驚かされる力・・・なぜか能動的に動き出す
私は学生の頃に塾を主宰し、中学・高校生を指導した。で、いろいろ問題を抱えている子どもたちが多くて、非常に勉強になった。研究者になると、大学生が私のところに研究しに来て、その指導をするようになった。また、スタッフが20代から60代まで来て、その世代も指導させていただいた。
空白が赤ちゃんから小学校卒業までの年代だったんだけれど、子ども二人が生まれ、その同級生などとも触れ合うことで、全年齢世代の指導をカバーすることができた。赤ちゃんから65歳まで指導した経験があり、それぞれの年代の様子がわかるようになった。
で、共通しているなあ、と思うのは「みんな、驚かすのが大好き」ということ。私が思ってもみなかった工夫や発見、挑戦を相手がしていることに対して素直に驚くと、赤ちゃんから高齢者まで、みんな「やったった」顔になる。そして、「また新しいことで驚かしてやろう」と企むようになる。全年齢が。
これ、驚く対象が「結果」だとこうはならない。いつまでも過去の結果、成果を自慢し続け、ほめてもらおうとする。いわゆる「いい気になる」だけ。しかも、過去の栄光にすがるばかりで、新しい努力をしなくなる。驚く対象を間違うと、むしろ怠け者を生み出すのに手を貸すことになる。
しかし、「こんな工夫、よく思いついたねえ!」「この発見、面白い!よく気がついたねえ!」「いやいや、よくこれ挑戦する気になったよね」と、工夫・発見・挑戦に驚くと、面白いことに、過去にとどまろうとしなくなる。新たな工夫、発見、挑戦をして驚かそうと企むようになるらしい。
だから私は、結果については驚かない。「あ、そ。」で済ませてしまう。過去にとどまってほしくないから。で、工夫・発見・挑戦に驚くと、常に新たな工夫、新しい発見、次なる挑戦に臨もうとする。その勇気の連続に、私は心底驚かされることになる。ではなぜ、工夫・発見・挑戦に驚くとそうなるのか?
工夫に驚く、発見に驚く、挑戦に驚く場合は、「新しくないと驚けない」からだろう。今回の工夫で驚かすことができても、過去の工夫はすでに過去。もう驚かすことはできない。実際私も、「それ、前にやった工夫だよね?新しい工夫はどれ?」という態度だから、昔の工夫では私は反応しない。
こういう態度でいると、どうやら私を新たな工夫、発見、挑戦で驚かしてやろう、と企むらしい。そのため、私はいつも新しい工夫、発見、挑戦で驚かされる羽目になる。それが楽しい。だって実際、そんなに能動的にそれらをやり遂げようということって、奇跡的なことだから。
私は他者を動かすことができない。仮に命令しても、その通りに動いてもらえる保証はない。所詮は他人。他人を思い通りに動かすことなんて不可能。他人のやる気を引き出すことも無理。私は他人ではないのだから。そう、他人をどうこうすることなんて、不可能。なのに。
私が新たな工夫や発見、挑戦に驚かされると、なぜか赤ちゃんから高齢者まで、私を驚かそうとする。「あ、この工夫、ちょっと面白いかも」「この発見伝えたら、驚くかも」「こんな挑戦したら驚くだろうなあ」と企むらしく、そして私が実際に驚かされると、してやったりの顔をみなさんする。
なぜそんなに能動的に、工夫や発見、挑戦をするのか?私にはどうしようもない他人なのに?でも、不思議と、私がそれらに驚かされていると、まずまちがいなく全員が能動的になり、私を驚かそうと新たな工夫・発見・挑戦をしようと動き出す。これが大変面白い。
人間は恐らく、他者を驚かしたい生き物なのだろう。その欲求は、間違った形で現れると、「自分を無視するくらいなら犯罪を犯してでも、相手を傷つけてでも」驚かそうとする。少なからずの人にとって、無視されることは嫌いで、人を驚かすことが大好きな気がする。
もちろん、目立ちたくない、人を驚かすなんてとんでもない、という控えめな人も多い。ただそういう人でも、「あなたがこれをしてくれたの?よく気づいてくれたね。ありがとう」と、軽い驚きを込めながら感謝すると、はにかみながら喜んでくれる。そして、少しだけ積極的になったりする。
「驚く」と言ったって、大仰に驚く必要はない。「お?」と口にするだけでもいいし、なんなら少し目をむくのでも構わない。あら、ちょっと予想外、という反応を示すだけで、そしてそれがポジティブなものであると、「やったった!」という喜びを人間は味わえるものであるらしい。
私は基本、他者に期待しない。自分のために動いてくれるなんてちっとも信じない。そういう意味では、私は不信のカタマリだ。だからなのだろう、他者が私のために動いてくれることに心底驚く。「え?私のためにこの工夫をしてくれたの?」「え?この発見教えてくれるの?」「ええ?挑戦したの?」
なんなら、それら工夫・発見・挑戦が私に利害のないものであっても構わない。でも、それを私に教えて知らせようとしてくれたことに私は驚く。私を驚かそうというその好意の発生に驚く。すると、なぜか、すべての人と言ってよいほど、多くの人が「また驚かせてやろう」と企んでくれる。
私はずっと人づきあいが苦手だったんだけれど、「そうか、どの年代の人と付き合うにしても、驚かされていればいいんだ。それもできれば、工夫・発見・挑戦、追加するなら努力・苦労に驚かされれば」と思えるようになってから、楽になった。だいたい、良好な人間関係を築けるのだな、と分かってきた。
ユマニチュードという介護・看護の技術を知った時、「驚かされる」ことが、認知症患者さえも動かすことを知って驚いた。創始者のジネスト氏が認知症患者に接すると、患者がジネスト氏の存在に気がつく。ジネスト氏はその視線の変化に驚き、喜んで見せる。すると患者は、
ジネスト氏をさらに驚かそうと、ジネスト氏の言うとおりに手を動かし、体を起こし、ついにはサヨナラを言うために立ち上がろうとしたりする。ジネスト氏が患者が気づくのを待ち、患者が動き出すのを待ち、そして実際に動き出した「奇跡」に驚かされるから、患者は能動的になる好循環が生まれるらしい。
他者が自分に向かって動き出そうとすることは、奇跡だと思う。私のことを無視しても不思議ではないのだから。でも、私のことを気にしてくれるという奇跡が起きた。そのことに驚かされると、他者はますます驚かそうと、いろんな工夫を始める。それにも驚かされると、ますます工夫する。
この「驚かす」という欲求は、赤ちゃんの頃から備えている。私の息子が赤ちゃんの時、バウンサーに座らせて、足裏に私の腕を当てた。たまたま赤ちゃんの足が伸びた時、バウンサーが揺れる。その時、私は「お?」と驚きの声を上げるようにしてみた。すると、赤ちゃんは、足を動かすと
「お?」という驚きの声と、バウンサーが揺れるという現象に気がついた。すると、何とかして足を動かそうとし始めた。私は「お?お?おー!」と驚かされ、バウンサーはブンブン揺れた。間もなく、蹴るのが無茶苦茶上手になって、キック力も増した。
どうやら、「驚かす」という欲求は、赤ちゃんから死ぬまでずっと抱えているものであるらしい。そして驚かすことができたと分かると、それを繰り返そうとする。だから、「能動性の発生に驚かされる」ように心がけると、相手はどんどん能動的になる。
人間は基本、人を動かすことはできない。でも、「驚かされる」と、人は能動的になるようだ。もちろん、どの方向で能動的になるのかはコントロールできない。相手が何でこちらを驚かそうとするのかもコントロールできない。でも、能動的になることを促すことはできるようだ。
何に能動的になるかはコントロールできないけど、能動的にはなる。それが「驚かされる」力なのかもしれない。これを知ってから、私はずいぶん気持ちが楽になったように思う。