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飯田線沿線の茶探訪 〜秘境天龍村で茶を摘む~

七曲りの茶畑(中井侍駅)。眼下には天竜川。

 JR飯田線は愛知県・静岡県・長野県3県、愛知県豊橋駅から長野県辰野駅まで路線距離195.7km、94もある駅のほとんどが無人駅、秘境と呼ばれる山岳地帯集落をうねるように走る路線です。

 1時間に一本走る便は途中の中部天竜止まり、更に奥に行こうとすれば2時間に1本しか走らない便に合わせざるを得ません。中井侍駅駅前茶畑の集合時間は朝10時、乗車時間は2時間半~3時間、6時台の列車に乗らないと間に合いません。飯田線沿線のどの駅で前泊しようか路線図に並ぶ駅名をつらつら目で追った時にときめいたのが、豊川稲荷と長篠城の文字でした。

JR飯田線中井侍駅

 長篠城と言えば、三河国長篠城をめぐって織田信長・徳川家康連合軍3万8千と武田勝頼軍1万5千が対峙し、当時最強と恐れられていた武田騎馬部隊に対抗して、織田軍が馬防柵や鉄砲三段撃ちを繰り出したことで知られる長篠の戦いが行われた場所です。戦国時代の南信州は武田・織田・豊臣・徳川の四大群雄の支配に翻弄され、山城の領主は目まぐるしく変わりました。長篠城も攻防戦によって城が大きく破損すると城主奥平信昌は新城城を築城し、長篠城は廃城となりました。観光地としては少し寂しい場所です。

期間限定「緑茶Cafe茶むらい」

 豊川に豊川稲荷以外に惹かれる観光スポットをもう一つ、素敵なティータイムを過ごせそうなお店を見つけ、飯田線沿線の茶旅の起点は豊川と決めました。が、旅の幸先は良くなく、ティータイムをという小さな願いさえコロナのせいで潰されてしまいました。オープンしてはいたのですが、販売のみで、喫茶スペースは閉じられていました。食欲は満たされませんでしたが、コロナもその風景まで犯すことはできません。日本に居ながらにしてイギリスの湖水地方やコッツウォルズに訪れたかと錯覚するような風景を目にすることができました。画像を見ていただければ、皆さんも共感されると思います。

豊川のカフェ「さんぽ道」

 そして、豊川最大の観光スポットと言えば、豊川稲荷です。豊川稲荷は正式名妙巌寺、一般的に稲荷と言えば狐を祀った神社が想像されますが、禅宗寺院です。寺を開創した東海義易禅師は六代遡る寒巌義尹禅師が招来した神“豐川吒枳尼眞天”を鎮守としました。豐川吒枳尼眞天が白狐に跨っていたことから豊川稲荷が通称で広まったと言います。

豊川稲荷の一千体にのぼる狐たち
霊狐塚

 興味深いのは、寒巌禅師が栄西禅師と同様に、交通が不便な鎌倉時代に2度も宋に渡ったことです。寒巌禅師は順徳天皇の第三皇子として生まれ、天台宗に出家得度し、宇治興聖寺の道元禅師に参じること10年、26歳で道元禅師の法を嗣ぎました。1度目の入宋は約1年間で浙江省の天童寺と教忠報国禅寺を、2度目の入宋は約4年間で浙江省の天台山や雁蕩山の諸寺だけでなく、江西省や湖南省、そして洞庭湖まで赴き、宋の技術や文化を積極的に吸収したと言います。記録には残っていませんが、栄西や道元とほぼ同じ時代を生きたもう一人の宋代茶文化を招来した日本人だったかも知れません。

 実際のお茶のある風景は翌朝早起きして6時台の便に乗るとすぐ始まりました。これに乗ると8時台に着いてしまいますが、次便の到着時間は11時台なのでやむを得ません。愛知県内では三河茶や奥三河茶、標高も高くなる静岡県内に入ると天竜茶、ついには今まで見たことがなかった南信州長野県の赤石茶と、車窓からお茶のある風景を数えながらのんびり天竜奥三河国定公園の風景も楽しむモーニングティーな旅程です^_^

 切符は降りる駅が近づいてくると、予め下車駅を聞きに来た駅員さんが座席まで回収しに来てくれます。「次の駅で下りて下さいね」と駅員さん、せっかちです。本来下りる駅はもう一つ先の駅でした。こちらが間違えを指摘すると恐縮しながら通り過ぎて行きました。でも、目的地の中井侍が近づくと戻って来て、「今度こそ次なので、お願いします」と声がけしてきます。そして去っていく列車から「ありがとうございました。お気をつけて〜」とこんな会話のやりとりがおこなわれる、コミュニティバスのような列車の旅でした。1日平均利用者5〜6人の中井侍駅でこの日朝いちに下車したのは私一人でした。

下方に茶摘みした茶畑

 南信州は、江戸と京の東西を結ぶ街道の要所として、古くから繁栄してきました。歴史や文化、芸能や味覚など多くの魅力が溢れ、山国でありながら高い文化が現在に受け継がれています。それを垣間見ることのできる証として、2つの立場の異なる氏族の存在を見つけました。

 一氏族目は、熊谷氏。『熊谷家伝記』は、天竜川上流の信濃(長野)・三河(愛知)・遠江(静岡)の三国(三県)にまたがる地域の南北朝時代の山村落形成から江戸時代に至る編年的記録で、長野県下伊那郡天龍村を開郷したとされる熊谷貞直の子孫の12代目熊谷直遐が、代々熊谷家当主が書き残した記録を1772年に編纂した中世山村史研究史料で、民俗学者柳田國男が高く評価した民俗学において著名な史料です。南信州における権益確保を目指していた熊谷氏は最終的に武士身分を捨て、土着しました。

 もう一氏族が、遠山氏。歴史舞台に登場したのは武田側武将として、武田晴信の書状に遠山氏の進退にかかわることが記されていました。織田信長の時代には没落の憂き目にあいましたが、本能寺の変で信長の時代が終わると信濃甲州は再び混乱状態になり、徳川氏と北条氏が拮抗しました。家康は真田氏に上州沼田城を北条氏に渡すよう説得しましたが、真田氏がこれに応じなかったため上田城の攻略が行われます。この時遠山景直も参戦して功をあげ、家康から千石加増されて三千石になりました。

 この加増には地域の伝承があります。景直は家康と食事を共にする時に左手で茶碗を隠しながら食べ、食事を終えると茶碗の上に箸を並べて置きました。家康はそれを不思議に思って景直に、なぜ茶碗を隠しながら食べたのか尋ねました。景直は「遠山家は山で粟稗を常食としているため、貴人の前ではこれを隠す習慣が生まれました」と答えます。不憫に思った家康が「飯米料として千石加増する。食後、箸を茶碗の上に置くとは珍しい作法である。これからは家紋を丸に二の字にせよ」と言ったという伝説です。

 実際、景直の時代が遠山氏の全盛期となりました。村史の記述によれば、400年以上も前からこの地に茶があったといい、他者が書いた遠山氏のお茶に関する記録として諏訪上者権祝宮文書権祝音物覚書(諏訪大社神職権祝が記した文書)に「天正十七年丑極月二十日遠山殿茶三斤」という一文があります。諏訪大社ではお茶が奉納されていたということでしょうか?神社とお茶の関係、探求してみたくなります。

 中井侍駅ホームに下りた途端眼下に紫陽花と茶畑がありました。持ち主は90を超えて、維持して行くことが困難になり、最近になって協力隊に委ねられたそうです。茶摘みと列車の風景がポスターやパンフレット写真に選ばれる秘境の絶景茶園として一部では有名なスポットでした。ホームは切り立った斜面にあり、時々、駅構内で地元農家のお茶の飲み比べができる「緑茶Cafe 茶むらい」が時期限定で営業しているそうです。駅からの傾斜面の道を10分ほど登っていくと民家が点々とする集落に出ます。そこには七曲の茶畑と呼ばれる風景があります。長野県の南、下伊那郡と呼ばれる地域で作られるお茶はほとんどが自家消費用で他所で見ることはかないません。南信濃の天竜川とその支流が織り成す山間に暮らす人々の生活の中に、確かにお茶はありました。

中井侍駅前の茶畑
中井侍茶

 現在茶の季節には茶摘みイベントが行われています。中井侍駅から3駅先平岡駅が天龍村の中心地、そこには製茶工場もあり、周辺から集まる茶葉を製茶しています。茶摘みイベントで摘まれた茶葉はここで製茶されて、後日お茶になって参加者に送られてくるのです(今年は紅茶が送られてきました)。

天龍村茶工場

 帰りは急行が止まる平岡駅に送ってもらいました。平岡駅の前方には天龍村のシンボル「観音様の大榧」がそびえています。遠山家代々の守護として信仰され、現在でも1月17日に法要が営まれています。樹齢は400年から700年と諸説あり、遠山氏の歴史と共に、榧として国内22位、天然記念物に指定されています。

村史跡満島番所跡
観音様の大榧
飯田線銘菓秘境駅最中

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