親は、子どもが能動的に学び取るための「反応器」に
昔、私の講演にいたく感動(?)したという家電メーカーの方から「社内で紹介したいです!資料を頂けませんか?」と頼まれたので渡した。
数日後、電話がかかってきた。「ご講演はすごくわかりやすくて理解したつもりだったのに、いざ話そうと思ったらまったく説明できず。もう一度教えてくれませんか?」
私の塾に、中3にもなるのに言葉がほとんど話せない、字が書けない子がいた。サッカーでレギュラーなくらいだから頭は悪くないはず。原因を探ると、赤ん坊のころ、夫婦離婚し、お母さんはおばあちゃんと同居、仕事へ。テレビの前に置くとおとなしいので、テレビに子守りさせていたという。
心理学の教科書には、「テレビに子守り」させると言語が遅れる、という事例が紹介されている。その子はその典型だった。仕事で疲れたお母さんは、子どもに語り掛けたりをあまりしなかったらしい。テレビに子守りさせて、ほとんど対話をしなかったら、言語が決定的に遅れてしまった。
今、マンガさえも「字が多くて読めない」子どもがいるのだという。もしかしたら、動画が原因かもしれない。最近、「スマホに子守り」の事例をよく見かける。子どもにスマホを渡し、動画を見せておけばじっと見ている。それで大人しくしてくれるので、ついつい任せてしまう。その気持ちはわかる。
ただ、親子のコミュニケーション、スキンシップが減ってしまうと、言葉が遅れてしまう。「テレビに子守り」もそうなのだが、テレビは言葉がいっぱい出てくるようでも、親子のコミュニケーションが少ない子どもは、それを言葉として認識できない。ただの音声にしか聞こえない。
言葉を獲得するには、相互作用が必要。親が赤ちゃんに語りかける。赤ちゃんがダーダー、という喃語を話す。それを聞いて親はオムツとかミルクとかの準備をする。そうしたやり取りを重ねるうち、赤ちゃんは「口から出る音で、何をしてほしいのか伝えられるのでは?」という仮説が生まれる。
たまたま口にした「ママ」という言葉で、親が狂喜乱舞し驚いた様子を見て、赤ちゃんはますます言葉を話そうとする。数字を見れば「ご!」と言ったり、カラフルなものを見たら「あお!」と言ったり。それに対して親がその都度反応し、言葉をかけてくれる。そうして言語は発達していく。
言語を獲得するには、相互作用が大事。ただ一方的に受け取るだけのテレビや動画では、言語は発達しない。自分自身が口にし、口にしたことで親が反応してくれる。そうした能動的な動きと、それに反応してくれる親の存在があって、言語は初めて発達していく。言語は能動的になって初めて獲得できる。
冒頭で紹介した、私の講演に感動してくれた人は、私の説明が分かりやすすぎたために分かった気になってしまったのだろう。しかしそれを能動的に自分が表現しようとしたとき、全然説明できないことに愕然としたようだ。私の話は分かりやす過ぎて、受動的になってしまったからだろう。
学習というのは、子どもの外に転がっている情報を子どもに詰め込むことだと勘違いされていることが多い。もしこうした捉え方をすると、子どもはひたすら受け身であり、あとは大人なりテレビなり動画なりが一方的に子どもに情報を流しこめばよいように勘違いしてしまう。しかし。
どうやら学習というのは、子ども自身が能動的に働きかけるものでないと成立しないらしい。受け身では右から左に流れてしまう。受けとめた情報を自分なりにかみ砕き、理解しようとし、それを口にしてみるという能動的な動きにまでならないと、学習することはできない。しかも。
子どもがそうして能動的に、学び取ったことを表現しようとしたとき、「反応器」となる大人が存在する必要がある。大人は子どもがそうして能動的に学び取ろうとしている姿勢を見て驚く。そうして驚く大人がいると、子どもはますます能動的に学習しようとする。そうして言葉を獲得していく。しかし。
もし反応器になってくれる大人がおらず、大人自身もスマホをいじり、動画を見るばかり、子どもにもタブレットとかで動画を見せて放置だと、子どもは能動的に学習したものを口にして、大人を驚かすという楽しみを得ることができない。そしてそれがないと、学習は成立しないらしい。
私とYouMeさんは子どもたちが赤ちゃんの頃、「見たものすべて実況中継」をしていた。町中を歩いている最中も「空が青いねえ」「あの雲、アイスクリームみたいでおいしそうだねえ」「この喫茶店に入ろうか、○○って名前だって」「この椅子に座れるかな?どっこいしょ」「窓に人形があるね、かわいい」
買い物に行っても「自動ドアが開きましたー!お、ブドウの季節ですねえ。でもスルー。じゃがいもはいくらかな、と。ずっしり重いねえ。持ってみる?次はタマネギ、タマネギ。次はお魚のコーナーでーす」などと、言葉をシャワーのように、実況中継して聞かせた。
子どもらが言葉を発するようになると、それに一つ一つ反応しつつ、実況中継を続けた。そのためか、子どもたちは年齢にしては言葉をたくさん憶え、使えるようになっていたし、看板に書いてある漢字もどんどん読めるようになった。それに親が驚くからますます熱心に覚えようとしたようだ。
子どもの学習は、子ども自身が能動的になること、そして子どもの能動性を受けとめる「反応器」として、親が驚くこと。そして、親も「見たものすべて実況中継」で言葉を浴びせまくること。でも子どもが話すようになったら、むしろ子どもに話させること。親はそれにひたすら驚いてみせること。
すると、子どもは自分が目にしたもの、耳にしたものを言葉にして親に伝え、親を驚かそうとする。その能動性が、子どもの言語を鍛えるのだと思う。これをやっていると、文字も自然に読めるようになるように思う。うちの子は幼稚園ですでに「百姓貴族」や「もやしもん」が愛読書。マンガだけど字だらけ。
赤ちゃんの間は、言葉のシャワーを浴びせかけるため、「見たもの実況中継」をする。子どもが話せるようになったら、大人はむしろ聞く側に回り、子どもが新たに獲得した言葉の発生に、その能動性に驚くようにすると、子どもの学習は加速するように思う。
いかに子どもの能動性を引き出すか。子ども自身が能動的に言葉を紡ぎ、「この言葉を話せば大人にこう伝わるのではないか」という「仮説」を検証する機会をできるだけ可能にする。そのために大人は「反応器」に徹し、驚く。そうしたことが必要なのではないか、と思う。
なお、「テレビに子守り」「動画に子守り」は、親に余裕、ゆとりがなく、疲れ果ててそれに依存しているケースが少なくない様子。子どもとのやり取りを楽しむ余裕がないと、子どもの学習を成立させることは難しい。なんとか、親御さんに余裕、ゆとりを確保できる社会になってほしいと思う。
※中3でもほとんど言葉を話せなかった子どもが、言葉を獲得した話については、以下にまとめたことがあります。
「「頭が悪い」なんて死ぬまで分からない、死んでも分からない」
https://note.com/shinshinohara/n/n74b8850ec736?sub_rt=share_sb
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