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荒野のおおかみと無印先生-受験生の読書録-
ーこの記事は荒野のおおかみ(ヘッセ作)を読んだ感想文である。
※私以上に深く考察するひとは星の数ほどいるだろうから、高校生としての私的な視点で、特に視野を広げることなく、この感想を書いてみることにする。
あらすじ
これはヘッセの自伝である。
自称「荒野のおおかみ」のハリー=ハラーという人物は、非常に精神的で教養高く、それゆえに物質的すぎる市民的な生活に馴染めなかった。
彼は、自身が大衆から孤立していると考え、その考えを好み、けれど一方で市民的生活に対する尊敬と憧れをもっていた。
彼は、彼の人となりと行為との一半をもって攻撃し否定したことを、他の一半をもって常に承認し肯定した。
市民的生活に自分を置くことを拒否したのが彼の呼ぶ「おおかみ」としての内面の一半であり、それに憧れたのが「人間」としての一半だった。
この二面的な性質の矛盾により、彼は苦しんでいる。
その苦しみをどう乗り越えるか、というのがこの作品の追い求めるところであり、ヘッセ自身も求めていた答えだろう。
(補足:二面性、と言ったが、現代人がひとつとしか考えられない自己は、本当は数え切れないほど多元的であり、内面がいくつに分裂しているか考えるのは無駄で愚かしいと作中で言っている。)
ある日見た、「入場は、狂人だけ」と書かれた、彼の理想を体現するような魔術劇場を求めて孤独に彷徨う彼は、ヘルミーネという踊り子と出会い、官能の世界に誘われて、悲観的な生活に変化が起こる。。。
以下結論&ネタバレ
↓↓↓
ヘルミーネや、彼女の友人のパブロやマリアは、構造としては市民にすら属さない踊り子や楽士の位置を占め、物質ではなく官能に生きていたから、精神に生きるハリーの啓発(堕落ともいう)に一役買った。
しかし最終的に、ハリーもヘルミーネたちも、市民的な生活から疎外されたアウトサイダーであり、この世での居場所はない、という悲惨な結論に至る。
これに対しハリーは「畜生、かみそりだ」と自殺することへの憧れやこの世での絶望を顕にするが、ヘルミーネは、死ぬことが最終的なゴールだとする立場を同じくしても、今の生活を刹那的、享楽的に生きているため、絶望することはないと説く。
結論
ハリーは、夢で、精神的に高尚に生きたにも関わらず天寿を全うしたゲーテの矛盾を、不誠実である、と不遇な自分と比較して憤るが、ゲーテはお茶目に言う。
「あんまり老ゲーテをまじめに取ってはいけないよ」
そして、ユーモアをもって生きる姿を見せる。
魔術劇場の中で、ハリーの人格は分裂し、非常に多元化されることで、自己破壊と再生が起こった。
魔術劇場は、今までの固定観念をぶち壊し、完全に狂人として振り切れるための劇場だったのである。
劇場の中で再度あらわれたゲーテは、市民生活を捨てきれないハリーにユーモアを語った。
要約すると、
「最大なものを目指す使命を阻まれた人間の、ほとんど悲劇的な人間の、きわめて才能ある不幸な人間の発明であるユーモアだけが」市民世界で生きるために役立ってくれる。
というのがこの作品の答えである。
(が、結局ハリーは自分をまじめに取りすぎる自己中心ワールドから抜け出せなかったために、死刑台の上で嘲笑される罰を受ける。 Bad end.)
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まとめ
人里で生きる狼さんには、自分を笑い飛ばせるだけのユーモアセンス=自分を客観視できる能力が大事だよ!
感想
「荒野のおおかみ」は、文明の発達により物質的になった中で無反省に生きる現代人を批判する作品、と一般的には言われている。らしい。ウラに書いてあった。
歴史的意義を考えればそれが模範解答だが、完全な私小説と考えると、それはそれで「自己中心的すぎて自分を客観視できない自分を客観的に描く」というどこまでも自己中心的な愛おしい試みだと思う。
私もハリーほどではないが、精神的高尚さというものへの憧れと、物質的すぎる生活(特に今の受験期)における無自覚な鈍さへの軽蔑をよく感じる。
ただ、そういうものを感じてばかりでは、本当にネガティブ自己中おおかみさんになってしまうので、悩んでいたところではあった。
だから、そうかユーモアが大事なのか、とそのまんま答えを教えてもらえた良いタイミングだったと思う。
そんなナイスタイミングで「荒野のおおかみ」を読むよう私に勧めてくれたのは、無印先生と呼ばれる国語科教師だった。
丸メガネにマッシュヘア、ダボダボファッションで雰囲気が無印良品のそれに近い彼は、私が宗教文学に興味があるというと、リルケや遠藤周作と共にこの本を推してくれた。
現代的な装いの彼からそんな古典的なセンスが出るとは思わなかったので驚いたが、国語科には確かにそういう人が一人くらいいてくれなくてはとも思う。
きっかけは、私がビブリオバトルにデミアン(ヘッセ)で臨んだことだった。
そういえば、デミアンでも「生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない」と自己創造のための自己破壊について語られていた。
良い本は良い出会いを生むという私の浅い哲学の始まりである。
彼とはそれが縁で話すようになった。
彼がそれを失念していたのか、あるいは狙ったのか、真意はわからないが、アイデンティティ形成期である高校生にこれを読ませると、おおかみとして生きたい欲求に駆られて市民的な生活を放棄したくなる。
少なくとも私はそうなった。
どことなくでも、おおかみの切れ端を抱えながら現代社会に生きるタイプの人は、こうして痛烈に物質社会を批判できる立場にいる、振り切れたハリーに憧れるのではないか。
(実際に振り切れたのは魔術劇場に入ってからであるが、義務や責任につきまとわれる現代人からすれば既に十分振り切っている)
ドイツ文学が自己形成小説、教養小説と総称されるのもよくわかる。
青年の自我の形成に携わるのはひととして尊いことだが、無印先生は教師の立場からこれを薦めてくれたわけではないのだろう。
同好の士がほしかっただけか。
まぁそんなところが私が先生を好ましく思う理由なのだが。
次は虐殺器官(伊藤計劃)について、時間がある時に書いていこうと思う。
それでは〜ここまで読んでくれてありがとナス〜