<大分>秋の大分一日一茶産地、4つのお茶のある風景
2020年11月、別府で寝食しながら4日間、一日一茶産地、見聞した折に撮った画像から掘り起こした旅の記憶を綴ります。ちなみに別府は茶産地ではないですが、ここで味わった郷土の味今昔をいくつかご紹介させていただきます。
温泉県大分のなかで一、二を争う温泉地別府では温泉の蒸気を利用して作るプリンが現在人気のスイーツ。大分に着いてまず「絶対食べたい別府名物おすすめプリン10選」なるページでナンバーワンに輝いていた「地獄蒸しプリン」を食べに走りました。味はプレーン、キャラメル、抹茶の3種類。抹茶が早々に売り切れていたので、プレーンをチョイスして温泉の湯気ただようロッジ風店内でいただきました。
「やせうま」は、練った小麦粉を平たくのばしてゆでたものに、きなこや砂糖をまぶして食す、昔ながらのおやつ。平安時代、信仰心の厚い乳母の八瀬(やせ)が、若君の健やかな成長のためにお寺へ祈願に向かう道中、お腹がすいた若君が「八瀬、うま(うまは幼児言葉で食べ物を指します)」とぐずり、その度に小麦粉を薄くのばしてきなこをまぶしたものを若君に食べさせたことから、「やせうま」と呼ばれるようになったといいます。妙蓮寺では、現在でもお盆の行事食として「やせうま」がつくられています。
大分は平地が少なく、稲作よりも麦栽培のほうが盛んに行われました。その小麦粉を塩水で練って耳たぶほどの固さになったものを一旦寝かせ、それから生地を親指大にちぎった「だんご」を一つ一つ手延べし平麺状の形にしたものにきな粉と砂糖をまぶしたものが「やせうま」、「だんご」をにんじん、ねぎ、ごぼう、大根、しいたけといった野菜と一緒に汁物にしたものが「だんご汁」、双方、大分県の代表的郷土料理です。
それでは、観光名所に立ち寄りながら、時に交通機関を乗り継ぎ、時にチャリを走らせて見たお茶のある風景をご紹介しましょう。
《一か所目》 臼杵
「しぐるるや 石を刻んで仏となす」臼杵大仏と吉四六どんのお茶
見どころ盛りだくさんの臼杵へは早朝に出発。観光案内所オープンまでの時間を城下町歩きに当てました。
臼杵は大分県の豊後水道に面している城下町で、戦国時代のキリシタン大名大友宗麟が丹生島に築城したことからはじまり、城を守るためにわざと見通しが悪い迷路のような町並みが作られました。
江戸時代には稲葉家が治め、現在も城下町らしい風情があちこちに残されています。稲葉家下屋敷は、江戸時代に臼杵を統治していた稲葉家の邸宅として、明治時代に建てられたもの。黒塀と鯉が泳ぐ根掘り、庭園、書院造りの座敷、謁見の間の表座敷など、和の心づかいを随所に感じる格式高い屋敷です。庭づたいから江戸時代の武家屋敷である旧平井家住宅も見学することができました。
9時にオープンした観光案内所から借りた無料レンタサイクルをこいで向かうのは、臼杵石仏のさらに先、「吉四六どんの里」野津地区です。
吉四六どんをご存知ですか?吉四六は、日本三大とんち話の主人公(一休、彦一、吉四六)です。江戸時代初期の豊後国野津院(旧大野郡野津町、現在の大分県臼杵市野津地区)庄屋初代廣田吉右衛門がモデルとされています。
全部で44基の「吉四六ばなし」案内板が建てられているので、それらを読み歩くのみ楽しいかと思います。その過程で、茶畑にも出会えるはずです。私が見つけた茶畑は、映画『種まく旅人みのりの茶』のロケ地になった風景の中にありました。帰路は午前中通り過ぎてきた臼杵石仏へ。
臼杵石仏にお目見えする前に、ふもとの郷土料理店の「ほんまもん野菜のランチプレート」で腹ごしらえです。その時、仏の戯れか、メニューにとても興味深い郷土料理を見つけてしまいました。「茶台寿司」。この料理の歴史は江戸時代に遡ります。
天保の大飢饉(1835~37)が原因で倹約令が出され、臼杵藩でも倹約が奨励されるようになりました。茶台寿司は、庶民的な素材を使いながら、豪華に見せるという工夫がなされている料理です。
寿司ネタにはシイタケ、レンコン、絹さや、タケノコなどの野菜や臼杵でよく獲れるゼンゴアジを開いて酢でしめたものを使い、握ったシャリの上下にネタを付け、大皿に並べていく、様々な組み合わせと彩りで華やかな演出がほどこされます。
ふもとの郷土料理屋さんでは時期的に提供されていなかったので、夕食時に城下町で店を探して食べようと決めました。しかし、急すぎて、かなえることができませんでした。この主の特別料理は準備が必要なため要予約だし、お一人様程度の注文は受け入れられないことなのでした。この文章を読んだ誰かが、茶台寿司に誘って下さること、期待してやみません(笑)
《二か所目》 宇佐
「古代、宇佐氏が九州を動かした」神様と仏様が日本で最初に出会った場所
全国津々浦々にある八幡神社の数は4万超、稲荷神社に次いで二番目に多い神社です。古代豪族宇佐氏が宇佐八幡宮とどのような関係にあり、何故全国にある八幡神社の総本宮であるのか、そもそも八幡神とはどんな神でがあるのか等については現在も謎な部分が多々あると言います。
これ程身近にあり生活に密着してきた神のことを日本人は知らないまま、宇佐氏については知名度は低いと思われます。でも、地元の人は現在でもそうであるかのような口調で言いました。「昔は九州の半分近くが宇佐氏のものだった」と。いつかその古代の謎が解かれるときが来るのでしょうか?
参拝を終え、帰りの参道で食べたランチはとり天・がん汁・どじょう天と、その名も「名物づくし御膳」。鶏肉の天ぷらとだんご汁が大分名物、それに加えて、がん汁とどじょうが宇佐の名物料理です。がん汁というのは、河川に生息する藻屑ガニをすり潰して醤油風味に仕立てた汁物で、カニ汁が鈍ってがん汁になったと言われています。
宇佐で見た茶畑は小倉の池の辺りにありました。1620年、細川忠興は病気を理由に家督を譲ると三斎と名乗り茶道三斎流の創始者となりました。この頃に石高を安定させるため領内各地に溜池を造りましたが、豊前最初の治水工事として手掛けたのが、小倉の池であったと言われています。
水辺に広がる茶山のふもとには、藤、バラ、柑橘類…、四季折々、茶山の緑に色彩が加わります。オフシーズンの茶園の秋、ウインターローズが咲き乱れ、バラ園の入り口に「ご自由にお持ちください」の札がかかったミカン箱がおかれていました。
臼杵にいらっしゃる機会がありましたら、駅前や宇佐神宮参道前でチャリをレンタルして、ぜひ花の茶園まで足を延ばしてみて下さい。
《三か所目》 杵築
『陽炎の辻』城下町と紅茶復活物語
杵築城下町は、メインストリートを主脈に、そこからいくつも伸びる葉脈のような坂から構成されています。土塀と石垣の調和がとれた美しい石畳の坂道を上り詰めたところにある広場では、騎馬と武士共揃えの場所になっていました。上が広く下が狭くなっているのは、上からは攻めやすく下からは攻めにくくするために工夫された造りといわれています。
坂の名は下りたところにあった店にちなんでつけられました。「酢屋の坂」と「塩屋の坂」は時代劇やTVドラマ、CMロケ地としてよく使われる絶景ポイント。坂道の上から眺める双方の坂が織り成すコントラストと光は、まさに「陽炎の辻」です。
「飴屋の坂」は「く」の字型の曲線を描く坂です。雨が降る夜でも石が白く光り石段がよく見えたと言われ、石垣や白壁が残る南台武家屋敷と商人の町とをつないでいます。
「勘定場の坂」は杵築城と北台武家屋敷をつなぐ真っ直ぐに伸びた坂道です。道筋にある能見邸内の甘味処「台の茶屋」で和風茶パフェをいただいた時、お茶販売コーナーにきつき紅茶を見つけました。
杵築における茶の栽培の歴史は古く、郷土史『追遠拾遺』によれば、寛文年間(1661~72)、松平英親が家臣に命じて、宇治から茶の種子を買ってこさせて茶園を開いたのが最初とされます。茶の成育がまずまずだったので、宇治から人を招いて、茶の製造法を指導させ、栽培を奨励しました。現在、杵築は現在県内一二を争う茶産地です。
紅茶の生産については、始まりは1957年、主に輸出用としての紅茶作りでした。創始者とされる松山意佐美氏は戦後、朝鮮から引き上げ大分県杵築市で開業した医師でした。周囲の農村の貧しさに心を痛めた彼は、茶栽培に私財を投入して、往診の道すがらあらゆる機会をとらえて人々にその有利性を語り、ついに1956年に組合結成にこぎつけました。
また、たまたま鹿児島から届いた新聞記事で紅茶栽培が有利なことを知り、鹿児島からアッサム種の実生を播種させました。茶業組合も紅茶組合(組合員100名)に改め、紅茶を有望とみて紅茶有限会社を設立、1962年に初めての商品が完成しました。
少しずつ収量も増え、生産も軌道に乗って、1964年には全国品評会一等獲得、翌年1965年には一等一席農林大臣賞を受賞しました。しかし、政府が紅茶の輸入自由化を発表、世界の紅茶が日本国内に出回るようになると、杵築における紅茶栽培は衰退して途絶えてしまいました。再び紅茶作りの火を灯したのは、祖父の意思を引き継いで紅茶作りを再開した松山医師の孫娘夫妻。一度は生産が途絶えた「杵築紅茶」はこうして復活して城下町で供されています。
《四か所目》 中津
福沢諭吉母の実家と耶馬渓の茶
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」日本人ならば誰もが知っているであろう名言を残した福澤諭吉は1歳半で父親と死別し、母親の実家中津に帰郷しました。3歳から21歳まで過ごした家が国指定史跡として中津に残っています。
1803年築の木造瓦葺平屋建て、諭吉は19歳で長崎に遊学するために家を出るまで土蔵で勉強に励んだと言います。小さな庭に植わる茶樹に中津が耶馬渓茶産地であることを実感させられます。
売店に売っていた銘菓は、さすが多くの蘭学者を排出した土地柄、薬膳菓子巻蒸(けんちん)。江戸時代中津藩の外科医だった田中信平が長崎で唐人と交わり、学び著した中国朝鮮料理書『卓子式』を参考に中津の菓子職人たちが復活させた郷土菓子です。福澤諭吉の母が大好物だったということで、ここでも販売しているのでした。
菊池寛の小説『恩讐の彼方に』の舞台となった青の洞門は耶馬溪を構成する風景のひとつです。羅漢寺の禅海和尚などにより、江戸時代にノミ一本で30年もの歳月をかけて掘り抜いた道路トンネルがあり、今なおそのノミ跡や明かり採り窓が残ります。禅海和尚の遺品の数々が羅漢寺ふもとに残ります。なかに茶釜もありました。
温泉と紅葉を楽しみつつ自分のテーマをおった四日間、お茶の季節でなくても充実した旅でした。
上の記事は日本茶散歩中の記事です。他地域の物語も読んでいただけたら、幸いです🍀