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<滋賀・奈良・京都>古都の茶聖地巡礼

 オリンピックイヤー2020年、オリンピックどころか、湖南省武漢を発端に広がり続けたコロナウイルスのパンデミックによって自由に旅することが出来なくなり、人と会うことさえもためらわれる一年になってしまいました。

 集ってお茶を交わし合うことが大好きな茶友の皆さま、今年一年残念な思いを抱えたことかとお察しいたします。海外の茶友に会いに行くことができない、渡航に対する見通しがつかない時だから、日本茶をテーマに旅してみませんか?今回は、思い立ったら一人でふらっと行くことができる、国内のそれほど遠くない近畿地方の中でおススメしたい茶聖地を年代順にご紹介したいと思います。
 
< 日吉茶園>
 『日吉社神道秘密記』によれば、比叡山延暦寺開祖最澄が入唐求法の際に天台山から茶の種子を持ち帰り、805年日吉の地に植えたとされ、最古茶園として祀られているのが比叡山麓大津坂本の日吉茶園です。

 空海のもとにとどまったまま戻ってこない一番弟子泰範(後に空海の十大弟子、四哲の一人)に最澄が帰山を請うた書状の追伸に「茶十斤、もって遠志を表す(茶十斤以表遠志)」とあり、団茶を作っていた可能性への歴史浪漫に思い馳せられます。

 現在、毎年4月に行われる日吉大社山王祭での献茶式には4基の神輿に日吉茶園の茶が献じられます。また、6月4日伝教大師最澄命日に比叡山延暦寺伝教大師御廟所浄土院で行われる長講会でも献茶されています。

日吉茶園

<崇福寺址>
 「嵯峨天皇に大僧都永忠が近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」(『日本後記』)

 この一文が、日本史の喫茶に関する最初の記述といわれています。永忠が嵯峨天皇にお茶を差し上げた舞台となった梵釈寺はどこにあったのか、現在は確かではありません。鍵となる場所と言われるのが、大津崇福寺址です。

 永忠は、唐の長安西明寺などで学び、805年最澄とともに帰国した後、梵釈寺に住持しました。梵釈寺は天台宗寺院として12世紀には園城寺末寺となりますが、延暦寺と園城寺の対立が激化すると、両寺の近くにあった梵釈寺も抗争に巻き込まれ、1163年延暦寺によって焼き討ちされると衰退の一途を辿り、鎌倉時代末期には廃寺となってしまいました。

 場所に関しては崇福寺南尾根にあったと考えられています。崇福寺は、天智天皇が大津京の鎮護のために建立した寺で、大津へ都を遷した翌年に建立されました。

 1928年、崇福寺の寺跡が発掘され幻の大津京の所在地を探る手がかりとして注目されています。

崇福寺址

<佛隆寺>
 奈良県宇陀市榛原駅で電動アシスト自転車を借りて、空海伝説が残る場所(弘法大師爪書き不動尊、弘法大師の石清水)に立ち寄りながら走ること一時間ほどの山中に、真言宗室生寺派佛隆寺はあります。850年に空海の高弟堅恵によって創建されたと言われるこの古刹は、参道石段脇の県内最大最古の千年桜と彼岸花が有名で、開花期には沢山の観光客でにぎわいますが、普段は静かな山寺という風情です。

 しかしこの寺にはそれだけにとどまらない、空海の茶招来説の中心的存在という面もあります。空海が唐から持ち帰った茶の種子をこの地に播いたとされるのは、佛隆寺に空海が持ち帰り堅恵に差し上げたとされる茶臼が残っており、茶樹もまた仏隆寺の境内に保存されているからなのです。

 茶の招来については諸説あります。鎌倉時代に栄西が宋から茶の種子を持ち帰って九州の脊振山に植えたのが最初とする説が有名ですが、近年は平安時代に空海が種子を持ち帰ったとする説も有力になっています。

 訪れた8月24日は夏の終わりを告げる風物詩地蔵盆でした。お寺はひっそりとしていましたが、石段の下では地元のご夫婦が地蔵盆の準備にやってきていました。近畿地方では、地蔵盆が近づくと、お地蔵さまを祠から出して、清めて彩色するお化粧を行い、新しい前掛けを着せ、祭壇に花や供物、地蔵幡(お札)などを飾り付けます。茶樹が点在する石段を上って寺門をくぐるとすぐ前に立っている大和茶発祥の碑、碑の上で百日紅が満開でした。

佛隆寺大和茶発祥碑

<園城寺(三井寺)>
 園城寺は、滋賀県大津市園城寺町に位置する天台寺門宗の総本山の寺院。7世紀に大友氏の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した円珍によって再興されました。円珍没後、比叡山は円珍門流と円仁門流の二派に分かれ対立するようになり、比叡山宗徒による園城寺の焼き討ちは50回にも上ったといいます。度重なる焼き討ちのせいで、園城寺境内に群生する古茶樹群がいつからのものかとなどという資料は残っていないようですが、あたりまえのように昔から自然にあったものと認識されています。古い古いお地蔵様がちんまりと古茶樹群に寄り添っていました。

園城寺子茶樹群

<建仁寺>
 言わずと知れた『喫茶養生記』を著した臨済宗開祖栄西が開山した臨済宗建仁寺派大本山建仁寺。栄西が二度も宋に渡って禅宗を学び、茶種を持ち帰って栽培を奨励し、喫茶法を普及した事はあまりにも有名です。

 それゆえか建仁寺の生垣は茶樹でできています。境内にある茶碑の後方には茶の招来800年を記念して平成3年に作られた茶園があります。

 毎年5月10日にはここで摘んだ茶葉で作られた抹茶が開山堂に供えられます。2020年、境内に新たな茶樹が仲間入りしました。静岡茶産地掛川で役目を終えた大きな一対の茶樹が献納されたのです。国宝『風神雷神図』をイメージして三門前に対で植えられ、7月には献納式も執り行う予定となっていましたが、コロナ禍で中止となってしまいました。訪れた時、お披露目を逃してしまった茶樹風神雷神は京都土壌に馴染むべく暑い夏をのりこえようとしている最中でした。

建仁寺四頭茶会

<高山寺>
 明恵上人は1173年に生まれ、8歳で父母を失い、高雄山神護寺の文覚について出家しました。東大寺で華厳を学び、1206年、後鳥羽上皇から栂尾の地を下賜されて高山寺を開きました。厳しい修学修行、求道の思いから右耳を切り落とし、釈迦への思慕から二度にわたってインド巡礼を計画するも願いはかないませんでした。

 栄西に教えを請おうと下山した明恵は、豪華な車に乗って宮中から帰って来た栄西を見て気後れしてしまう清貧一途な人でした。栄西もそんな明恵を呼び止め、みすぼらしい身形の明恵を歓待し、仏教について論じたと言います。栄西が与えようとした印可を断る明恵に、茶の効用を説いて茶種を譲った逸話は今なお語りつがれています。

 栄西が宋から持ち帰った茶の種3粒は栂尾の深瀬三本木(境内東、清滝川対岸)に植えられ、栂尾茶として栽培されました。さらに、宇治(駒の蹄影茶園)でも栽培が試みられ、その後全国に茶が普及することになります。

 1971年、散在していた栂尾の茶樹が十無尽院があった場所に集められ、その前に日本最古之茶園の碑がたてられました。毎年11月8日には、明恵上人に新茶を献上する献茶式が執り行われています。

高山寺国宝石水院

<萬福寺>
 黄檗山萬福寺は、1654年に福建省から渡来した隠元禅師が後水尾法皇や徳川4代将軍家綱の尊崇を得て1661年に開創した寺院で、日本三禅宗(臨済・曹洞・黄檗)の一つ、黄檗宗の総本山です。初代隠元から第13代まで中国渡来僧が代々住持を占め、儀式作法は明代に制定された仏教儀礼で行われ、毎日唱えられる経は黄檗唐韻で発音されるなど、明文化が色濃く反映されました。

 隠元禅師が明国から伝えた精進料普茶料理は、普く大勢の人にお茶を差し上げると言う意味を持ち、茶礼後の謝茶(慰労会)で供された中華風精進料理です。山野に生まれた産物を捨てるところなく佛恩に感謝しながら余すところなくすべて調理されます。座席は上下の隔たりなく一卓に4人が座って食するのが作法とされます。このような和気藹々と食するという作法がある料理は一人ふらっとありつくことが難しい。

 ところが、このコロナ渦のご時世だからこその普茶特別プランが生まれていました。鰻の蒲焼もどきや多彩な料理を詰めた期間限定・数量限定の普茶弁当。料金は5670円、コロナゼロ、金平糖のお土産や、拝観セット(写経用紙・マスク・御朱印・御線香)も付いています。こんな時期だからこそ楽しんでもらいたいというおもてなしの心が感じられる興味深いプランでした。

萬福寺駒蹄影茶園
萬福寺普茶弁当

<東福寺>
 東福寺で絵になる場所といえば、臥雲橋、通天橋、偃月橋の三名橋。三門西側に並び建つは、禅堂と東司。禅堂は日本最大最古の坐禅道場、東司は室町時代前期に建立された日本最古のトイレ。三門東側に建つ浴室は東大寺の大湯屋に次ぐ日本で二番目に古い建物であるなど、何もかもが最大最古級を誇り、「東福寺の伽藍面」と称されます。

 それだけの歴史があり、多くの僧が修行してきた寺の開山は円爾弁円、聖一国師です。聖一国師は駿府国に生まれ、久能山久能寺に入り、その後園城寺で天台学徒となり、栄西の高弟を師としました。33歳で宋に渡り、杭州径山万寿寺で法を嗣ぎ、筑紫に崇福寺や承天寺を建て、名声を得て東福寺を開山しました。また、杭州径山万寿寺から持ち帰った茶の種子を足久保にまいたのが、静岡茶の始まりと伝えられています。三門と仏殿及び法堂間に聖一国師の故郷栃沢で生まれた茶樹が植えられています。

東福寺献茶木

 明恵上人が実際に茶の種子を播いた高山寺対岸深瀬三本木に茶園は残っていません。高山寺周辺絵地図の看板に深瀬三本木茶園址と記されていますが、それらしき場所に行っても矢印も出ていないのです。茶園址がわからなくてもせめて自生している茶樹だけでも見ようと、清滝川対岸の山中を2時間歩きまわりました。お昼ご飯に寄った茶屋のご主人がそれを聞いて地元の人だけが知る実際あった場所を教えて下さいました。

 松下先生が古い記憶をたどって茶樹があった場所がどんな様子だったか知らせてくれました。教えてくださった方々の好意に報いるためにも諦めきれず、もう一度トライ。ついに見つけることができたのでした。

 たどりつけたことを知った茶屋の人たちが喜んでくれたことがこの日一番の喜び、そして、お茶が好きな人へと高山寺茶園の非買茶をいただいたことは望外の喜びでした。

高山寺令和2年栂尾新茶

上の記事は日本茶散歩中の記事です。他地域の物語も読んでいただけたら、幸いです🍀

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