論理は現実の下僕でしかない

哲学をマジメにやってる人って、論理にやかましかったりする。論理が矛盾してるように見えると許せないらしい。しかし私は「現実がそうじゃないんならしゃあないやん」派。ある事実から導かれる論理と、別の事実から導かれる論理が矛盾して見えても、現実がそうなら私はそれをまず現実として認める。

のび太が裏山で海の生き物の化石を見つけたとき、のび太は「昔、海の生き物は陸上を歩いていた!その後、海水浴かなんかに行って海に住み着くようになった!」という大胆極まりない仮説を立てた。ドラえもんが否定しても、裏山が昔海だったわけないやん、と納得しなかった。

貝やサンゴは海の生き物。でも裏山は陸地。それぞれから導かれる論理は矛盾する。この矛盾を解決する論理として、のび太は「魚も陸地を歩いていた」と考えたわけで、これはこれで大変面白いけど、大陸も移動するというプレートテクトニクスと組み合わせると、「裏山は昔、海の底だった」が無難。

実際、昔の人はのび太と同じように、「陸地が動くわけないやん」と思っていたらしい。昔、誰かが、アメリカ大陸やアフリカ大陸の形を見て、「あれ?パズルみたいに形がはまる?」と気がついて、「大地は動く!」と大胆極まりない仮説を立てたが、当時は荒唐無稽と思われたらしい。

しかし、大陸をまたいで共通の化石が見つかったり、離れてる大陸が昔くっついていたと考えたほうが辻褄が合うという証拠が見つかってきて、大陸移動説は受け入れられるようになった。
科学ってある事実から導かれた理論と別の理論から導かれた理論が矛盾するって、日常茶飯事。

たとえば、金属を高圧の水素ガスにさらすと染み込み、もろくなる「水素脆化」という現象は、金属研究してる人たちの中では常識だったらしい。
とある研究者が、「超高圧の水素ガスにさらしたらどれだけもろくなるんだろう」と実験してみたら逆に強くなり、水素ガスが染み込まなくなった。

今では、金属の隙間という隙間に水素ガスが染み込んで隙間を埋めることで丈夫にしてるのでは?と考えられているらしい。
ほかに、鉄は錆びやすい金属として知られている。ある研究者が「究極に純粋な鉄を作ったらどうなるんだろう?」と研究してみたら、案に相違して錆びなくなったという。

どうやら普通の鉄が錆びやすいのは、不純物があるかららしい。
昔は、免疫を強くすることでガンを防ぐことはできない、というのが常識だった。その常識は、実は今でも生きてる。ただし、免疫を弱くするブレーキ役を外すとガンの何割かは治るようになってしまった。ノーベル賞を取ったチェックポイント阻害剤がそれ。

論理というのは、現実に屈服することを前提とすることで初めて強力になるのだと思う。「アキレスはカメに追いつけない」というパラドックスがある。アキレスは俊足で知られる英雄だけど、先を歩くカメは、アキレスが一歩進むとカメも進むから、一向にカメを追い越せない、というお話。

論理だけでこの問題を考えても、解決の糸口はない。でも、現実にはカメをアキレスはすぐに追い越す。それどころかもっと足の遅い人でも追い越せる、という現実がある。なのに論理だけではこの矛盾を解決できないのは、その論理が何らかの現実を無視してるから。

現実を無視した論理は無効。常に論理は現実の下僕でしかない、と私は考えている。
論理は、いまだ見つかっていない新現象を発見するのには役立つ。たとえば、海王星の軌道の揺らぎを見て、その外側に別の惑星の存在を推定し、冥王星を発見したという話がある。論理はそうした便利な面もある。

でも、論理が導いた結論といえども、現実がその結論と一致しないならば、現実を優先する。それがとても大切。

古代ギリシャの医学者ヒポクラテスの言葉。
一、事実以外に権威は存在しない。
二、 事実は正確な観察によって得られる。
三、推論は事実に基づいてのみ行われるべきである。

私は、このヒポクラテスの姿勢がとても大切だと思う。論理は、まだ見ぬ現実を発見するためのツールでしかない。つまり、仮説としては大変有効だけど、仮説はやはり仮説でしかない、という弁(わきま)えは大切だと思う。

私が、子育てとかで、ある現実に基づいて仮説を述べたとして、別の現実から導いた仮説が、論理として矛盾して見えることはある。その場合、どちらかの論理が、間違ってる、のか、といえば、そうでもない。どちらの仮説も現実に立脚している以上、間違っているわけではなかったりする。

矛盾しているように見える論理があったら、その両方を包摂できる新たな仮説を紡ぐ。これをヘーゲルは「止揚」とか言ったらしいけど、何やねんこの難しい言葉。ドイツ語のアウフヘーベンを直訳しようとしたらしいのだけど、分からへんやん。私は「包摂」でええと思う。

私は最近、赤ちゃんの時期には実況中継をして言葉をたくさん浴びせるとよい、と勧めた。他方、子どもが言葉を口にし始めたら、逆に親は自分が話す以上に聞き役に回ったほうがよい、と補足した。論理としては矛盾しているように見えるが、現実を考えたらそうするしかない。

赤ちゃんは、既に能動的に生きようとする力を備える。でも、言葉の材料がないと言葉の獲得はできない。だから言葉をたくさん聞かせる必要がある。でも、それが赤ちゃんの津港を考えない、ただ浴びせまくるものではダメ。赤ちゃんの反応を見ながら、その相互作用で言葉を紡ぐことが大切。

赤ちゃんが目を向けた先を言葉にする。感心を示したものを言葉にする。すると、赤ちゃんの先回りをするのではなく「後回り」する形となる。赤ちゃんの能動性を損なわないで済む。そして、赤ちゃんが言葉を発し始めたら、今度は聞き役に回る。すると、子どもは親の反応が面白くて、

ますます言葉を紡ごうとするようになるように思う。子どもが能動的になるような接し方を、生まれたての赤ちゃんの頃から意識する。実況中継して言葉を浴びせるときも、子どもが大きくなって、逆に子どもの話すことを聞き役に回ることも。

矛盾して聞こえる論理に出会った時は、両方の論理を包摂できる新たな論理を考える。すると、いろんなことが解像度を上げて理解できるように思う。論理の下僕になったらアカンと思う。

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