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ボリュームを一つ上げる 〜神はサイコロを振らない〜

 朝井リョウさんの「正欲」を読んで心が粉砕された。今も若干それを引きずりながら書いてる。 

小説、映画、LIVE。それらを見て感情の全てが木っ端微塵にされる感覚がたまにある。

その時に見てるものは到底自分の想像できないような世界を生きてるマイノリティ人間の叫びのようなものを描いた作品が多くて、見るたびに「自分って本当にちっぽけな存在だなぁ」とか一丁前に考えを巡らせてしまい、いつもの思考癖が始まる。

思考癖は答えに一直線に行くのではなくて、大きな円をぐるぐると回り続けて答えに行きつかないことが多い。作品を見た後の思考のループは必ずと言っていいほど生活に支障が出る。

そういえば、この現象って一体なんなんだろうか?



 作品としての表現なことは承知してるのに思慮深い性格が裏目に出てしまって思い詰めてしまい、この現象は10日は続く。

その間街を歩く人を見て「あの人はもしかしたら壮大な人生を生きてるのかもしれない」とか「あの人はもしかしたら複雑な事情でこの街にいるのかもしれない」とか、時には絶対にないであろうことまで想像してしまって気疲れを起こしてしまい、倦怠感が体にまとわりついて離れなくなる。

その結果、仕事や生活に支障が出てしまう。
ぼーっとして仕事をしてたら上司から愛の鞭が飛んできたり、大事なデートに実が入らなくてフラれてしまったり、1日中インスタグラムで猫ちゃんの動画を見てたら夕方になっていたりする。

この現象を僕は「やられる」と呼んでいる。



 3.4年前までは自分が小説の主人公みたいに世界で1番不幸な人間だと思ってた節があった。

職場でパワハラを受けて仕事が嫌いになり、仕事がうまくできない自分さえも大嫌いになった18の夏。同時に感じたのは社会からの疎外感と、他者からいいねボタンを押されて生きてるマジョリティ人間への妬みだった。

「いいよなぁみんなに同調されながら生きることができて。暴力を振るわれる事のない人生はさぞ楽しいんだろう。いいねが沢山貰える人生はさぞ楽しいんだろう。」

人生のトーナメントを勝ち上がることのできた人種は眩しくて仕方がなかった。マジョリティに擬態することでしか周りと馴染むことができない自分が滑稽に思えた。

ーーそんなふうに生きてるあいつも、本当は擬態の姿なのかもしれない。


そう考えられるようになったのはそのもう少し先の話だ。



「神はサイコロを振らない」はアインシュタインが言った言葉だ。

世の中全てに法則性があって、それに則って全ての物事が動くという「量子力学」の曖昧さに反論するために言った言葉だというけれど、少し疑問に思う。

本当に神はサイコロを振らないのだろうか?

事実として、今の世の中はマジョリティを基準にしたルールや流行り廃りが反映されてあらゆる可能性や物事が形成される、なので自ずと大衆の生きやすい世界になる。まさに量子力学の現れだ。

これだと、神はサイコロを振りまくってることになる。



ーーー




自分に当てはめて考えてみる。

例えば、僕がこれまで生きてきて世の中とのズレを感じた話題がいくつかある。

車、スポーツ、TikTok、FPS、ゲームセンター、ブランドの服、アイドル、下ネタ。みんなが大好きで、僕が全く興味が無いもの。

探せばまだあると思うけどざっとこんな感じだろうか。(これらをバカにしてるわけじゃなくて、興味が湧かないというだけです。むしろリスペクトしてます。)

「しんやはどんな車のメーカーが好きなの?」
返す言葉は必ずと言っていいほど「VOXYみたいな大きな車が好きです」と返す、VOXYは僕のお父さんの乗ってる車だから唯一わかる。

「しんやはいつもどんなスポーツ見るの?」
返信は「駅伝は必ずと言っていいほど毎回見てますね、僕昔陸上部だったんですよ。」と、見ていないけどそう返す。陸上部だった事実があるから本当だと思われやすい。


興味はないけれどズレてると思われたくない。
それに、みんなが盛り上がっているから雰囲気を壊さないために話を合わせなきゃいけない場面は仕事柄多かったりもするのでそんな時は喜んで擬態を使う。

この手の苦手な話を振られた時にする回答はこういった感じで全部用意できてる。これまで生きてきて擬態を使う瞬間が多かった僕の経験値のおかげだ。

でも、ちょっと考えてみる。

車、スポーツ、TikTok、FPS、ゲームセンター、ブランドの服、アイドル、下ネタに興味がある人。その人たちだって自分が不利な話題では僕みたいに擬態を使ってその場を凌いでるんじゃ無いだろうか?

僕の興味のあるものが全員に興味があるわけがないように、多数派の人間だって全部が合致することなんて絶対にあるわけがない。

多数少数以前にお互いに擬態を使い合って生活してる事になるので関係性は限りなくイコールに近いことになる。

さっきの例えはかなり身近な話であるにしても、この事実がある限りマイノリティとマジョリティの線引きはもっと壮大な世界観のもとで行われるものだ。自分がまるで想像もし得ない世界にこそ引かれる線だ。

話は最初に戻るけど。マイノリティの叫びを表現してるような小説、映画、LIVE、を見た後に感じる倦怠感の正体はそこにあるのかもしれない。

ここ数年でエンターテイメントはリアリティを持たせる表現の仕方が増えた。そんな作品を見るたびに自分は本当は多数派のうちの1人としてのうのうと生きてるのだと問答無用に納得させられてしまうのだ。

自分なんかが到底想像のできない世界を生きてる人間の言葉が直接言ってるわけじゃないのに勝手に頭の中に流れてくるような感覚だ。

「いかにも不幸そうな顔をして生きてるけど、お前らは本当は幸せもんなんだよバーカ!」

「多様性?ダイバーシティ?人それぞれの生き方?ウルセェ、そんなもんお前らが許容できる範囲の話だろ!」


本当にその通りだ。ぐうの音も出ない。




ーーー




重たい小説、映画、LIVEを見た後にケロッとしていられる人を時々見かける。どうやってメンタルを保っているんだろう?

これは推測だけど、そういった人は「自分には絶対そんなことが起きるはずがない」と信じきっているんじゃないかと思う。

世の中にはほんのひと握りだけど居るんだろう。パワハラを受けたことがなくて、擬態を使ったことがなくて、ズレてると言われたことがなくて、多数決には常に多数にいた。

常に同調されるのが当たり前だったから絶対に自分にはそんなことがあるはずがないと信じきっているような人が。

 知り合いでそういう人がいないか今思い出してみたけど3人当てはまった。

そのうち1人は会社の上司で、これがまたすごい人だ。

まず、店でお客様相手に擬態を使うことが絶対に無く、いわゆるオールウェイズじぶん人間なのに何故かお客様からはいつも気に入られている。多分あれは全員ができる代物じゃない。

その人は口癖があって「私は私だからぁ!」というセリフを呪文のように言っていた。自己確立と自己肯定の塊。どうして僕と仲がいいのかわからない先輩だ。

僕は時々自分がすごくめんどくさい。

小説、映画、LIVEでどれだけ自分が多数派の人間なんだと思い知らされたって、そういう人を見ると「いいよなぁ!多数派で生きられて!」と無意識に思ってしまう。自分ってマイノリティだなぁと、また思ってしまう。

いや、待てよ。

僕と同じような頭をした人をSNSで結構見かけるのも事実なので、そう考えるとやっぱり僕はマジョリティの人間なんだろうか?

また思考ループの始まりだ。

キリがないので、流石にもう少し楽に考えてもいいのかもしれない。


青二才でまかり通る歳の間は、それこそサイコロを転がすくらいの気持ちで丁度良かったりするんだろう。




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