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『すずめの戸締まり』を前二作と比べて考えてみた

すずめの戸締まりを観たのだけど、「よかった!」とスッキリした感想を抱く事ができず、考えを整理するためにも文章にしてみようと思い、初めてnoteに手を出した。

ということで「すずめの戸締まり、私はこう見た」というのを「新海誠 震災三部作の締めくくり」かつ「前二作へのセルフアンサー」という視点で書いてみる。
※歯切れが悪くなるので決め付けたように書くけど、個人的にどう見たかの話です。
※ネタバレありです。

『君の名は。』 と比較して

災害映画として

「君の名は。」も「すずめの戸締まり」も、隕石に置き換えたか直接描いたかの違いはあれど、共に311をテーマにしている。
311をエンタメとして扱うことがやっと許されてきた頃に、「シン・ゴジラ」と同時期に出てきた「君の名は。」
「シン・ゴジラ」が「これは無理かも…」な絶望感と「それでも生きてくぜ!」な強さを感じさせるのに対し、「君の名は。」は「大切な何かがポッカリ無くなってしまった」と言う喪失感と「こんな風に救えてたらなぁ…」と言うセンチメンタルを感じる。
この喪失感や繊細さが、新海誠の作風とも、あの当時の日本人の(震災に対する)感覚ともマッチしたように思う。

それに対し「すずめの戸締まり」は、主人公を被災の当事者とし、過去の喪失を乗り越え、さらに未来にも立ち向かう。
「君の名は。」は出会うはずのなかった三葉と時空を超えて出会う(そして失う)話だったが、鈴芽が失った母親に再会することは無い。安易に母親との感動シーンなんかを描かない所がいい。
乗り越えるには、感傷では無く、自分と向き合って受け入れる必要があるのだ。ただ、それは孤独な旅路ではなく、沢山の人の支えがあり、寄り添う人がいる。
これは、これから日本のどこでも起こり続ける災害、誰にでも起こりうる巨大な不幸についてのメッセージでもある。
このテーマは、「君の名は。」の公開当時ではきっとまだ早過ぎたと思う。人々はまだ感傷に浸っていたし、前向いて次の話をされても受け入れられなかったのではないか。後述の「天気の子」も含めて、日本人と災害との距離感が大きく変化した時代の映画だ。

主人公の視点

また、描かれているテーマと連動して、誰に対するメッセージなのかも変化している。
「君の名は。」は被災当事者ではない瀧くん視点で描かれている。瀧くんに関しては、彗星落下の被災地を覚えてないくらいの第三者代表だ。当事者でない人に向けて、「もしも入れ替わったら」「失われた人や場所は、出会うはずだったものかもしれない」という投げ掛けで、当事者意識を持たせていく。
対して「すずめの戸締まり」は、被災者の鈴芽が主人公だ。一緒に旅する草太は災害の専門家だし、幼い鈴芽を引き取って育てた環ももちろん当事者と言える。唯一の第三者は草太の友人、芹澤。芹澤は変わり果てた被災地を見て「こんなに綺麗な場所だったんだな」と(被災者の前で)言ってしまえるくらいの第三者だ。福島の原発付近が描かれているが、これが石巻などの津波被害地だったらより一層ゾッとするシーンになっていたに違いない。瀧くんが彗星を「美しい眺めだった」と言うのとも対応させているのだろう。そして声優は芹澤も瀧くんも神木隆之介。キャラ違うのに立ち位置は同じ、かつ愛せるキャラにしてくれる神木隆之介凄い。
ちょっと脱線したが、とにかく芹澤は脇役であり、被災者目線での被災者へのメッセージを届けているのが「すずめの戸締まり」である。そして同時に、「どこの扉が開くか、、次はあなたの番ですよ」と投げ掛けることで全国民を当事者にする。
この311被災者目線というのがこの映画の肝であり、それによって感動的な強いメッセージを発している、と第三者の私は感じた。それと同時に、本当の被災当事者が見たら、どう受け止めるのだろうかとも思ってしまった。
鈴芽は被災者の一例であって、ほんとに普遍的に届くメッセージだったのだろうか。途中までの鈴芽同様、生き残ったことで自分の命を軽視してしまっている人、生き残ったことに罪悪感すら感じてしまっている人はどう受け止めたか。あるいは、親を亡くした子ではなく、子を亡くした親だったら。
だからダメ、と思ってるわけではない。でも、現存している具体的被災者を扱った大衆作品で、311を描くことへの責任や覚悟を感じる映画だからこそ、モヤモヤ考えてしまったのだと思う。

『天気の子』と比較して

やはり災害映画として

「天気の子」も災害を扱った映画だが、「君の名は。」や「すずめの戸締まり」、「シン・ゴジラ」とは扱い方が異なる。これらの作品で描かれる災害は、一瞬で「いっぱい人が死ぬ」災害だ。
それに対し「天気の子」はずぶずぶと年月を掛けて侵蝕されて、日常が変わっていく。具体的な不幸や死者も描かれない。
「シン・ゴジラ」では一気に東京が壊滅し、そこからの復興が目指されるところだが、「天気の子」では水没していく東京に人々が適応していく。
「シン・ゴジラ」や「君の名は。」を経て、その3年後に描かれる“東京壊滅”として、個人的にはとてもしっくりきた。災害との距離感がマッチしているように感じた。

311後、日本人は「この場所も無くなるかもしれない」という感覚を持ったと思う。その後、地震はより意識されるようになり、温暖化による(?)気候変動、毎年の水害、火山噴火などを経験して、ある種の危機感は覚悟になり、そして受容にさえなった気がする。
311直後は、放射線の恐怖から移住を考える人もいた。しかし今では「いつか現状は失われる」と承知した上で「まぁ、1週間分の備蓄はしておくか」と言う感覚ではないだろうか。少なくとも私は、「天気の子」のこの感覚に共感した。

セカイ系として

また、「天気の子」のもう一つの特徴は、セカイ系的な部分だと思う。(詳しくないので間違ってたらすいません!)
「君の名は。」では、2人のセカイがうまくいくことと、世界が救われることが、同じ方向にある構造だった。もうすぐ隕石が落下すると言う時に2人が悠長にイチャつくのも、世界を救うためだから許される。
それに対して「天気の子」は真逆で、世界を犠牲に2人のセカイを守る。大ヒット作の次にこの振り切った映画を作ったのは凄いと思った。若者へのメッセージとしてもいいし、だからと言って主人公たちが無責任に描かれないのもいい。大人たちの寛容さも、そうあって欲しいと思う。そしてそれが作品上成り立つのは、ここで描かれる災害が前述のようなものであり、またこの災害描写が受け入れられる時期になっていたからだと思う。

対して「すずめの戸締まり」は、セカイ系的要素が少ないように思う。前二作と比較して、草太はそこまで重要人物ではない。「2人のセカイ」と言うよりは、鈴芽が様々な人と関わり合っていくもう少し開かれたセカイで、草太はその中の比較的重要な1人に過ぎない。「天気の子」は「君の大丈夫になりたい」話だったが、「すずめの戸締まり」は「自分が大丈夫になる」話だ。
発展しているし大人な着地ではあるが、新海誠作品としてはちょっと薄味で寂しい気持ちにもなってしまうところだった。

弱者の犠牲について(ダイジンの解釈)

あと個人的には、「天気の子」は社会的弱者が救われる物語でもあると感じた。晴れ女の陽菜は弟と二人暮らしで、年齢を偽って働くような貧困状態。「子供の貧困」ともちょっと違うかもしれないが。

災害における社会的弱者やマイノリティについては、園子温監督の「希望の国」を思い出す。原発事故の危険区域境界線で暮らす酪農家家族を描いた2012年公開の映画だ。老夫婦は牛を置いての立ち退きを迫られ、息子夫婦は放射能恐怖症になる。ここで詳細は書かないが、印象的なセリフとして「杭が打たれる」と言うものがある。ここでは「危険区域立入禁止」の杭が打たれるのだが、それだけではなく「人生では何度も理不尽な杭が打ち込まれる」と言う。酪農家のような一次産業が、自然や国家政策などの大きな力に振り回されてきたことを感じさせる。
社会的弱者やマイノリティは、ただでさえ自分の意思よりも大きなものに振り回されているが、災害などがあるとより一層蔑ろにされ、取り溢されがちだ。
国家や組織の大きな決定、多数派から見た常識、最大多数の最大幸福的なものの犠牲になる。
「天気の子」の陽菜も同じように、杭を打たれることから逃れようとするも、最大多数の犠牲になってしまう(しかもそうとは気付かれない)存在だと思う。並列で語ったら園子温には怒られそうだけど。
「希望の国」は厳しい現実を突き付けながら希望を見い出そうとするが、「天気の子」は陽菜を人柱にさせないラストを希望を込めて描いている。


そして「すずめの戸締まり」はと言うと、「草太も鈴芽も人柱にならないけど、ダイジンが猫柱になる」だった。「天気の子」の次作としては、確かにそうなるかぁと言う結末ではある。
まず、前述したように「天気の子」で2人のセカイを守って世界を犠牲にできたのは、具体的な不幸や死者が描かれない災害だったからだ。もし1人でも死者が出たり、親子が引き裂かれたりするシーンが入っていたら、あのカタルシスは得られないだろう。
今作では311と言う具体的被害を扱った上で、「主人公も救いながら世界も守る」話となった。だが「君の名は。」とも違い、やはり誰かが犠牲になることで回っている社会が描かれる。
そもそもの所で言うと、草太は人生を犠牲にしながら閉じ師をやっている。ギリギリ両立してるっぽく描かれてるが、教師もプライベートも閉じ師も、なんて出来るのだろうか。よりによって教師…。
そしてそんな草太を人柱にしないために、鈴芽は自分の命を差し出そうとする。でもやっぱり生きたい、人柱で成り立つ世界なんてもう嫌だ!そこでダイジンが犠牲に。うーん。ダイジンをどう捉えればいいのか…。

「鈴芽の手で元に戻して」と言っているように、「元々犠牲になっていた存在」「今さら救えない過去の犠牲者」と捉えればいいのだろうか。
「うちの子」になれなかった存在と言う意味では、身寄りが無い陽菜と同じだ。
そう考えるとダイジンは救われなかった陽菜(的存在)で、その存在を忘れることなく、「もう犠牲は出さない!生きたい!」と言うことだろうか。
「天気の子」と対比して見ると、「それって何も言ってなくないか」と感じてしまうのである。
単に、過去の災害や過ちを風化させないと言うエピソードの念押しだとしたらちょっとクドい気もするし、「天気の子」と人柱繋がりにする意味合いも薄く感じる。
このダイジンのラストが、私の最大のモヤモヤポイントなのである。

いろいろ考えてみて感想

いろいろ文句みたいなことも書きましたが、これだけ考えて書かざるを得ない気持ちになるくらい、いい映画でした!これからも繰り返し観て考えたり感じたりするんだと思います。
ちなみに一回目、4歳の息子を連れて観に行った時は、東京の大ミミズで怖がりはじめ、草太のおじいちゃんが怒りだしたところで「もう観たくないぃい!」と叫んでギブアップしました 笑

頭を整理してるうちに長文になってしまいました。ここまで読んでくれている方がいましたら、本当にありがとうございますm(_ _)m 

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