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「自分を好きになろう」とする事と「自己肯定感」の違い

『「死にたい」「消えたい」と思ったことがあるあなたへ』(河出書房出版)という本を読んでいる。

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この本は、題名の通り、死にたい・消えたいと思った事がある人に向けて25人の作家や医師、福祉職員等がメッセージを寄せている本である。

その中で精神科医の水島広子先生の言葉が目が開かれるような内容だったのでメモしておきたい。

水島先生は「「自分を好きになろう」というのは暴力だ」とおっしゃっている。水島先生は、「自己肯定感」は大切なんだけどそのことと「自分を好きになる」という事を分けて考えようと提言されているのだ。

いくつか、水島先生の言葉を本文から抜き出す、

「自分を好きになる」と「自分を肯定する」というのは、似たように聞こえるかもしれませんが、多くの場合に、実は正反対のものなのです。そして、心の健康を守って、人間らしく豊かに生きていくために必要なのは「自己肯定感」の方です。心を病んで治療を求めて来られる方は、概して「自己肯定感」が低いものです。
「自分が嫌い」「消えてしまいたい」と思っている人は、実はとても多いと感じています。私自身にとっても、無縁の感情ではありません。(中略)あくまでも、積極的に「死にたい」ではなく、もっと静かな「消えたい」なのです。
「好き」「嫌い」を離れて、自己肯定感を育てていただきたいのです。

そして、次に自己肯定感と「自分を好きになる」ことの違いを説明される。


「自己肯定感」は、「自尊感情」などとも呼ばれますが、「ありのままの自分を受け入れる気持ち」です。反対語は何かと考えてみると、「自己否定」かな、と思います。私たちには、いわゆる長所も沢山あります。長所を見つけられない、と思う方がたくさんいても、実は全くかまわないのです。
「長所」「短所」「よいところ」「悪いところ」は、全部、「条件付き」の発想です。「私は勉強ができるから好き」「私はスポーツが得意だから大丈夫」「私は忍耐力がなくて何も続かないから嫌い」などと、いろいろあるでしょう。あるいは他人との比較の中で、「あの人はあんなにできるから価値がある。私には価値がない」などと思うこともあるでしょう。
でも、これらの発想の全てが、「何ができる(秀でている)から、価値がある」という考えの上に成り立っているのです。
一方、「自己肯定感」というのは、「無条件の肯定的関心」のことを言います。今の自分にはできることもあれば、できないこともあります。そもそもが、それぞれの人が異なる事情をもって生きているのです。(中略)世界に生きる一人一人にとって、それぞれにしかわからない事情があるのです。それなのに、その事情によってプラスになったりマイナスになったりすることに、優劣をつけられるでしょうか?
「自分のいいところ探しをしよう!」「自分の好きなところを探そう!」というメッセージは、それらの事情を完全に無視したもののように感じます。私から見れば、「こんなに大変な事情を抱えているのに、よくぞいきてくれた」というのが正直な感想です。それは無条件の肯定とも言えます。


かなり長い引用になってしまったが、まず「自分が好き」というのは必ず比較によって価値という尺度が入ってくる。好ましい価値があると認められた場合にだけ自分が好きになれるのだ。これは、何かができるから価値があるという発想の上に成り立っている。

一方で、自己肯定感というのは「無条件の肯定的関心」だと水島先生は言う。それぞれの存在そのものを”許す”・”認める”という感覚に近いのではないだろうか。

その時に水島先生は、「それぞれの人が抱える事情」があって、その事情を抱えたまま生きていることが尊く、それは本来比較などできないとおっしゃっているのだ。

たとえば、私自身何度も、「消えたいな」「自分なんて大嫌いだ」と思う事がある。しかし、仮に私という人間の分身が目の前にいたとする。彼は私と全く同じ経験をしている映し鏡だ。その彼が生きていてあったことをインタビューして聞くとする。私自身、36年の中で色々なことがあった。それは、世間の36歳に比べたら全然苦労していない所もあるのだけれど、やはり、生まれた家の問題や、中学の家族と死別したことなどを考えると、一人の人間の歩みとして、「よく頑張って生きてきたな」と言うと思うのだ。

よくそんなことがあったのに「生きて来てくれた」ともし私の分身が物理的に目の前にいて話したら言うと思う。それと同じ感情は、私以外の他者にも持つだろう。例えば教員時代に私が関わってきた、中高生達。一人一人違えども、皆それぞれどこかしら難しい問題を抱えて生きているんだなと思った。それは比較を超えていた。生意気で問題ばかり起して腹立つ奴もいたけれども、そういう生徒だって、家庭環境が悪かったり、親が無関心だったりと色々あった。彼等と接するときに、お前の「人生はなんだ!甘っちょろいな」とか「お前の人生はしょうもないな!」などという感想は持たなかった。一人一人、「良く生きとるなぁ~、頑張ってんなぁ~」という感じに近い気持ちを抱いていた。

ところが、往々にして我々は、自分に対しては、「しょうもない人生だな」「何も価値ないじゃん」という価値でもって見てしまっているのではないか?「一人一人がそれぞれの事情を抱える者」として見るという見方がなぜか抜け落ちてしまうのではないか?(なぜそうなってしまうのだろう?)

もし、自分に対しても「事情があったのによく生きてきたな」と激励してあげられるならば、それはとてもすばらしい事だと思う。そして、私は、自己肯定感を肥大させることは良くないと以前noteにも書いたのだけれど、それは考察が浅かったと思う。

前のnoteでは、常に自己肯定感を上げるような言葉を探し求める事で、自我が肥大していくのだ…と考えた。しかし、ここはより慎重に考えないといけないと水島先生の言葉を聞いて思ったのだ。自分を好きになる、人と比べて好きになるような形の自己評価は自我を太らすことになるかもしれない。

しかし、無条件で自己の尊さを認めることは、何度も確認していかなければならないのではないだろうか?

自己の尊さを認めることが他者の尊さを認められるような人に成る事にもつながる。


そして、ここに、仏教特に浄土真宗が、現代の人の精神の安定においても力になれるところがあるのではないかと思う。

やはり、私たちは、自分自身で自分の尊さをダイレクトに認めることは難しいのではないかと思う。(我々の目は外側についていることも関係があると思う。他者の事は見えても、自己を見ることはしにくいのではないか?)

阿弥陀如来という仏は、全ての衆生(人間をはじめ命あるもの、迷いを抱えているもの)を傷み・悲しんでいる。厳粛な命を生きているのに、その事を自覚できず、お互いに執着し傷つけあうような生き方をしているからだ。

阿弥陀仏の眼に触れる事で、今まで自分が見る方だったのが、逆転し、見出される存在になるのだ。「迷いの衆生よ」「執着の心に苦しめられ、一歩も迷いから出ることを知らないものよ」という形でだ。

そこにおいて、「見出される自己」という自己の在りようを初めて与えられる。

この阿弥陀如来の眼、あるいは仏教の道理を通して、自分の姿が自覚される。悲しまれている自己というのは、「出来る」「出来ない」等の世間の価値の物差しを離れたものである。そこでは、出来る自己だけが救われるのではない。出来る人も、出来ない人も、賢い人も、愚かな人もみんながみんな、悲しまれているのである。大事な命に目覚めてくれと願われているのである。

この眼を通して自分の尊さを自覚できる。それこそ、「そのままで生きていて良いんだ」という水島先生の言う自己肯定を阿弥陀如来を媒介にすることで賜ることができるのではないだろうか。

そんなことを考えた。

(終)

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