最後の将軍

司馬遼太郎さんの作品。今からもう60年近くも前の作品なんですね。

私は齢40にして娘を授かりました。

さすがに40コも離れていると言葉のギャップが結構あって、戸惑うことがしばしばあります。

新語なら「ああ新語だな」と思う程度で、そりゃそうですよね、初耳なんですから評価の下しようがありません。

でも既存の言葉を「ああここでそれ遣うか」みたいな時は目からウロコで、特に「無理」の遣い方に思わず笑ってしますことがしょっちゅうあります。

「今日は風呂を洗いたいからさ、先に入ってよ」「無理」

「イヤだ」じゃないんですよ。自分の気持ちや感情の吐露ではない。

「無理」には第三の目、俯瞰してその状況をより客観的な視点から眺めている存在を感じますよね。

でこれは若い人特有の言い回しだと思ってました。少なくとも私の若い時にこのような言葉遣いをするのは一般的ではなかった。

それが今から150年前、徳川慶喜というその時代を代表する秀才が、松平春嶽というこれまた時代を代表する賢孝に、将軍職への即時襲名を打診された際、

「無理です」

とにべもなく断っているではありませんか。なにもかも無理、と。

イヤだから、将軍にはなりたくないから何とか言って断らなきゃいけない。はて何と言おう。

の果ての「無理」です。

これはまやかしかもしれません。今の自分の立場で「イヤだ」とははっきり言えないから、神の目線を借りて「無理」なんだと、今は将軍という地位を云々かんぬん言ってる場合じゃないんだと、理屈を捏ねる道具として遣っているだけなのかもしれない。

それに、これは司馬の創作の可能性が極めて高い。実際に本人がそう言ったかどうかは極めて怪しい。

でも少なくとも、国民的作家司馬遼太郎が徳川慶喜という人をどう捉えていたかということは分かります。この一言に要約されているとまで思います。

時代に翻弄されながらも、自分を周りの人間とは一線を画する人物として捉え、常に自分が歴史上どう見られるかを意識して行動した男。

まあ仲間うちには優柔不断で非情な男だったかもしれませんが、それこそ歴史を俯瞰して見れば、彼がその時にそこにいたからこそ日本は分裂を免れたのかもしれないし、そういう意味ではスーパーヒーローかもしれない。

友達にはなりたくないけど、あくの強い、おもしろい人物であることは間違いないようです。

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