「才能」考

子どもの成績を見て「この子の才能は並以下」という表現をする人を複数見た。「成績が並以下」はあるだろう。でも「才能が並以下」とは限らない。それまでに与えられてきた環境が、能力を伸ばすのに適さないものだった可能性があるからだ。具体事例から考えてみたい。

その子は公立中学で最下位クラスの成績だった。漢字もほとんど書けず、問題文を読んでも理解ができないから解きようがない。計算は足し算引き算が精いっぱいで九九もできない。何より、日常会話が成立しない。ほとんど言葉を話せないし、こちらの話も理解できない。2歳レベル。中3でこれは深刻。

でも、サッカーではキーパーをやっていて、レギュラーだという。ということは、頭は悪くない。しかし、言語が非常に遅れている。なぜこんなに言語が遅れているのか、その原因を探るためにお母さんに来てもらった。で、赤ん坊のころからどうだったか、様子を聞いてみた。すると。

その子が生まれる前に離婚し、実家の祖母と一緒に暮らすことになったけれど、当然母親も働かねばならず。で、忙しいあまり、赤ちゃんの相手ができず、テレビの前に置いておくと静かにしてくれるものだから、ずっとテレビの前に置いていたという。そう、心理学の教科書にもある典型的な事例だった。

言葉の発達は双方向。赤ちゃんのアーアー、ダーダーという赤ちゃん言葉(喃語)や身振り手振りに親が反応し、その親の反応を見て赤ちゃんは「こう伝えればお母さんはミルクだと分かってくれた」「オムツが濡れていると分かってくれた」と感じ取り、それが言葉の発達の土台になっていく。

ところが基本、テレビの前に置かれて放置され気味だった。テレビは言葉を話しているようで、一方通行。赤ちゃんの声や身振りに全く反応してくれない。すると赤ちゃんは言葉や身振りなどの「出力」をしなくなるし、「出力」することで周りが反応してくれるとも思わなくなる。

このため、言葉を発する動機が赤ちゃんの中に失われ、言葉の発達が遅れてしまう。事実、その子は幼稚園に入った5歳くらいになっても言葉をほとんど話せなかったという。その結果、小学校に入っても授業で先生が何を話しているのかもチンプンカンプンのままで、中3の今に至る、ということが分かった。

高校受験はもう間近。今から赤ちゃんの時期からの育て直しをやっていては間に合わない。本人に聞くと、高校に行きたいの?と聞くと、一応うなづく。どこまで高校というものがわかっているのかも怪しかったけれど、親も希望しているし、仕方ない。破れかぶれの受験対策を行った。

親御さんには学校に頼み込んで内申点を上げてもらった。いつもニコニコ笑っている子だからか、副教科が10段階で4という破格の評価をもらえた。
しかし実際の受験の問題文がそもそも理解できない。そこで熱意だけ買ってもらうことにした。「空欄を残すな、知っている言葉何でもいいから書け」

そしたら奇跡的に高校に合格してしまった。しかし、言葉が理解できなさ過ぎて授業についていけるわけがない。そこで、親御さんに来てもらって改めて話をした。「君は言葉が遅れている。それを取り戻すために、友達に話をさせるな。自分から話せ。アーでもウーでもいいから自分から話すようにしろ」

「そしてその日学校で起きたことを、お母さんに説明しろ。お母さんは仕事でお疲れかもしれないけれど、この子が言葉を取り戻すためです。話を毎日聞いてやってください」
その後、その親子から連絡は来なくなった。正直、高校でやっていくのはムリだよなあ、と思っていた。ところが。

その子がある日、フラッと塾を訪れた。高校3年生となり、サッカーを続けていて、今はキャプテンをしていること、生徒会長を務めたこと、成績は学年トップクラスで、先生から大学進学を勧められていると説明してくれた。理路整然と。あの、「はい」しか言葉を口にできなかった子が!

その子は愚直に、学校で積極的に自分から話そうとしたのだろう。そしてその日あったことを、母親に報告し続けたのだろう。その結果、短期間に言葉を取り戻し、学習内容も理解できるようになり、トップクラスの成績にまでなることができたのだろう。もはや奇跡を見る思いだった。

中学3年生の時点で、定期テストはほぼ0点ばかり、学年最下位の成績で言葉もろくに話せない、という状態を見たら、「才能がない」と決めつける人が少なくないだろう。しかしこの子は、それまでのあり方を改めて、能動的に言葉を取り戻そうとしたことで、隠れていた才能が開花したと言える。

もう一人、別の子の事例。その子は高校生だったけど、これまた学年最下位クラス。学力を調べてみたら、割り算がかろうじてできるけれど分数は壊滅。
1/3+1/3=2/6
と答える有様。小学3年生からやり直さないといけない状態だった。で、やり直すことにしたものの、別の問題が明らかになった。

課題を与えると、「はい!」とよい返事をするのだけれど、目を離して10秒もすると目がうつろとなり、魂が心のお花畑にお出かけしてしまう。「おい」というとハッとなって、また問題に取り組もうとするのだけど、やはり10秒もしないうちに魂が飛んで行ってしまう。魂飛ばしの名人だった。

心ここにあらずでは学習が進むわけがない。またしても親御さんを呼んで話を聞くことに。するとご両親が来てくれた。それによると、その子は5歳になるまで着替えも食事も自分ではさせてもらえず、全部おばあちゃんの世話になっていたという。典型的な「おばあちゃん子は三文安い」事例だった。

食事をするにも「こぼすでしょ、おばあちゃんがやったげる」と口元までスプーンで運び、着替えをするにも「うまくできないでしょ、おばあちゃんが着せてあげる」で、自分で能動的に取り組む機会を奪われてしまったらしい。やむなく、魂をお花畑に飛ばすことでしか能動性を発揮できず、癖になった様子。

魂が心のお花畑にでかける癖をまず直さなくては、学習どころではない。本人の了承も得たうえで、ショック療法を行うことにした。魂がお出かけしたら机をバン!と叩いて驚かし、「ほら!また魂飛んでいたぞ!」と、魂を召還することを繰り返した。

魂が飛んでいくと驚かされるものだから、次第に魂が「いま、ここ」にとどまるようになった。割り算は早くに難しいのも解けるようになった。ところが分数がチンプンカンプン。2分の1、3分の1というのがどういうものかわからない。丸い紙を3分の1に切って見ろ、と言ってもそれができない。

いわゆる「ケーキを切れない少年」だった。ところがある日、「2分の1でも3分の1でも4分の1でも、ともかく円の中心に向かってハサミを入れたらいいのか!」という「大発見」をしてから分数の理解が進み、ついには中学3年間の内容も復習を終えることができた。高校の授業にもついていけるように。

その子は、卒業したら自動車整備の専門学校に通いたいという。しかしそこは給料もらいながら学べる超難関。倍率も二十倍を超える。正直難しいのでは、と思ったが、なんと合格。中学の頃から学年最下位クラスの成績だった子が、そんな難関も克服できるようになったとは!驚いた。

この子も、成績や高校1年生の段階の状態を見たら、「才能なし、最底辺レベル」とレッテルを貼る人が少なくないだろう。しかし、「魂飛ばし」という症状を適切に治療し、欠けていた小学校からの学習内容を地道にやり直すことで、並以上の学力を身につけることに成功した。

3番目の事例。その子も公立中学校で最下位クラスの成績だった。ドベ 2。ところが 理解度を調べてみると分数も理解できている。これでこの成績は不思議レベルだが、その子の様子を見るとすぐに原因が察せられた。 今で言うADHD、多動症だった。ともかく落ち着きのない子だった。

そそっかしすぎて正確に字を書くことができない。漢字の場合、横棒 1本サービスしたり、逆に減らしたりすることもしばしば。数字は0だか6だか8だか 見分けがつかない。4と9も区別できない。このため字が汚くてバツにされたのか、理解できてなくてバツなのか、本人も区別つかなくなっていた。

誤字脱字が平気なのをなんとかしないと、学習が身についたのかどうかも確かめられない。そこで100円ショップでことわざ集を買ってきて、それを10個正確に書き写す課題を与えた。すると3時間たっても正確に書き写せない。必ずどこか間違う。その子はうまく書けずにワンワン泣いた。情けなくて。

3ヶ月ほどかけて、10個正確に書けるようになった。自分の誤字脱字の癖がわかってきて、どこをチェックすればよいかわかるようになり、正確に字を書けるようになった。この時点から学習をスタートさせることにした。成績をメキメキ伸ばし、希望する高校に進学、大学は中堅どころに現役合格した。

この子も中学1年生時点の成績を見たら「才能がない」とみなす人も少なくないだろう。何しろ成績はブービー賞なのだから。しかしこの子は指導当初と比べたら、想像ができないほど大きく成績を伸ばした。「才能がない」などと事前にどうやってわかるというのだろう。

この3人の子どもは、全員公立中学で学年最下位クラスの成績の子で、それだけを見たら「才能がない」とみなされる恐れがある。でも実際には、その子に適した指導や環境が与えられたら、並み以上の成績を収めることができた。こう考えると、才能なんて事前にはわからないように思う。

この子らがなぜ成績を伸ばしたのか、要点をまとめてみる。
・症状を正確に突き止める。
・その症状を改善する具体策を実施する。
・小学校まで学習内容をさかのぼり、「できる」ところから復習する。
・「できない」を「できる」に変える快感を覚えることで、学習を楽しく能動的なものにする。

個性はバラバラだし、何が原因で学習の妨げになっているのか、その症状も様々。でも、その症状を治療するアプローチを見出し、それを改善した後、「できる」ところまで降りていき、そこから学習を再開すれば、どの子も伸びていく、と私は考えている。

他方、才能は間違いなくあるだろうに、環境に潰された事例もある。その子は小学生の間、100点以外をとったことがないという秀才だった。ところが中学生になるころ、潰れた。学校に来なくなってしまった。勉強漬けの生活に疲れてしまって、勉強を拒絶するようになってしまった。

もう一人、別の子。その子は中学受験を失敗し、母親がうちの塾に入れようと必死だった。その子の成績を見ると80点、90点と、うちの塾ではありえない好成績。「君、塾に来なくていいよ。自分で勉強の方法、分かっているだろ?」と言ったら、その子は意外そうな顔をしつつ、うなづいた。

そしたら母親が必死になって「なんとかこの塾に」と言いつつ、我が子に「不合格になって、悔しいって言っていたでしょう?高校で挽回してやるって言ってたじゃない。○○ちゃんはこうしているうちにも勉強しているのよ」と。その子は眉間にしわ寄せて黙っていた。

結局、うちの塾に通うことになってしまった。しかし、学校から帰っても勉強漬け、塾から帰っても勉強漬けだそうで、塾にいる間、放心状態になっていた。心が疲れ切って、眉間の間には険が走っていた。これでは心が潰れると思い、「塾の間は休憩しとり」といってマンガを読ませていた。

やがて、塾ではまったく勉強させていないことが母親にバレ、退塾した。その頃には、本当に中学1年生だろうか、という険の縦シワが眉間に深く刻まれていた。学習拒絶症に陥っていたその子のその後は聞いていないが、恐らく潰れたであろうと思う。

よい成績を上げることができるのだから、十分才能はあるだろう。しかし過剰教育、いや、育つのを待たないのだから「過剰教教」というべきだろうが、それですっかり学習に嫌気がさしてしまうように環境が設計されていた。それで学力が伸びるはずがない、と私はなんかは思う。

学力が伸びるには、その子が
・「できない」を「できる」に変えることができるという実感
・それを能動的にやり遂げることができた、という達成感
・その達成感は自分の能動性によるものだ、という能動感
が成立している必要がある。この3条件がそろっていないと、楽しめないためだ。

ところが親の管理下で、学校から帰っても勉強、塾から戻ってきても勉強、と、勉強漬けになってしまうと、能動感が失われてしまう。それでも小学生の間は比較的素直だし、ほめられると嬉しいからつい頑張ってしまう。でも、思春期に入ると子どもは次第にこうしたやり方に嫌悪感を持つ。

思春期に入ると、多くの子どもは親に反発したくなる。もはやこれは生理的な現象であるらしく、子ども本人も止めようがない。親はこれまでの成功パターン通り、ほめたりなだめすかしたり、「○○ちゃんに負けて悔しくないの!」とハッパをかけたり。でも、それら親のアプローチはすべて、

「やらされ感」につながる。自分が能動的に選び取り、取り組んだこととは思えず、親からやらされている、という強制感をどうしてもぬぐえない。すると、思春期の子はどうしても反発する。やる気をなくす。こうして、悪循環に陥るケースを私は多数見てきた。

「あなたはやればできる子」それはその通り。でも、親が勉強することを期待しているなら、勉強はしたくない。ともかく親の期待通りに動きたくないというのが思春期の大きな特徴。多くの子どもは、この時にジレンマに陥る。親に言われた勉強にはどうしても手出ししたくなくなってしまう。

では、中学生の思春期に入ってからガタガタと崩れていくケースは「才能がなかった」のだろうか?私は違うと思う。思春期に「親に期待されることはともかくやりたくない」と反応するのは正常。この正常な反応をしたら、勉強だけはしたくない、となってしまう環境に問題がある。

才能を云々するには、その子に最適化された環境が提供されていなければならないが、そもそもそうした環境が提供されていない以上、才能があるとかないとか言うこと自体がナンセンスだし、浅はかだと思う。まずはその子にあった環境とは何か、を模索する。それが大切。

それには、その子を観察しつつ、いろんなアプローチを試してみてはその結果をまた観察、次の仮説を立てて新たなアプローチ、という試行錯誤を繰り返すことが大切。誰もその子に最適な環境とは何か、分からないのだから。試行錯誤して次第にその答えに近づくしか仕方がない。

しかもその環境は、同じ子であっても、発達具合によって違ってくる。小さい頃に通じた方法が大きくなっても通じるとは限らない。というか、通じない。子どもが大きくなったら、また新たな対応を模索する必要がある。常に試行錯誤の繰り返し。「正解」はいつまでたっても見えないのが普通。

一つ言えるのは、その子が楽しく能動的に物事に取り組めているかどうかをメルクマールにすること。それができていないならアプローチが間違っている。環境のどこかが不適切。それを改善し、試してみる、を繰り返す必要がある。

これまでの私の経験で、どの子にも通じるのかな(場合によっては大人も高齢者も)、と思われるのは、ともかく
・本人が能動的に取り組めること
・「できない」を「できる」に変える達成感を味わえること
・それが連続するので楽しくなってくること
の3条件が成立すると、どんな子も、どんな人も、

自ら学び、成長し続けるようになる、と考えている。そしてそれはしばしば、その子(人)にとって最速の形で。何しろ楽しいからどんどん能動的になるし、集中しているから呑み込みが早くなる。他の子と比べてどうかは知らんが、その子にとって最速の成長を遂げるようになる、と私は考えている。

その3条件が整うようにするには、どんな環境が必要なのか、子どもにどうアプローチすればいいのか。あとは試行錯誤を繰り返すしかない。その試行錯誤の中で、次第に子どもたちは能動的になり、本来持っていた才能を開花させるのだと思う。それが始まらないうちに才能を語るのはナンセンス。

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