「傲慢な科学」から「謙虚な科学」へのアップデート レイチェル・カーソン
現在でこそ「人類のせいで地球上の生命が絶滅するかもしれない」という考え方は世界中に広がったけれど、第二次大戦が終わった時点では、まだ科学への信頼は厚かった。核爆弾の恐怖はあったけれど、核エネルギーを利用すれば人類はもっと発展する、という楽観的なムードも強かった。
しかし、科学の発展そのものが人類を追い詰めることになるかもしれない、という、科学そのものへの疑問が生まれるようになった。そのきっかけを作ったのは恐らく、レイチェル・カーソン「沈黙の春」だろう。
少なくとも「沈黙の春」が出るまでは、化学農薬への信頼は絶大だった。戦前までは作物の病気や虫害で多大な被害を受け、人類はたびたび飢餓に襲われてきた。ところが化学農薬のおかげで作物が安定して生産できるようになった。これこそ科学の力!そう信じることができた。ところが。
まさに手放しで礼賛していた化学農薬が、もしかしたら地球上の生命を絶滅に追いやってしまうかもしれない、と警告を発した。それが「沈黙の春」だった。当時の化学農薬は分解されづらく、油に溶けやすい性質のため、「生物濃縮」が起きやすかった。これが多くの生物に悪影響を与えた。
当時、カーソンのこの警告に対し、バッシングがひどかったようだ。カーソンは海洋生物学者としては認められていたが、化学農薬は専門ではない。「素人のくせに」とバンバン叩かれた。何しろ当時の化学農薬のメーカーは圧倒的存在。真っ向から敵にして勝てるものではなかった。
しかし、カーソンの警告は多くの人が認めるところとなり、化学農薬のメーカーも対応を迫られるようになる。現在の化学農薬は自然界で分解しやすく、生物濃縮が怒らないものに変わっている。カーソンの警告により、化学農薬はなるべく生物に悪影響を与えない配慮がなされるようになった。
危険性は全くないと思っていたものが地球上の生命を絶滅に追いやるかもしれない、という意外な指摘は、人々に科学への疑念を抱かせるきっかけになったように思う。それまで科学には絶対の信頼がおかれてきたけれど、慎重さが加わるようになった。これはカーソンの大きな功績と言えるだろう。
その後、フロンガスがオゾン層を破壊し、地上に降り注ぐ紫外線が皮膚がんを増やすかもしれない、とか、二酸化炭素の濃度上昇が地球温暖化を進めるかもしれない、など、危険性がないとばかり思われていた物質が地球の生命を脅かすかもしれない、という事例があいついで報告されるようになった。
科学の発展が人類を追い詰めるかもしれない。この着想を人々に抱かせる大きなきっかけを作るのに、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」は、非常に大きな役割を果たしたように思う。
カーソンまでの科学は、自然を支配し、コントロールしようという「傲慢な科学」だった。しかしカーソン以降、自然に対し謙虚になり、自然と調和しようとする「謙虚な科学」が次第に支配的になってきた。科学の姿勢を「傲慢」から「謙虚」に変えるのに、カーソンは重要な役割を果たしたように思う。
カーソンはなぜ、こんな画期的な提案ができたのだろう?私は当初、ジャンヌ・ダルクのような、男勝りでケンカ上等な、非常に気性の荒い女性なのだろうか、と想像していた。そうでもなければ、当時の化学農薬メーカーを向こうに回すような度胸はとても持てないだろう、と思っていた。
ところが、アメリカ議会で証言しているカーソンの映像を見たところ、非常に穏やかな、怒るということを知らないような女性が、静かに、淡々と言葉を紡いでいた。むしろ、彼女を言葉荒く攻撃しているメーカー側に立つ人間の方が大人げなく見えた。彼女は終始冷静だった。
あれ?こんな穏やかな人が、なぜ「沈黙の春」という、当時の化学産業を敵に回すような著作を書くことができたのだろう?私の中で、何年も理解できない疑問として心の中に残っていた。そんなとき、カーソンは「沈黙の春」以外にも本を書いていると聞いて読んでみた。それが『センス・オブ・ワンダー』。
私は、「沈黙の春」以上の衝撃を受けた。そして、なぜカーソンが「沈黙の春」という本を書いたのか、その理由がわかった気がした。悲しかったんだ。生命が死にゆくことが。自然が損なわれていくことが。大好きな生命をなんとかしたいと、彼女は筆を執ることにしたんだ、ということが分かった。
「センス・オブ・ワンダー」自体は、きれいな写真集といった感じで、文章も絵本のようにとても短い。内容は、甥のロジャーと夜の海や雨の森に探検に行く、というもの。何でもない内容に思えるかもしれない。しかし私は、その中の一文に衝撃を受けた。
「『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要ではないと固く信じています」(レイチェル・カーソン「センス・オブ・ワンダー」p.24)
私は当時、塾で子どもたちの指導をしていて悩んでいた。どうしたら私の知識を子どもたちに授けることができるのか、教え方が悪いのか、と、苦悩していた。なのに。
カーソンは「知る」ことは重要ではない、と言った!教育は「知る」ことを最重視してきたのに!「知る」よりも「感じる」ことの方が大切だと!
でも、それは私にもピンとくる話でもあった。何だこれ?と不思議に思ったことには興味がそそられる。関心が湧けば観察眼が鋭くなる。
また、関連する情報へのアンテナも敏感になる。結果、「知る」ことにつながる。「知る」ことなんか忘れて、「感じる」ことを重視すれば、結果的に「知る」ことになる。なら、「知る」ことなんか忘れて、「感じる」ことをもっと重視したほうがよい。そのことに初めて気づかされた。
カーソンは、子どもたちに授けてほしい力として、自然や生命の不思議さや神秘さに目を瞠り、驚く感性、センス・オブ・ワンダーを、と述べている。そうか、自然や生命のことを不思議だ!なんでだろう?と感じれば、知識なんか後でくっついてくる!私の中で革命的な出来事だった。
カーソンは、この世界が、生命たちが、不思議に満ち満ちていて、驚かずにいられないものなのだということをよく知っていただろう。大好きで仕方なかったのだろう。そんな大好きなものが損なわれていくことがどうしても我慢できなくて「沈黙の春」を書いたのだろう。
カーソンの「沈黙の春」は、科学への絶対的信頼というそれまでの思考の枠組みから、「科学は謙虚さを持たないと人類を滅ぼしかねない」という枠組みへとアップデートした。そうした歴史的使命を帯びた著作だと言えるだろう。本書は哲学書や思想書ではないが、明らかに世界をアップデートした。
当時の時代背景を考えると、カーソンがこの本を書くことの困難さで、気が遠くなる。それでも本書を書かずにいられなかったのは、「センス・オブ・ワンダー」が彼女の中で息づいていたからだろう。まさに、カーソンは人類をアップデートした人物だと言える。