子どもの「港」になる覚悟
子どもにとって親は「港」のようなものかもしれない。赤の他人だらけの「第三者の海」へと航海を続けた船が、港で息をつき、メンテナンスを行う。そうして修復を終え、気力も取り戻した後、再び大海原に旅立つ。疲れたらまた港に戻る。子どもはそうした船であり、親は港なのかもしれない。
しかしたまに、「第三者の海」(社会)で大成功した親、社会的地位を築いた親が、子どももぜひ自分のように成功してもらいたいと願い、港に着いても休ませてくれないとしたら。子どもを鍛えようとして「海で燃料の補給がないのは当たり前、大嵐の時に休めると思うな」と、港が嵐の海のようになると。
船はメンテナンスを受けることもできず、船員は陸に上がって休むこともできず、ところどころ傷んだ船のまま、再び大海原に追い出されてしまうことに。
家の中を会社にしたり、学校にしたり、警察署にしたり、裁判所にしたり、役所にしたり。すると、子どもは憩いの場所である港を失ってしまう。
船に港が必須であり、港で休息するから、修復するゆとりがあるから大海原にこぎ出せる。なのに、家の中が港どころか嵐の海状態になったら、船はいつか難破する。
生徒として評価されたり、犯罪者まがいの扱いを受けたり、PDCA回せと言われたり、論述書を書かねばならなかったり。それは外海(第三者の海)で十分。家の中は、家庭は、家族は、親は、港でいてほしい。そこでは十分な休息をとることができ、故障を修復できる憩いの場であってほしい。
いくら親が社会的に成功していようとも、一定の社会的地位を築いていようとも、それを家で振りかざすと、家庭は港ではなく外海になる。憩いの場ではなくなる。子どもという船は、いつまでたっても港で修復を許されない難破寸前の状態に置かれてしまう。
ではなぜ、一定数の親がそうした行動をとってしまうのだろう?もしかしたら、自分をほめてほしい、偉大だと思ってほしい、という幼児性がそこに隠れているのかもしれない。親が子どもに「どうだ、すごいだろう」と自慢し、偉大さにひれ伏してほしい。承認欲求を子どもにぶつけているのかも。
しかし子育てで大切なのは、親が子どもに承認してもらうことではなく、親が子どもを承認すること。親は何なら、子どもからすごいと思ってもらう必要はないし、ひれ伏させる必要もない。
これは、優等生で通してきた人、優秀なビジネスマンとして認められてきた人には、戸惑う話かもしれない。それまでは自分の有能さを他の人に知らしめることが大切だった。自分のすごさを認めさせることが、道を切り開く大切な原動力だった。ところが親になるということは、正反対のことが求められる。
自分が子どもに認めてもらうのではなく、親である自分が子どもを認めること。承認欲求を満たしてもらうのではなく、子どもの承認欲求を満たす側になること。それまでの子ども時代とは全く逆の発想に切り替わる必要がある。
しかし、変に社会的成功を収めてきた人は、子どものころからの「他人に自分のすごさを認めさせる」という、自分の承認欲求を満たすことで成功を収めてきた成功体験がある。このために、自分の承認欲求を満たすという「幼児性」を捨てられないまま成人する。しかし「大人」になったとはいえない。
親になるということは、自分の承認欲求を満たすという「幼児性」を捨て、子どもの承認欲求を満たすという側に立ったのだ、という点で、腹をくくる必要がある。自分を認めてもらうことはもうやめて、子どもを認めるということに心を砕くように、努力の方向をひっくり返すことが必要。
子どもにとっての「港」になれるかどうかは、親自身が自らの承認欲求を脇に置き、子どもの承認欲求を満たす側に立ったということを認めることが必要。しかし社会的成功をおさめた人の一部は、子どもを部下扱いしたり、生徒扱いして、「港」としての機能を破壊してしまいがち。
大山巌は若い頃、才気煥発でカミソリのように鋭い人間だったという。その才気ばしった有能さで上の人たちから認められた。しかし出世して人の上に立つようになると、次第にその有能さを表に出すことをやめ、茫洋とした、ちょっと抜けているかのような様子を見せるようになったという。
そして部下が提案してくると、「おお、それはいいですね」と驚き、やってごらんなさい、と任せるように。部下が能動的に動きやすくし、能動的に動けば動くほど大山はその様子に驚き、喜ぶものだから、部下たちはますますハッスルしたらしい。
大山は、人の上に立ったら、部下の承認欲求を満たす側になる必要があることを知っていたのだろう。自分が辣腕をふるい、部下たちに「どうだ、俺はすごいだろう」と認めさせるのではなく、「お前たち、すごいなあ」と驚き、承認する側に立つことが大切なのを知っていたのだろう。
「大人」になる、というのはそういうことなのかな、と思う。自分のすごさを知らしめる間は、まだ自分を認めさせようという「幼児性」が抜けていないと言える。「大人」は、部下や子どもの承認欲求を満たす側になっているのだ、という覚悟を持つことのように思う。
子どもにとっての「港」に親がなるには、子どもたちに認めてもらおうという幼児性を捨て、子どもたちを認めようという「大人」になる覚悟が必要。子どもたちの成長に驚き、面白がる。それが子どもたちの能動性を刺激し、ハッスルさせる。「第三者の海」に飛び込む力となる。
社会的に成功するには、子ども(幼児性)であったほうが有利。「ぼくすごいでしょ!ねえ、見て見て!」努力し、アピールし、他人に認めさせる。その積極性が社会的にも評価される。しかし心構えとしては「幼児性」要素が強い。他方、家庭を持ち、子どもを育てる場合は、その幼児性は有害。
親が子どもに「ねえ見て見て!ぼくすごいでしょ!」ではなく、子どもが親に「ねえ見て見て!こんなのできるようになったよ!」と言ったときに、「ほう!もうそんなことができるようになったのか!」と驚き、面白がる立場に回る。それが、子どもという船の「港」になる要件なのかもしれない。
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