モンテーニュによる「内部論理の発見」がルソーによる民主主義、教育学の発明につながった(と思う)

ルソーは、現代社会に非常に大きな影響を与えた2つの「発明」をしている。
一つは民主主義。
もう一つは教育学。
ルソーがこの2つの「発明」をしていなければ、果たして現在の民主主義は生まれ得たかどうか。国民に等しく教育を与える学校制度が生まれたかどうか。人類史にとてつもない影響。

ルソーの発明した民主主義は、フランス革命をきっかけに世界中に波及した。専制主義の国でさえ、どこか民主主義を意識せざるを得ない。世界中のどの国でも、国民に等しく教育を与えるべきだという考え方から逃れることはできない。現代社会をつくる上でルソーはとてつもない影響を及ぼした。

ただ、なぜルソーが民主主義や教育学を発明することができたのか、その理由がよくわからない。通常、思想や哲学はそれらが生み出される時代背景というものがある。あるアイディアが生まれるには、そのアイデアを生み出す時代背景というものがあるのが普通だ。ところが ルソーの場合。

ルソーが生きた時代は貴族と庶民の間に大きな格差があるのが当然だった。貴族という人種は優れていて、庶民は愚かであるという考え方が当然とされていた。そんな時代背景の中でどうやって、民主主義や教育学の基礎となる、「人間には等しく能力が備わっている」という考え方を生み出し得たのだろう?

おそらくだが、ある人物の影響がとても大きい。モンテーニュ。彼の著作「エセー」は、貴族や庶民、 あるいは西洋人とそれ以外の国の人々との間に能力差があるという考え方をとっていない。庶民にも、またキリスト教徒以外にも優れた知性が備わっていると考えていた。

本を読み、学問もあるはずの貴族の多くが、ペストにかかると「もうダメだ」と悲嘆に暮れ、醜態をさらすことが多い一方、本を読んだこともなく、学問を一つも知らない農家は、感染しても体が動くうちはいつものように働き、いよいよとなったら静かに横たえて死んでいった。まるでソクラテスのように。

西洋人は、死んだ人の肉を食べる原住民に出会ったときに「野蛮な」と批判した。ではお前たちはどんな風に死んだ人をとむらうのだ、と聞かれた時、西洋人は「棺桶に入れて、土の中に丁重に」と答えた。原住民は「大切な人の体をウジ虫どもに食べさせることのどこが丁重なのか」と返されたという。

モンテーニュは異なる意見の持ち主に対し、その「内部論理」を発見する天才だった。モンテーニュが生きた当時、西洋人は自分たちを一番の人種と考え、他の民族をバカにしていた。しかしモンテーニュは、彼らには彼らなりのリクツ、倫理があり、その観点から考えれば非常に理にかなっていると考えた。

モンテーニュの「内部論理の発見」は、自分規準で相手を軽く見、愚かだと考え、見下す差別的な当時の西洋人とは違い、相手を同じ人間であり、たまたま大切にする内部論理が違うだけなのだということを明らかにした。こうしたモンテーニュの姿勢は、民主主義の基礎となる考え方となる。

恐らくルソーは、モンテーニュのこうしたものの見方を学んだのだろう。当時の西洋人は、洗練された西洋文明に浴していない人間は未開人であり、野蛮人だと考えていたが、ルソーは「文化文明と接触するようになってから人類は堕落し始めた」という、それまでの考え方とは逆転した世界観を提示した。

西洋文明に触れることが優れた人間である証明にはならない。各人がそれぞれの「内部論理」に従って行動しているだけのことで、どちらの内部論理のほうが上だということも簡単には決められない。こうした考え方をモンテーニュからもらったから、ルソーは民主主義を発明できたのだろう。

ルソーは教育学も創始した。それまでの教育の考え方は「ムチで厳しく指導する」というものだった。人間はエデンの園を追放されて以来、生まれもって罪を背負っている(原罪)という考え方が一般的だった。なのに子どもは無邪気で原罪を自覚していない。だからムチで罪深さを教えなければならない、と。

ところが、ルソーが参考にしたと思われるモンテーニュ「エセー」では、モンテーニュ自身がいかにのびのびと育てられたかが描かれている。ムチで叩いて言うことを聞かせようとするのではなく、ごく自然に道徳的でもある行動をとりたくなるように、学びたくなるように環境を整えられた。

ルソーは恐らく、モンテーニュの育てられ方から着想を得たのだろう。自身の著書「エミール」では、架空の少年エミールに対し、大人がどんな風に接し、どんな環境が与えられるかによって、自然と望ましい行動や学習意欲を持つことになるだろう、ということが描かれている。

これは革命的な考え方だった。現代でも少なからずの親が「子どもは放っておけば学ぼうとするはずがない、叱って怒鳴って罰を与えて初めて勉強しようとする、怠惰な生き物なのだ」と考えがちだが、ルソーの生きた時代は、それがまさに常識だった。教育にはムチが必須だと考えられていた。
しかし、モンテーニュもルソーも、人間はそもそも自ら学びたいという欲求があり、人に優しく、誰かのために行動するということも好んで行う生き物なのだと考えた。そうした、そもそも備える欲求の邪魔をせずに済む環境さえ整えれば、子どもは自発的に学ぶと考えた。

これもいわば、子どもには子どもの「内部論理」があり、それに沿う対応を大人がとればよい、ということでもあった。そして、子どもの成長に則した内部論理を大切にすれば、子どもは勝手に育つという発見でもあった。こうしたものの見方も、民主主義の礎となる考え方だといえる。

ルソーの生きた時代には、とても民主主義や教育学を発明するだけの材料は見当たらない時代だった。よくぞ発明できたものだと驚く。ただ、ルソーも恐らくはゼロから発明できたわけではない。モンテーニュがその基礎となる発見、内部論理の発見をしたことが、大いなるヒントになったのだろう。

そしてルソーのこうした発明を受け入れる土壌は育ちつつあった。貴族でも庶民でもない、第三の階級が育ちつつあった。お金のある豊かな庶民、ブルジョアジー(中産階級)。貴族ではないが本を読み、教養も身につけていた。貴族と同様に豊かな生活を送っていた。ないのは身分だけだった。

ルソーの、誰もが学ぶ力を備え、知性を備えることは可能なのだ、という世界観は、当時の中産階級の人たちを勇気づけた。貴族との違いは身分だけ。なのにいろいろ差別されるのはどうしたことか?なぜ政治は貴族だけに牛耳られねばならないのか?こうした疑問に、ルソーの発明はピタリとハマった。

モンテーニュの時代には、どんな人間も知性を備え得るという考え方を実践しようという人々がいなかった。しかしルソーがモンテーニュから着想を得て、それをさらに思想に発展させて提案したときには、中産階級が育っていた。彼らが大きな力となって民主主義は実現することになった。

いわば、ルソーは、中産階級の人たちに、パソコンでいうところのOSを提供したようなものだった。民主主義はそのOSの上でプログラムが動き、社会を変えていった。
モンテーニュがタネをまき、ルソーが育て方を伝授した、といえるだろうか。

このように、哲学や思想は、社会を動かし、姿をガラリと変えてしまうOSとして機能する。歴史の中でどんなOSが「インストール」されたかを見ていくと、私達がどんな社会を生きているのか、解像度高く理解することができる。そして、そのほころびの存在も。

今の時代のOSにどんなほころびがあるのか。どう手当て(パッチ)をしたらよいのか。次の時代に必要なOSは何か。それも見当がつくようになる。
そうした、次の時代のOSづくりに、ぜひたくさんの方々に参加して頂きたい。

現代社会は様々な問題を抱えている。石油など化石燃料を前提とした社会、技術体系を作ってきたけれど、これはもう続けられない。新しい社会は新エネルギーで動かさなければならないが、恐らくエネルギーは大きく不足する。それでも幸せに生きられる社会にする必要がある。

エネルギーや資源の消耗を抑え、しかし人々の楽しさ、幸せを損なわずに済ませる社会とは、どんな姿か。そうした社会を無理なく構築できる新たなOSはどんなものか。ぜひ一緒に考えて頂きたい。

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過去の偉人たちが世界をどうアップデートしてきたのか、その歴史を追いながら、現代社会をアップデートする方法を探ろう、という内容の本。
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