ピアノを拭く人 第2章 (9)
To Saiko MIZUSAWA
From Toru Yoshii
Title 印象深かったエクスポージャー
彩子へ
ここ数日、電話でゆっくり話せなくて申し訳ない。不安になったとき、家族や友人に電話することは禁止なので、長電話をしていると病棟の看護師さんに怪しまれるんだ。
羽生さんに、ERPについて、説明してくれてありがとう。退院したら、彼と彩子を俺の強迫に巻き込まないように心がけるよ。
フェルセンに、学生の客が増えたのは嬉しい。彩子のおかげだよ。ありがとう。客層が変わったので、馴染みやすいJ-POPや映画音楽を中心に演奏という彩子のアイディアに賛成だ。俺もいま流行っている曲を弾けるようにしないとな。
コロナの脅威は、寒さが増すにつれて深刻化すると思うから、クリスマスが終わった後の客を確保する戦略が必要だろう。時間があると強迫観念の相手をしてしまうから、やることが多いのは良いことだ!
俺は同志とともに、ERP三昧の日々だ。ここ数日で印象深かった治療をいくつか添付ファイルにまとめたから、時間のあるときに読んでほしい。
透
ファイル名 印象深かったエクスポージャー
●通勤ラッシュ時の満員電車に乗る。
全員が深緑色に濁った中庭の池に手を突っ込んでから出発だ。3人は、イヤホンで例の歌を聴きながら駅に向かった。
人にぶつかるのが気になる俺には、この時間帯に持って乗るのは迷惑な、大きいカバンが用意されていた……。最初は、カバンを胸に抱き、でかい図体をがちがちに固くしていた。人に体やカバンが触れるたびに「すみません」、「申し訳ございません」とぺこぺこ謝っていたが、桐生心理士に「何も言ってはいけません」と言われた。電車内で他の乗客に、体やカバンが触れたのに謝らないでいると、心拍数が上がり、総毛だったが、その客が降りてしまえば忘れてしまうことに気づいた。次々に乗客が乗ってきて、もまれるなかで、どの人と触れたか、何人と触れたかもわからなくなり、もうどうでもよくなってきた(笑)。
タクミは、ポケットにカッターを忍ばせ、通勤客でごったがえすホームを端から端まで歩かされた。さらに、ホームで老人の後ろに並び、車内でもできるだけ近くにいることを求められた。彼はマスクの下で表情を強張らせ、動悸を抑えるかのように、胸に手を当てていた。桐生心理士が近づき、「今、どんな音が聴こえる?」、「手はどんな感覚?」と小声で尋ねてマインドフルネスを意識したことで、タクミは自分を客観視でき、いくらか落ち着いたらしい。
シオリには、車内で赤城先生が寄り添い、数分おきに、マスクを下げる指示を出した。彼女がマスクを下げるときは先生も一緒にマスクを下げた。先生は、視線を落とし、息を止めている彼女の背中をさすりながら、耳元で「しっかり深呼吸して。周囲の音やにおいを感じて」とささやいていた。
俺とシオリは、赤城先生に、電車のつり革やドアを触るよう促された。俺は、自分の汚れを広げるのが嫌だと思いながら、シオリはコロナがうつると怯えながら触った。俺は、先生の目がない時にウエットティッシュを取り出し、つり革を拭こうと目論んだ。だが、一駅進むたびに、もう1度触るよう指示されたので、諦めざるをえなかった。さらに、シオリには、ハンカチでつり革を拭き、それをポケットに入れて過ごす課題が出た。カルロスは、常に首にかけておくよう言われた(踏みつけた)ロザリオを気にしながらも、俺たちを励まし続けてくれた。
●タクミがずっと避けていた車の運転に挑戦。
タクミは、例の歌をたっぷり聴いてからの乗車だ。病院の職員駐車場に、患者送迎用のワゴン車が用意されていた。
最初は桐生心理士が助手席に乗り、タクミの運転で、人気の少ない職員駐車場をゆっくりと周った。運転中、タクミはバックミラーで確認することも、車を降りて確認することも禁止され、サイドミラーに目を遣ることと、窓から首を出しての安全確認は許可された。終始、緊張が途切れず、コンクリートの継ぎ目や凹凸を通過するたびに、何かをひいたのではと不安が募り、確認したい衝動に駆られたという。カルロスは、タクミの車の前を横切ったり、車が通過した後、地面に横たわったりして、タクミのERPに協力していた。
タクミが桐生心理士に、いま何か踏まなかったかと尋ねても、「さあ……」とか、「カルロスを轢き殺したかもね」、「さっきの救急車で搬送されたんじゃない?」などと返ってくるので、開き直るしかなかったそうだ。
慣れてきたころ、タクミは桐生心理士の指示で、比較的車通りの少ない道を走ることになった。車道でも、バックミラーで確認することと、降車して確認することは厳禁で、確認を避けるために同じ道を走らないコースが組まれていた。
タクミは病院に戻った後も、何も轢いていないかタイヤや車体を調べたり、事故がなかったかメディアで確認したり、警察に問い合わせて安心することは禁止されている。
彼は車を運転するエクスポージャーを通し、頭に浮かぶ強迫観念と、実際に行為に及ぶことは別だと体感できたそうだ。
次の日、タクミは俺たちをワゴンに乗せて、ハンバーガーショップに行く課題を達成!
俺は汚れたお札と硬貨の入った財布を渡され、全員の会計を任された上に、人数分の水をくださいと店員に頼む課題を出された(泣)。お詫びは禁止、お礼は1回のみと指示されたが、水の紙コップが載せられたトレイを渡されたとき、「お手数をお掛けしてすみません、ありがとうございます」と言ってしまった……。
夕食前だったが、全員が汚れた素手でハンバーガーを平らげた。シオリは随分時間がかかったけれど、辛抱強く待っている皆に励まされ、どうにか完食!
俺は苦戦していたシオリのために、水をもう1杯もらってくる課題を達成。今度は、「ありがとうございます」を1回で済ませられた(これでいいのかとぞわぞわし、戻りたい衝動に駆られたけれど、踏みとどまれた!)。他の3人は、泰然としていることの多い俺が、店員との会話に、おびえているのが意外だったらしい……。
帰りは、別の道を通るために、タクミの運転で教会に寄ることになった。カルロスは、自分でつくった身の毛がよだつ話をイヤホンで聞きながら、30分留まる課題をこなした。いつもは陽気な彼が、青い顔で体を硬直させ、荒い息を吐きながら耐えている姿に胸をうたれた。
●コロナ患者を受け入れている病院へ
タクミが初めて道路を運転している間、俺たちは、赤城先生に、コロナ患者を受け入れている病院に連れていかれ、外来用のトイレを使用してくる課題を出された(ここでは、他の来院者と同じように、手のアルコール消毒が許可された)。
シオリは入口で目を潤ませて散々ごねたが、カルロスに励まされて院内に入り、洋式トイレで用を足せた。赤城先生は、シオリにほっとする間も与えず、つり革を拭いたハンカチで、外来の椅子を拭き、病院に帰ったら、それでベッドに汚れを広げる課題を出した。
●シャワーを浴びたら汚す。
4人とも、手洗いは禁止だが、3日ぶりにシャワーを許可された。ただし、時間は15分。サンプルで配られるような小瓶のボディーソープとシャンプー、コンディショナーのセットを渡され、使っていいのはそれだけ。入浴後は床を拭いたバスタオルで、全身を拭いて汚す課題つきだ!
男性陣にも気持ちのよいことではないので、不潔恐怖のシオリには相当きつかったと思う。彼女がシャワーを浴びているあいだ、女性の看護師さんがストップウォッチで時間を測っていて、3分前になったら、ノックで合図。シオリが清潔なタオルを使わないように、バスルームを出たとき、看護師さんから汚したタオルを渡されたという。
因みに、俺たちはシーツなどの寝具を交換することは許されず、汚れを広げた寝具に包まれて眠っている。シオリは、毎日あまりにも疲れるので、気持ち悪さを忘れて、眠りに落ちてしまうらしい。
● 中途半端な手紙を投函する。
一番しんどかったのが、この課題だ。
俺は赤城先生に、便箋と封筒、切手をそれぞれ2枚、下書き用の紙1枚、ボールペン1本と病院の住所を渡され、赤城先生と桐生心理士にシンプルなお礼状を書き、前の通りにあるポストに投函する課題を出された。制限時間は1時間。修正は横線で、修正液や修正テープは使用禁止。
文面作成から不完全恐怖が出て、お礼とお詫びが十分に含まれているか、同じ言葉の繰り返しがないか、敬語は正しく使われているか、失礼な表現はないかが気になり、それだけで30分以上費やしてしまった。手紙を受け取った2人は、あまりに感謝と謝罪の言葉が多いことに、苦笑いするだろう……。
いざ書き始めると、多少の字の大きさの不揃いや汚さは許容できたものの、緊張のせいで何度も間違え、横線だらけになってしまった。手汗防止のために、下書き用の紙を手もとにあてていたのに、緊張で汗をかきすぎたのか、便箋がよれてしまったのが気になった。
手紙を書き終わらないうちに、制限時間がきてしまい、桐生心理士に、途中でも折って封入するよう言われた。宛名も書けていなかったのでその場ですぐに書き、切手を貼った。手紙の折り目はずれ、宛名も差出人名も真っ直ぐ書けず、字の大きさも不揃いで、切手もきれいに貼れなかった。けれど、修正は許されず、桐生心理士に伴われてポストに投函した。
桐生心理士と赤城先生に、中途半端だらけの手紙を投函できたことを褒められた。中途半端が1つだけなら気になっても、これだけあると気にならないでしょうと言われた。なるほどそうかもしれないが、課題だから開き直れたので、自分の責任で出す手紙では不完全恐怖が出て、また何時間も何日も費やしてしまう気がして怖い……。
ちなみに、俺が手紙を書いているあいだ、他の3人は、赤城先生が用意した不安を呼び起こしそうな映像(編集済み)を見ていた。
タクミに用意された映像は、不注意で年輩の女性を轢き殺してしまい、禁固刑になった人物の贖罪のドキュメンタリー。シオリには、新型コロナウイルスに感染した患者を治療する医療従事者の献身と苦悩、患者の最後に立ち合えない家族の悲しみを追うドキュメンタリー。カルロスには、カトリックの総本山バチカン市国をつぶさに紹介するドキュメンタリー。
3本が順番に流され、全員が目を反らさずに鑑賞。その後、3人は映像を見たぞわぞわ感を抱えたまま、最悪のことが起こったストーリーを創作し、発表した。赤城先生が、それぞれのストーリーに手を加え、さらに恐ろしくした後、各自が自分の声で携帯に吹き込んだ。3人は、毎日45分以上、そのストーリーを集中して聞き、最悪の状況にエクスポージャーすることが課題に加えられた。もちろん、祈ったり、謝罪したり、確認したりする儀式、強迫行為は厳禁だ。