自分を探しても見つからない、それよりは自分を面白がること

ソクラテスが生涯重視していた問いは「汝自身を知れ」だったという。で、私も二十歳になってから自分自身を知ろうとメモをとりまくったのだけど。むいてもむいても芯のない玉ねぎのようで、自分は空っぽだった。フニャフニャだし、情けないし、サボりだし。確たる自分が見つからない。

当時は「自己実現」だとか自己の確立とか自分探しとか、やたらと自己自己していた。けれど、私には確たる「自己」など見えなかった。自己を見つめようとすると空(くう)をつかむように消えてしまう。自分ってどこ?自分って何?戸惑うことばかりだった。そんなとき、平凡社「世界大百科事典」の「概念」を読んだ。

すると、「鉄」を例に説明していた。私達は鉄をどうやって理解しているかというと、電気を通すとか、磁石にくっつくとか、さびる、鏡のように光を反射する、包丁やトンカチになる、熱すると赤くなる、などなど。よく考えると、鉄と「何か」との関係性ばかり列挙していることがわかる。

なのに、鉄そのものを説明する言葉はない。私達は、鉄そのものを理解する術(すべ)を持たない。鉄と他のものとの関係性でしか、鉄を感じ取れない。常に鉄と他のものとの関係性から輪郭をなぞることしかできない、と書いてあった。それで私は「だから自分探しすると自分は消えてしまうのか」と合点。

仏教では存在を「空(くう)」と表現する。そして何かと何かの関係性を「縁(えん)」として表現する。どうやら仏教は、存在そのものを把握することはできないのだよ、ということを、「空」という言葉で表現したものらしい。

考えてみると、私達が存在を感じ取るためのよすがである、関係性を意味する「縁(えん)」という字は、「ふち」とも「よすが」とも読む。私達は他のものとの関係性によって、鉄とか自己とかの表面(ふち)をなぞれるだけ、ということを見抜いていたのだろう。そして。

私達が存在を把握したかのように考えるよすが(縁)は、他のものとの関係性(縁〈えん〉)でしか捉えられない、ということを、仏教は早くに気がついていたのかもしれない。
そのことに気づいてから、私は自分探し、自己実現を考えることをやめた。その代わり、自分が何ものかと接触したとき、

それとどんな関係性を作り出すのかを観察するようになった。それを膨大にメモすることにより、おぼろげながら自分というものが見えてきた。「そうか、私はこういう時にサボりたくなり、こういう時に急にやる気になり、ああいう時にはイライラし、こういう時にニコニコするのか」と、関係性の洗い出し。

自己実現とか自分探しとか、あたかも確たる自己を確立できる、見つけられるかのような言説がある。しかし少なくとも私には、それはまやかしに思える。自己なんか実現しやしない。自分なんか探しても、玉ねぎのように皮をむいてる間になくなってしまう。空虚。

「私」は、誰かとの関係性の中でしか把握できない。把握できたにしても、それは存在の輪郭でしかない。表面をなぞることができるだけで、決して自己そのものを把握することはできない。自己にしろ鉄にしろ何にしろ、それそのものを把握することはできない。把握できるのは関係性のみ。

それにしても西欧文明は、なぜ存在そのものを把握できるかのような表現を好むのだろう?「汝自身を知れ」という言葉自体が、自分自身そのものを把握できるかのような問いかけになっている。恐らくだけど、この「汝自身を知れ」から、プラトンは「イデア」を思いついたのかもしれない。

プラトンによると、「馬」と言っても白い馬、黒い馬、大きい馬や小さい馬、気性の荒い馬やおとなしい馬など、一つとして同じ馬はいない。そんな千差万別なのに、なぜ私達はひとくくりに「馬」と把握できるのだろう?それは馬という理想の形(イデア)があるからだ、という。

でもこのリクツ、よくわからん。理想の馬なんかこの世にいないわけだし。でも一つ言えるのは、人間の頭の中では、馬という「虚構(イデア)」が生まれているのだろう。私はそう考えている。理想の形、というより、虚構。

息子の1歳半検診のとき、息子が「ハサミは?」と問いかけられて、正確にハサミを指差せることに驚いた。ろくにハサミを見たことがなかったろうに、いつの間に?しかも実物ではないイラストを見て、なぜそれをハサミと感じることができたのか、不思議だった。

犬と猫を子どもが正確に見分けられることも不思議だった。犬猫は、言葉で表現しようとすると、あんまり区別ができない。猫のほうが丸みを帯びてるとはいえ、ブルドッグとかチンとか丸いのもいる。ヒゲもあるし鼻も黒いし濡れている。共通点が多いのに、1歳半ですでに見分けることができた。

どうやら人間は、頭の中で「イデア」(虚構)のようなものが出来上がるらしい。体のつくり、ヒゲの生え方、口のとがり方、様々な周辺情報を取り入れながら、その核となる「イデア」が、心の中に出来上がっていくらしい。で、犬猫のような似たような生き物も区別できるようになる。

Google翻訳の性能が急に向上したとき、興味深い指摘が。
かなりこなれた翻訳ができるようになった理由に、「人工知能の中に、日本語でも英語でもない『何か』が生まれて、それをどこかの国の言葉で表現しているだけなのでは」と。人工知能が膨大な学習をした結果、「イデア」が発生したのかも。

恐らくなのだけど、人間が存在そのものを把握できるかのように勘違いしてしまうその原因が、頭の中で作り上げられる虚構(イデア)にあるような気がする。人間の知能は(あるいは人工知能も)、虚構(イデア)を頭の中に発生させることで存在なるものを仮定してしまうのかもしれない。

でも、私達の認識能力は関係性しか把握できない。「鉄」そのものを把握できず、周辺の事物との関係性から推測するしかない。存在は、関係性をいろいろ洗い出しているうちに頭の中で発生してしまう虚構(イデア)でしかない。そう考えると、整理しやすいように思う。

そう考えると、自己実現とか自己確立とか自分探しといったことは、程々にしたほうがよいように思う。自己なんか実現しやしない。自己なんてフニャフニャのもん、確立なんかできやしない。自分なんかいくら探しても見つかりゃしない。そうした現実をまず認めたほうがよいように思う。

自己なんて、優しくされれば嬉しいし、厳しく接せられれば悲しくなるし、うまくいく体験があるとすぐ調子に乗るし、失敗するとすぐしょげるし。周辺環境でいくらでも変化してしまう。関係性でいくらでも変化してしまう。親に見せる顔、先生に見せる顔、上司に見せる顔、友人に見せる顔。みんな違う。

自己は、関係性の中でしか把握できず、しかも関係性が変わると自己は全然別の顔を見せる。そんなのだから、「私なんかダメだ・・・」なんて思い込む必要はない。そんな関係性に身を置いていたから起きたことでしかないのだから。

自分はどんな人と出会い、どんな環境に置かれたとき、どんな反応を示す生き物なのか、それを観察し研究するとよいように思う。生態学の研究者のように。そして自分という生き物の生態を調べる。すると、自分というものの輪郭が少しずつ浮かび上がってくる。おぼろげながら、少しずつ。

生態学の研究者は、その生き物のデコボコぶりを愛する。短所もまた魅力の一つになる。「あなたはこんな特徴があるのですか!」と、その発見を嬉しく思う。あなたも、自分という生き物の生態学者になるといい。すると、自分のデコボコもまた愛おしく思えるだろう。

立派な自分、誰からも尊敬される自分、勇敢な自分、賢い自分、羨ましがられる自分、といった虚構(イデア)に振り回されて、そんな虚構の自分と比較して「俺はダメだ」なんて考えるの、ナンセンス。自分に変に過大な期待をするから、自分を観察できなくなってしまう。

観察には、「期待」は禁物。期待すると虚構(イデア)が頭をもたげ、目の前の現実ではなく虚構ばかりを気にして、現実が見えなくなる。観察できなくなる。期待を脇に置くこと。そして自分と他の事物との出会い(関係性)を虚心坦懐に観察すること。そしてこれまで気づかなかった事実を探し続けること。

そうすることで、ようやく自分という生き物のデコボコぶりが見えてくるだろう。すると、「お前、オモロイやっちゃな!」と思えるようになる。デコボコもまた愛おしい。自己をそのまま丸ごと楽しめる。ぜひそんな気持ちを抱いてほしいと思う。

自分という生き物を面白がること。それこそがもしかしたら、自己実現とか自己確立とか自分探しとかが追い求めていた姿なのかもしれない。自分という生き物の生態を調べて、新しい発見をして面白がる。そんな観察者になることをオススメする。

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