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<東京・神奈川>東海道を20里 ~喫茶の歴史風景を点々~

 一昨年の大河ドラマは『青天を衝け』、昨年は『鎌倉殿の13人』、今年は『どうする家康』と、コロナ禍で3年間旅することがためらわれる歳月も、大河ドラマでは歴史人物が全国を、そして海を越えて縦横無尽に活動していますね。

 『鎌倉殿の13人』の時代、茶の木は栄西禅師を筆頭とする禅僧によって全国各地に植えられて、『どうする家康』の時代にはお茶は庶民が憩う場所に欠かせないほど普及し、『青天を衝け』の時代には日本で育まれたお茶が世界へ輸出されてゆきました。

 そろそろコロナも明けますから、海外へ行くことを考えている皆さまにご提案です。まずはウォーミングアップに近くを歩いてみませんか?

小田原Tea Factory如春園

 1600年関ヶ原の戦いで日本統一を果たした徳川家康は、政治の中心となる江戸を中心に東海道、中山道、甲州道、日光道、奥州道の五街道を制定しました。交通路・通信路として最重要街道だった東海道は、宇治の新茶を徳川幕府へ運ぶ宇治採茶使が茶壺とともに江戸を出発するお茶壺道中をはじめとして、東海道の宿駅を中心とした風景を描いた『東海道五十三次』、弥次郎兵衛と喜多八が東海道を徒歩(膝栗毛)で旅して京・大坂を見物するまでを描いた十返舎一九の『東海道中膝栗毛』と、お茶のある風景がそこここに存在した街道でした。

 のどかだった風景も車が行き交う殺伐とした風景に変わってしまったり、描かれていた富士山が建築物のせいで見えなくなってしまった場所もありますが、今回の「日本茶散歩」では、江戸城(皇居)の茶畑を出発地として日本橋から二十里10番目の宿小田原まで、東海道五十三次街道マップ片手に、歌川広重に描かれた『東海道五拾三次』の喫茶風景があった場所を点々と、往時に思いを馳せながら目にとめていただきたいスポットやおススメの茶房カフェを以下にご紹介いたします。

 そこを歩いた皆さまがまた新たな発見や経験をしてくださり、どんどん情報を上書きシェアしていただけるようになったら嬉しいです。

<日本橋>
 日本橋は五街道の起点であり、商業の中心地として栄えました。
◆出発地点は皇居東御苑の茶畑
江戸城の本丸・二の丸・三の丸の一部があった地に整備された皇居東御苑です。昭和天皇の発意によって武蔵野の自然がとりいれられ、数百種の植物が育てられています。そしてもう一つ、諏訪の茶屋は内部非公開ですが、吹上御苑にあった茶屋を移築したものです。

皇居東御苑茶

◆歌川広重旧宅跡
 八重洲通りと昭和通りの交差点の近く、ブリヂストンタイヤ本社前に歌川(安藤)広重住居跡はあります。広重が亡くなるまで10年間居住した場所です。

◆赤坂離宮
 かつて赤坂離宮にも茶園があり茶摘みが行われたことが東京府文書(明治6年4月)からわかります。4月15日、宮内省が東京府あてに赤坂離宮御園において茶芽摘取製法の儀を行うため熟練者を一人よこして欲しいと言う文書を出しているのです。その依頼に対して東京府は自園を持つ2人(現在の豊島区と北区)を候補者として選んでいます。明治時代、東京の物産項目には茶があり、茶を生産していました。5月16日に明治天皇は茶摘みと製茶場をご覧になられたと記されています。

迎賓館赤坂離宮

◆芝大神宮
 徳川家康が江戸入出の度に参った古社。江戸から旅立つ者が旅の安全を祈願し、帰った者がお礼参りに来るなど、参拝客で賑わいました。昨年はこちらで旅の安全祈願のお札を買ってリュックに提げて歩きました。

芝大神宮のお札(手前)

◆増上寺カフェ
 徳川家康が戦場にも持参するほど信心した黒本尊が祀られ徳川将軍家墓所がある増上寺。勝運、災難除け祈願の際には境内にあるカフェもどうぞ。

東京タワーを背景に増上寺
増上寺カフェ

<品川宿>
 遊興する客が多く、遊女をおくことが許されたため、「北」の吉原「南」の品川と呼ばれ、海に沿って葦簀張りの茶屋が立ち並びました。

◆浅草のり
 浅草のりは江戸名物として知られ、歌川広重が風景を歌川豊国が人物を描いた合作『江戸自慢三十六興 品川海苔』に垣間見ることができます。『日本山海名物図会』には江戸浅草のりについて「此のり元武州品川の海に生ず。品川のりという。浅草のりは品川にて取たるを、此所にて製したる也」とあります。

◆南品川茶箱
 現代における旧東海道のお茶屋をコンセプトにした日本茶カフェ茶箱。品川の旧東海道に広がる商店街のど真ん中という好立地でありながら木・金・土・日しか営業していないわ、店に立つ創作和菓子職人が作るスイーツは午後早いうちに完売してしまうというハードルの高い古民家和カフェです。レモン大福、レモンあんみつ、お店の看板和菓子です。

お茶屋「南品川茶箱」
レモンあんみつ

<川崎宿>
 品川から渡し舟で川崎宿にいたりました。

◆奈良茶飯
 川崎宿の名物茶屋万年屋の奈良茶飯。もともとは奈良の東大寺や興福寺で僧が食べていた料理が川崎に伝わったといいます。現在和菓子屋の喫茶コーナーで復刻した奈良茶飯風おこわを食すことができます。

奈良茶飯風おこわ

◆松尾芭蕉句碑
「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」
 1694年5月、芭蕉は江戸深川の芭蕉庵をあとに故郷伊賀上野へと出立しました。弟子たちは別れを惜しんで多摩川を渡って川崎宿まで見送ります。そんな弟子たちに対して芭蕉がよんだ句が「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」です。芭蕉が句をよんだ場所に本当に句碑が立てられているのは案外珍しいとか。この年の10月、芭蕉は大阪で不帰の人となり、弟子たちにとってこの場所が師との本当の別れとなりました。

松尾芭蕉句碑

<神奈川宿>
 急勾配の坂道は港を見下ろす袖ヶ浦景勝地ゆえ茶屋が立ち並びました。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に「たどり行くほどに金川の台に来る。ここは片側に茶店軒をならべ、いずれも座敷二階作り、欄干つきの廊下、桟などわたして、浪うちぎはの景色いたってよし。」とあり、茶屋の眼下から廻船の白い帆が行く大海原が眺望できたことがわかります。

◆本覚寺
 茶の木を見つけてみましょう。栄西禅師が1226年に創建したと伝えられる本覚寺、江戸時代には万病に効くという黒薬が名物で東海道を旅する人々の往来が絶えませんでした。1863年、日米和親条約が締結され開港されると、一帯の寺院は諸外国の公館(例えば慶運寺はフランス領事館、成仏寺は外国宣教師宿舎、宗興寺はヘボン博士の施療所)として利用されました。本覚寺も一時期星条旗が掲げられるアメリカ領事館となりました。白くペンキで塗られた山門の名残りが唐獅子に残っているといいます。神奈川駅を臨む高台に建つ山門へと上って行くと、階段の両脇にお茶の木が植っています。開港の歴史を見た木々でしょうか?

本覚寺の茶の木とアメリカ領事館の碑

◆台町茶屋町跡
 江戸時代、本覚寺参道の入口から上り坂に沿って茶屋町として有名な台町がありました。「滝川」「田中家」といった料亭の名が当時の面影をしのばせます。坂本龍馬の死後、勝海舟の紹介でおりょうが田中家で住み込みの仲居として働いていたことは有名なお話です。

◆よねまんじゅう
 海に面して景色が良かった鶴見や生麦は、川崎宿と神奈川宿間の間の宿として賑わい、名物よねまんじゅうを商う店や茶屋が立ち並んだといいます。現在も、よねまんじゅうの名は残っています。

鶴見名物よねまんじゅう

<保土ヶ谷宿>
 江戸を出て最初の難所といわれた権田坂の手前にありました。現在と比べるとその当時はもっときつい道だったので、多くの旅人が休憩することから立場茶屋が並びました。広重が立場の賑わいを、北斎が松の間にそびえる富士山を描いています。

◆庚申塚
 東海道を歩くと「見ざる聞かざる言わざる」の三猿が彫られた庚申塚を街道筋で見かけます。中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石碑、石塔で、庚申の年や庚申講を3年18回続けた記念に建立されます。庚申講とは、庚申の日に人の体内にいる三尸の虫が寝ている間に抜け出して天帝にその人の悪事を報告しに行くのを防ぐため、庚申の日に夜通し眠らない風習のことです。

庚申塚

◆境木立場跡
 宿場と宿場の間に馬子や人足の休憩のために設けられたのが立場です。武蔵国と相模国の境界をさす木の杭が立っていたので境木と呼ばれました。道行く人は名物牡丹餅でお茶したことでしょう。

焼餅坂の案内板

<戸塚宿>
 日本橋を早朝に出発すると夕方に至るのが戸塚でした。

◆浅間神社
 茶の木を見つけてみましょう。浅間神社は、木花佐久弥昆売命を祭神として、主に富士山に対する信仰の神社で、全国に1300余あります。富士山に通じる人穴と信じられた穴がある神社も。

浅間神社の茶の木

<藤沢宿> 
 鎌倉まで足をのばして、大山詣とともに江の島参詣をするのが一般的なコースでした。

◆黒糖茶房
 藤沢宿から茅ヶ崎まで歩いたら、茅ヶ崎駅徒歩圏内に沖縄黒糖専門和カフェ黒糖茶房があります。限定パフェと日本茶で一服するのは現代の旅人の醍醐味ですね。この日のパフェは芋ようかんのパフェでした。

黒糖茶房の芋ようかんパフェとほうじ茶

◆建長寺
 建長寺は1253年北条時頼によって創建されました。鎌倉五山第一位、初代住職には宋僧蘭渓道隆が招かれました。けんちん汁は蘭渓道隆が野菜の皮やへたを無駄にしないようにと発案した精進料理です。

建長寺点心庵のけんちん汁

◆円覚寺
 執権北条時宗が宋より招いた無学祖元により開山された円覚寺には境内に茶の木が見られます。鎌倉五山、栄西ゆかりの寺では境内で茶の木を探してみましょう。

円覚寺の茶の木

◆明月院
 あじさいの名所として知られる寺院の境内にも茶の木がありました。

明月院の茶の木

<平塚宿>
 高麗山、大山、富士山、人々が信仰する山々が近く感じられます。
 
<大磯宿>
 街道の松並木がかなり残っており、「新・日本街路樹100景」のひとつになっています。
 
<小田原宿>
 「天下の険」とうたわれた箱根を前に小田原城と宿場がありました。

◆石垣山一夜城
茶の木を見つけてみよう。笠懸山は1590年、豊臣秀吉が15万の大群を率いて小田原北条氏を包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから石垣山と改名されました。石垣山一夜城と呼ばれるのは、秀吉が一夜のうちに城を出現させたように築城したという伝説に基づきます。秀吉が淀君ら側室や千利休、能役者を呼び茶会を開いた石垣山、茶の木もあります。

石垣山の茶の木とみかん畑

◆ういろう
 小田原の名物といえば「ういろう」です。外郎家は創業600年、日本最古の薬屋の先祖は元から渡来した役人で、中国での官職名が礼部員外郎から外郎(ういろう)と名乗りました。歌舞伎役者二代目市川團十郎の持病がういろうで治ったことが歌舞伎に外郎売の台詞が取り入れられるきっかけとなりました。ういろう本店に喫茶コーナーがあります。

ういろう本店

◆報徳二宮神社きんじろうカフェ
 報徳二宮神社は、小田原城二ノ丸跡に建てられた二宮尊徳を祭った神社です。
 二宮尊徳(金次郎)は、1787年小田原に生まれ、勤勉刻苦のすえに没落していた家を再興し、更にその農業知識で小田原藩財政立て直しに貢献、農政家として関東の農村復興に努めたすえ、1856年日光神領の復旧従事中に病死、生涯重い荷を背負って歩いた人でした。
 神社境内参道脇にある「きんじろうカフェ」では金次郎が日頃食べていたものを再現した呉汁セット(大豆をすりつぶした汁物、地魚の炊込みご飯、ほうじ茶)が食べられます。金次郎が薪を背負って歩く姿が浮かぶカフェラテは映えてます。

きんじろうカフェの呉汁とカフェラテ

◆Tea Factory如春園
 大正時代、三井財閥の礎を築いた益田孝(鈍翁)は所有する小田原(箱根板橋)2万5千坪の敷地の中で紅茶を作っていたとか。現在、そんな歴史ある小田原で「こゆるぎ紅茶」を作っているTea Factory如春園の喫茶ルームでは南インドのカレーや紅茶プリンなどが自園製紅茶とともにいただけます。
 2023年4月23日(日)には、こちらTea Factory如春園にてお茶作りワークショップを行ないました。小田原城壁が残る茶園は必見です。

Tea Factory如春園の店内
紅茶で炊いたご飯の南インドカレー
自園の紅茶と紅茶プリン

上の記事は日本茶散歩中の記事です。他地域の物語も読んでいただけたら、幸いです🍀

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