1600年以上続く、哲学の「思い込み」

哲学ってなんであんなに小難しい言葉を使うのだろう?
私が思うに、2つほど大きな理由があるように思う。一つは、ヨーロッパ中世の影響。
ゲルマン人の大移動の影響を強く受け、古代ローマ帝国(西ローマ帝国)が崩壊してしまった。商品流通網はズタズタ、経済が停滞、飯が食えず、みんな農家に。

すると、西欧では文字を読めるのが坊主(聖職者)と貴族の一部に限られるようになった。数百年にわたり、哲学はキリスト教の「ついで」に細々と伝えられる格好に。ルネサンスになり、文字を読める人が増えたと言っても文盲の人は多く、文字を読めること自体が特権階級を意味する時代が長かった。

「自分たちは文字が読める特権階級」意識が、難解な言葉をむしろありがたがる傾向を強めたのかもしれない。難解であればあるほど深遠な哲学と感じてしまう妙な人間心理が働くようになったのかも。

もう一つの理由が、西欧哲学を受け入れる側の日本にとって、哲学は「舶来物」だったということ。
日本は、海の向こうから来たものをありがたがる伝統がある。たとえば仏教なんかでも、漢字だらけ、なんならサンスクリット語の音のままお教を読んだりする。意味不明。

でも、その意味不明さが呪文としての魔力を備えているようで、ありがたがられた。お教の意味を理解できるのは、漢語がわかるエリート僧侶のみで、その他はチンプンカンプン。そういうワケのわからんものをありがたがる風習が日本にはもともとあった。

明治になり、西欧哲学を輸入するにあたって、翻訳することになったのは、当時の知識人。当時の知識人は、漢語を操る人のことだった。だから自然、西欧哲学は漢字だらけの言葉に翻訳されることになったのだろう、というのは、ヘーゲル研究者も語っている。

仏教のお教や漢文の知識を知識人だけで独占してきた伝統もあって、西欧哲学を訳す際も「我々知識人にだけわかればよい」と、無意識のうちに考えていた可能性がある。庶民化する気がもともと薄かったのかもしれない。このことが特に日本語訳の西洋哲学が小難しい原因の一つになっているように思う。

「俺たちはこんな漢文チックな難解な表現でも理解できるぜ」という特権階級意識が、哲学者を特別な存在へと押し上げる気がして、哲学は一般庶民には理解しがたい高尚な学問、というスタイルを持つようになったのではないか、と思う。しかし私はこの姿勢、ナンセンスなように思う。

カントは、多くの人に哲学を学びやすいようにと、当時の知識人が使用していたラテン語ではなく、庶民の言葉であるドイツ語で書いたという。哲学を日常用語で表現しようとしたわけだ。西欧では早くから、哲学を庶民化しようとする動きが始まっていたと言ってよいだろう。

ところがそのカントの哲学でさえ、日本語に翻訳される際には小難しい漢字だらけの言葉に訳されてしまう。形而上とか形而下とか、先験的とか。なんやねんそれ。
形而下は「形でとらえることのできるもの」、形而上は「形でとらえられないこと」と、和語で翻訳すりゃいいのに。

哲学は、長い間、知識人の中だけでたしなまれていた独占物だった歴史がある。このため、庶民に理解できない呪文のような難しい表現にすることで、自分たちの独占物にし続けようとしてきたフシがある。しかし私は、そんな妙な伝統に付き合う必要をまるで感じない。もともと、哲学は身近なものだからだ。

プラトンの「クリトン」とか「饗宴」など、ソクラテスが登場する場面を読んでると、マジメくさったシーンなんか一つも出てこない。「饗宴」なんか寝そべって酒をかっ喰らっている。そうした気楽な場面で、いろんな話題に興じるのが哲学だった。

哲学がマジメくさるのは、やはり中世キリスト教の影響が大きそう。中世ではキリスト教の影響が大きく、「人間は生まれながらにして罪人である」と捉え、打ちひしがれ、懺悔の念に駆られるほど敬虔な信者、ということになっていた。この時に、欲望を断つというマジメスタイルが根づいたのかも。

私達は、4世紀に起きたゲルマン人の大移動以来、哲学をマジメ腐って語らねばならないもの、と捉える「思い込み」を抱き続けてしまったのでないか。1600年以上にも及ぶ勘違い、思い込み。

しかしその前は必ずしもマジメ腐って語るものではなかった、気軽に語るものだったことを、そろそろ思い出してよいように思う。もっと笑いを取りながら語ってもよいと思う。ボケとツッコミを哲学に導入してもよいだろう。1600年以上にものぼる思い込みを、そろそろアップデートしてもよかろう。

芸術作品ではすでにその試みが進んでいる。「びじゅチューン」では、それまで高尚な趣味と捉えられ、小難しくもありがたいお言葉で賞賛することがお約束だった芸術作品を、面白おかしくおちょくるくらいの勢いで笑いに変えた。それにより、芸術作品を子どもたちにも身近なものにした。

モナリザはお局OLに、
https://m.youtube.com/watch?v=j_9EcGdaV6w
見返り美人図はドリルに。
https://m.youtube.com/watch?v=_odL-IeWTEI
もう発想が無茶苦茶で笑うしかない。でもこの「笑い」が芸術を身近なものにし、芸術への理解を広めたことはもっと評価されてよいだろう。

私は、哲学・思想の「びじゅチューン」を目指した。小難しい言葉は一切使わずに、それぞれの哲学者や思想家が、当時の「常識」の問題をどう見破り、どう「新常識」を樹立してきたのか、それを面白く示せたら、と考えて書いた。すでに哲学・思想をやり終えた専門家には物足りないかもしれない。

しかしこの本で示したかったのは、哲学・思想の「陳腐化」。高尚で手の届かないものではなく、もっともっと身近なものとして、日用品化(コモディティ化)したかった。1600年以上も続く「哲学はマジメ腐らねばならない」という呪いを解除し、もっと身近なものにアップデートしたいと思う。

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