準を満足させる評価を「最善の種類の評価」と考えてみよう。

するとどうなるか。「最善の種類の評価」は、きわめて特殊である。まずめったに与えられない。
最善は望めないとすると、次に求めるのはなにか。それは「きわめて積極的(またはきわめて否定的)な評価」である。この「評価」というパラメータは「感情」とバランスが保たれている必要があった。そのため、「きわめて積極的(またはきわめて否定的)な評価」には相応の感情の大きさが伴う。
「幸福」という情動を例に整理しよう。

幸福(強烈な情動)= 信念 × きわめて積極的な評価 × 大きな感情

ここでノージックが言っているのは、「幸福」は哲学の伝統において「特別な中心的な地位を与えられてきているが」、「きわめて積極的な評価」さえ与えられれば生じる、「強烈な情動」のひとつにすぎないということだ。

一方でノージックは、人生において大切なのは、幸福のような「多くの強烈で積極的で剴切(がいせつ。非常に適切)な」情動を持つことであるとしている。
ここでノージックはまた面白い例を出す。テレビ番組『スター・トレック』の登場人物・スポックを取り上げるのだ。スポックは「正しい信念、正しい評価をもちそれに基づいて行動するが、かれの生活には情動と秘められた感情が欠けている」。
つまりスポックには信念、評価、感情の「三重構造」のうち、最後の感情が欠落しているが、そのおかげで感情にしばられることなく、信念と評価の二つの基準に基づいて行動を決定できる。
そうすると感情なんかないほうが、いいような気もしてくる。それでもなお、なぜ「人間であることを、特別に高く評価しなければならないのか」。

情動はある種の価値の画像をととのえる、とわたしは思う。それらの情動は、外側の価値へのわれわれの内側の心理生理上の反応、その価値に起因するだけでなくそれのアナログ表示であることによって特別に密接な反応である。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』(ちくま学芸文庫) p170)

ノージックはまずわれわれの「外側」と「内側」を分けて考えている。「外側」にあるのが価値だ。その価値に対してわれわれの「内側」が反応をするが、そのときに外側にある価値を画像として表示すると考える。そのときに情動は、「アナログ表示で」画像を結ぶ。

ここでいう「アナログ」は、わたしたたちが日常的に使う「アナログ」「デジタル」の二項対立のそれと考えてよい。雑にいえば、たとえば音楽再生においてはいまだにデジタル音源(CD、サブスク配信など)よりも、アナログ音源(LPなど)のほうが音の波形をよりナチュラルに表現するとされていることと同様だ(デジタルはどこまでいっても曲線を直線で表すようなものだ。これはフィルム写真(粒子。丸)とデジタル写真(画素。四角)の差異にも相応する。いずれにしても、ここではアナログの「温かさ」「味」のようなものではなく、再現性に終始していることに注意しよう)。

ここでノージックは、またしてもユーモラスなたとえを持ち出す。

仮に、ある地球外生物が何かを表現するダンスをして外的価値を表出することができても、アナログ運動はまだ複雑微妙な感情あるいは情動自体を何ひとつもってないと想定してみよう。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』(ちくま学芸文庫) p171-172)

もう一度「信念」「価値」「感情」の三層構造に立ち返ると、地球外生物は「価値」のあるダンスをしているが、「感情あるいは情動自体」は持っていない。このときでも、彼らのダンスに「情動は一切含まれていないという想定は拙速に過ぎる」だろう。
著者はいったん異星人を離れ、作家の例を持ち出す。

作家がときには、かれらのもっている情動などというものは全くなしで、表現を行なっていると力をこめて書くことができたり、あるいはむしろ、書くことそれ自体が、まさにかれらの情動の在る場所であり、どこか内部の心理上の出来事の中ではなく他ならぬその頁においてである、とするならば、そのときはおそらく火星人もまた、かれらのダンスの動きの中に、情動をもつことができるだろう。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』(ちくま学芸文庫) p172)

これは重要な示唆だ。つまり書き手の心のうちに情動があろうとなかろうと、書く行為や書いたものに情動が存在すればよい。というか、それが正常だ。読者にとって作家の心のうちはもはや問題にならない。
そう見てくると、地球外生命体のダンス(行動)に情動が存在すれば、彼らの内部の心理上に感情や情動がなくても、われわれが彼らのダンスを受容するのになんら支障はない。彼らのダンスが「アナログ」を与えてくれればいい。

適合するある強烈な情動は、特定の価値への密接な反応であり、またそれ自体において価値がある。それは、その価値の存在に依存しその道筋をぴたりと追う価値のあるアナログ型を用意する。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』(ちくま学芸文庫) p172)

これは何を言っているのか。
ふたたび作家の「書く行為」や「書いたページ」、宇宙人のダンスの例に戻り、それらのなかには確かに情動があるとする。その場合も含め、情動は「特定の価値」にぴったり寄り添っているため、情動そのものにも価値が生まれる。価値にぴったり寄り添うアナログ型を持つ。そのためそのアナログ型も価値を持つ。
ここまで言ってしまってよいかわからないが、情動は外的価値のコピーをわれわれの中に生む。このコピーはアナログなのでデジタルよりも情報量が多い(アナログレコードをすぐれたオーディオ装置で再生したとき、CDなどのデジタル音源よりも再現度が高いことを考えてみればよいかもしれない)。

ここでノージックはさらに問う。こういった「価値に適合する反応」はそれ自体価値あることであるが、これらは「われわれのために価値があるのだろうか」と。
つまり、価値への適合反応は、われわれの「心理生理的構造内部において生起」してしまうため、選り好みができないのではないか?
たとえば「あなた」の体が、微小な生物が生きる舞台として用いられるとすると、「宇宙」という視点では最上の価値を生み、最善かもしれない。しかし「あなた」という視点に立てば、微生物のせいで致命的な病気になってしまうかもしれない。つまりこの事態は「あなた」にとっては最善ではなくなってしまう。

とはいえ、この例はあまりにも受動的すぎる、とも著者は言う。われわれの能力の多くは、価値に情動的に反応するときに引き出されるからだ。その能力の中には

・価値を認めそれを賞味できる能力
・評価判断を下す能力
・協力を感じる能力

などが含まれる。言い換えれば「価値をとりにいく」ときのほうがこれらの能力が発揮しやすい。「価値への感触をもった存在」だけがそれができる。
しかし、それでもなお、何が「あなた」や「われわれ」にとって価値を持つか。その線引きは非常に難しい。

もしもアリストテレスが考え、最近ジョン・ロールズが強調したように、価値ある対象にわれわれの入り組んだ能力を行使することがよいことならば、たしかに、それはわれわれのためによい。すると情動は、価値ある生活の重要な一部分ということになるだろう。さらに、これらの情動は、われわれの内部にそれらが反応すべき価値を再創造する。少なくとも、情動はその価値のアナログ型を創造するが、このこともまた価値がある。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』(ちくま学芸文庫) p174-175)

「もしも」というように著者はやや否定的だが、アリストテレスはどんな価値であれ、その対象にわれわれの能力を行使することを「よいこと」とした。だから情動は「価値ある生活」において重要な要素となる。
その前提にのっとって議論を進めると、情動が反応するのは「われわれ」の外側にある「価値」であると同時に、情動そのものがその価値を「われわれの内部」に再創造する。そこまでいえなくても、価値にぴったり寄り添うアナログ型を作ってくれることは確かであり、アナログ型は価値を持つ。

ここまではアリストテレスの言っていることを認めたうえでの論だ。ここから何が導かれるかというと、「価値ある対象」に対して上記引用を実現可能にするような「入り組んだ構造」をわれわれは自らの内部に持っているということだ。

この「入り組んだ構造」をわれわれはある価値に対して能動的に用いることができる。その結果得られる「価値の情動型」には、外側にある価値と「同一の特性のいくつかをもつことによって自らの価値をもつ」。情動はつまりわれわれに価値の創出をもたらす。価値の創出者であることは、われわれの特別な価値の一部である。

これで、あのスポック問題への付加的でより短くさえある回答にわれわれは辿り着いた。情動は数多くのものごとをつくる(中略)よりいっそう価値があり、いっそう強烈であり、いっそう活きいきしたわれわれ自身をつくる。

(R・ノージック『生のなかの螺旋』(ちくま学芸文庫) p175)

人生において大切なのは、「多くの強烈で積極的で剴切(非常に適切)な」情動を持つことであるーー。これをノージックは「リルケがとりあげて描写するであろうようなものをふくめて」と述べている。
「スポック問題」つまり、「何故、情動は、正しい評価よりも高くまたそれを越えて、重要なのか」に対する答えは、「強烈でぴたりと適合した情動はわれわれをもっと大きな存在に」してくれる、ということなのだ。

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