<長崎・京都>海から渡って来た江戸時代に親しまれた喫茶法
「長崎の方は唐人さんのことを『阿茶さん』と呼んでいたんですよね?」
崇福寺をお参りした足で入った喫茶店でさりげなく尋ねてみました。
「そうですね、そう呼んでいますね」
「あの・・・、もしかして、それはお茶に関係がありますか?」
長崎の寺町通りでこんな質問をしたのは、以前に、次のような記事を目にしたからでした。
「長崎では唐人のことを阿茶さんと呼んでいました。唐人屋敷(長崎にある中国人の居留地)に滞在中は、浙江省出身の阿茶さんたちは興福寺へ、福建省出身の阿茶さんたちは崇福寺へ行列をつくってお参りに行きました。これを阿茶さんの寺詣といいました」
それから間もなく私は長崎に旅立ちました。
お茶にちなんで、阿茶さんと呼ばれたのでしょうか。もしそうならばとてもワクワクします。阿茶さんたちは日本でどんなお茶を飲んでいたのでしょう。中国から持参したお茶を飲んだのかもしれません。阿茶さんと呼ばれるくらいだからお茶をたくさん飲んでいたに違いありません。かつて日本と世界をつなぐ玄関であった長崎にはどんな茶文化が存在したのでよう。心のなかで阿茶さんへの想像はどんどん広がっていき、足取りも軽く楽しい旅のスタートでした。
鎖国していた江戸時代、日本で唯一外国人の入国が許されていた長崎には、中国人の手で創建されたお寺が三寺(興福寺、崇福寺、福済寺)ありました。そのうちの聖寿山崇福寺は1629年に福建省出身の唐人さんたちが創建し、東明山興福寺は1620年に浙江省と江蘇省出身の唐人さんたちが創建したとされる寺院です。そして、その住持は中国から招聘されました。中国の名僧であった隠元隆琦(1592~1673)を日本に招いたのは興福寺3代目の逸然性融でした。このとき逸然性融に隠元招聘を強く願ったのは無心性覚でした。
隠元禅師は福建省の福州に生まれ、6歳の時に行方不明になった父親を探す旅の途中、普陀山で霊感にうたれ茶頭(茶事の頭役、献茶したり来客にお茶を供したりする役職)を務めたことが仏教との出会いとなり、故郷福清の黄檗山萬福寺で出家しました。1654年、逸然性融の要請に応じ、約30名の門弟を従えて長崎の興福寺に入寺、同時に崇福寺にも中国禅を指導しました。隠元禅師が伝えたものは黄檗清規(寺院生活の規則)だけでなく、明朝体、隠元豆、胡麻豆腐、普茶料理、孟宗竹、蓮根、もやし、西瓜、印刷、篆刻、ダイニングテーブルなどがあり、その弟子によって、架橋の指導、公開図書館の開設などが行なわれ、江戸の文化に多大な影響を与えました。
そして忘れてはならないのが、釜炒り製法と煎茶の喫茶法(急須に茶葉を入れて飲む方法など)です。この当時、日本で飲まれていた抹茶はとても高価なもので、庶民が容易に口にできるものではありませんでした。茶葉を粉末にする手間をはぶいた葉茶の製法と喫茶法によって一般の人々の間に喫茶が普及することになりました。隠元禅師によって開山された宇治にある黄檗山萬福寺にも門前で茶園を営んでいたことが分かる俳句の碑が現在も残っています。
「ご住職さまでしょうか?」
紫陽花が咲き誇る境内に置かれた丸いテーブルにお抹茶と紫陽花のお茶菓子を持ってきてくださった興福寺のご住職に思い切って尋ねてみたのは、何でも答えていただけそうな方とお見受けしたからです。
「長崎で唐人さんを阿茶さんと呼んだのは、お茶に関係がありますか?」
「関係ありません。浙江省のなまりでアーチャと聞こえた言葉に漢字をあてたのです」
即答でした。
私のなかの勝手な想像が、一瞬にして消えてしまいました。
「お茶に興味があるのですか?」
あまりにもがっかりしている私をかわいそうに思ったのか、ご住職は黄檗宗の茶礼についてや隠元禅師とお茶の関係について親切に教えてくださいました。
たとえ阿茶さんが音訳だとしても、唐人さんたちが中国からお茶を持ってきたのは間違いようのない事実でしょう。
『雨月物語』や『春雨物語』で知られる江戸時代の作家上田秋成(1734~1809)は、煎茶家としても知られ、『清風瑣言』『茶瘕酔言』などにお茶に関する文章を書いています。江戸時代の文化人たちがどれだけ中国茶文化に憧れていたかを彼の著書の中からうかがい知ることができます。上田秋成は、たびたび訪れていた木村蒹葭堂のサロン(当時の文化人が集まった交流サロン)で、以前から名前だけは知っていた龍井茶を初めて口にしたことや、かつて売茶翁高遊外が所蔵していた『唐製茶瓶図』が木村蒹葭堂のサロンにあることなどを書き記しています。
高遊外(1675~1763)は、13歳で得度して黄檗僧月海元昭となりました。寺院の中で、そして遊学した先の長崎で煎茶を覚えた高遊外は、60歳を過ぎてから安泰な僧籍を離れ還俗し、洛中洛外でお茶を売り歩くことを生業としました。鴨川沿いの小屋に立てた清風の旗印は唐代の詩人廬同の茶歌から引用したものです。お茶本来のあり方を愛する廬同の精神を売茶に込めていたのでしょう。高遊外は、木村蒹葭堂、伊藤若冲、池大雅、与謝蕪村、高芙蓉などの文人と煎茶を通じて広く親交を結んでいます。隠元が活躍した後も、お茶を通じた文化交流があったことをうかがい知ることができます。
そして長崎で最後に向かった場所は、観光の定番である長崎グラバー園です。園内には英国商人ウィリアム・ジョン・オルト邸があります。オルトは長崎商人の大浦慶と提携して九州のお茶を世界に輸出して巨万の富を築いた人物です。大浦慶は幕末に、上海に密航してまで清の茶葉貿易状況を見聞したといいます。オルトと大浦慶は共に勤王の志士たちに資金援助を行なったことでも知られています。お茶は明治維新をも助けたのでした。
かつて「阿茶さん」と呼ばれた唐人が降り立った長崎は、世界から吹く風を感じることのできるとても魅力のある地でした。
長崎は本当に美しい。これ以上美しいところを私は知らない。
上の記事は日本茶散歩中の記事です。他地域の物語も読んでいただけたら、幸いです🍀