自主性、主体性の強調は能動性の芽をつぶす
(子どもの自主性に任せたい、という意見に対し)
言挙げするようで恐縮ですが、最近私は「自主性」とか「主体性」という言葉を使用するのに慎重になっています。広く使われている言葉だから仕方なく私も使うことがあるのですけれど、「主」って字が入ることで、妙なニュアンスがこもる気がして。
「主」という字が入るために、自主性も主体性も、「己をコントロールする」というニュアンスが強まっているように思います。でも、自分のことさえままならないのが人間。やる気が出ない、やりたくない、動きたくない、ってなることもしばしば。環境次第で大きく変わっちゃうんですよね。
で、自分をコントロールできるなんて幻想を持たないほうがいいなあ、と思うようになって、最近は自主性とか主体性という言葉を避けるようにしています。代わりに私がよく用いるようになってきたのが、能動性。何に対して能動的になるかはコントロールできないけど、自分から動かずにいられない気持ち。
能動性は、自分でもある程度高めることができます。何に能動的になるかは自分でもコントロールしにくいですけど。たとえば試験前で勉強したほうがいいときに、部屋の片づけをしたくなってしまうとか。でも、それもまた能動性が発現したのだから、まあよし、と私は考えています。
能動性が出てきたことを、それが何であれ喜び、面白がっていると、人間はだんだんと能動的になってきます。すると、嫌がっていた方面も「仕方がない、腹くくってやるか」という能動性も登場するようになってきます。すると、嫌がっていたのもサッサとできたりして、心理的抵抗が弱まります。
「なんだ、イヤだイヤだと思っていたけど、いざやってみたらそうでもなかったな」ということがわかって、立ち向かう気力も湧いてきます。このように、どこに能動性が現れるかはコントロールできないけれど、自分の中に能動性が現れた奇跡に驚き、喜んでいると、どんどん能動的になれるようです。
その結果として「自主性」とか「主体性」と呼ばれる姿が現れるのだと思いますけれど、無気力な状態からいきなり自主性とか主体性にワープするのはムリ。まず、何でもいいから能動的になることから始めないと、そこまでたどり着けません。ならば、自主性とか主体性とかは置いといて。
まずは能動性が高まるように自分の状態を置くこと。もし子育てしている人なら、子どもの能動性が高まるような接し方を心がけること。その能動性はどこに発現するかわかりませんが、それはいわば「芽」です。大木に育つには、まず芽から始めるしかありません。その芽をまず大切に育てる。
すると、芽は次第に葉を伸ばし、枝を伸ばし、様々な方面に能動性が高まっていきます。最終形態として「自主性」とか「主体性」という大木にまで育つことを期待したくなりますが、「芽」の段階で大木の状態を期待したら、それは「助長」になってしまいます。
助長とは、隣の畑よりも我が畑の苗が小さいに野に腹を立てた男が、成長を促そうと苗を引っ張り、そのために根が切れて苗は全部枯れてしまった、という故事のことです。私たちは「自主性」とか「主体性」という大木の姿を期待し過ぎて、能動性の芽を引っ張って枯らしているのではないでしょうか。
大人はすぐに、宿題すること、勉強することを「自主的に」「主体性を持って」取り組むことを期待してしまいます。しかし、そうした「大木」になることを急くあまり、子どもの能動性の芽を摘み、大木に至るまでに枯らしているような気がしています。
つまり、「自主性」「主体性」という言葉が能動性の芽を摘んでいる可能性。
私は、いったん、子どもが「自主性」や「主体性」という大木にまで育つかどうかを忘れ、目の前の子どもの中の能動性の芽を、大切に育てることに集中したほうがよいと思います。芽は、手をかけすぎてもダメ。放置してもダメ。
芽をよく観察し、周りの環境もよく観察して、水を上げたほうがいいか、今は水やりを控えたほうがよいか、肥料を上げたほうがよいか、それとも今は控えたほうがよいか、土寄せしたほうがよいか、逆に日に当てたほうがよいか。臨機応変に対応し、芽が能動的に成長するのを祈ります。
芽が能動的に成長することを最大化する。そのための接し方を工夫し、常に改変する。それがとても大切なのだと思います。いろんなことに能動的に取り組むようになった子が、つまりいろんな分野に枝葉を伸ばした子が、自主性とか自発性と呼ばれる状態になるのだと思います。
でも、多くの子どもが「芽」を摘まれ、能動性を発揮することからすでにつまづいています。これで「自主性」とか「主体性」なんて大木に育つはずがありません。「なんでお前は大木じゃないんだ!」と芽につらく当たったって、芽は早く成長しないし、大木のフリもできません。芽が育つのを待たなきゃ。
というわけで、自主性とか主体性なんて言う、ご立派な言葉を用いることに私はかなり慎重になってきていまして、今はもっと手前の状態のことを表すために「能動性」という言葉を用いるようにしています。
以上、言挙げでした。