「正しさ」考

自分の主張こそ「正しい」とする考え方、実験科学では絶滅状態。使われる場面を見たことがない。せいぜい、「妥当と思われる」「強く示唆される」が精一杯。もし「正しい」なんて論文で書いたら、審査する人(査読者)から「表現が強すぎる」と修正を求められる。証拠があっても。

「正しさ」を追求して構わない、という考え方は、たぶん中世西洋の異端審問に端を発して、帝国主義が終了するまでの考え方のように思う。
中世西洋では、どっちの宗派が正統なキリスト教か、異端審問というのが行われてきた。「正しい」もの以外は滅ぼされて当然とされた。

帝国主義は、よく正義の名の下に行われたし、第二次大戦はどこの国も正義は自分にあり、として戦い、敵を殺すのを当然視した。
こうした「正しさ」に疑問が生じ始めたのは、ベトナム戦争がきっかけかもしれない。

アメリカ人は、自国のやることは正義だと純朴に信じていたら、ベトナム戦争でかなり残虐なことをしているらしい、ということが伝わり、「正しさ」に疑問が生じ始めた。それと同時に、科学でも大きな変化が同時期に起こり始めていた。

レイチェル・カーソン「沈黙の春」で、それまで科学技術の粋だと思っていた化学農薬が、地球上の生命を脅かしていると警告を発した。これは相当の衝撃だった。似たような事実が次々に明らかになっていった。夢の物質とされたフロンガスはオゾン層を破壊した。

既存の価値観では「正しさ」としても、後に問題が明らかになることが多々見えてきた。かつては「権威」と呼ばれる研究者に学会で逆らったり異を唱えたりするのはタブーだったが、「正しさ」とか「権威」こそが問題だ、という認識が科学では常識化していった。

こうした変化に理論的根拠を示したのがポパー。ポパーはなんと、「こんな証拠がもし将来見つかったら、この理論が誤りであることを認めます」という、「反証可能性」を示さない理論や仮説は科学的ではない、とした。正しさが科学的なのではなく、誤りを認める謙虚さが科学的なのだと。

ポパーの科学哲学が浸透していくと、「正しさが証明された」という表現は、科学的に誤りだと見なされるようになった。どんな証拠(反証)が出たら理論を引っ込めるか、という弱点をさらけ出すことこそ、科学的な姿勢だと考えるようになった。

科学の世界から「正しい」という表現が消え、「妥当と思われる」「強く示唆される」という表現にシフトしたのは、どんなに正しいと現時点では思われることでも、将来ひっくり返ることがあるということがわかってきたし、そうした弱点を自らさらけ出すことこそ科学だと考えられるようになったから。

「正しさ」は、中世西洋から帝国主義が終わるまでは強く支持された考え方だったけれど、人間は過つもなであり、過ちを犯している可能性(反証可能性)を認めないものは科学的でない、という考え方が根付いたことで、滅びつつある。そしてそうした流れは、妥当なのではないかと思う。

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