ピアノを拭く人 第3章 (7)
彩子はソファから立ち上がり、真っ直ぐバスルームに向かった。
ピンクグレープフルーツの香りのボディソープで、いつもより入念に体を洗う。
誰かのためになることを糧に生きてきた。誰かに幸せをもたらすことで、自分も幸せになれた。誰かのために尽力したことが、他の誰かを傷つける悲しみも知った。それでも、自分は誰かのために生きたい。
いま、愛する人が自分を求めている。
自分が彼の時間を彩り、それを共に構築できることを思うと、生のエネルギーが全身に満ちてくる。
彩子は髪を洗い、体を拭くと、真白な下着とバスローブを身に付けた。セミロングの髪をブローし、首筋にオムニア アメジストを1滴垂らす。
彩子はリビングに戻り、体を固くして座っている透の隣に掛け、その胸にもたれた。透は彩子を長い時間をかけて抱擁し、シャワーを借りていいかと尋ねた。
透がシャワーを浴びる音を聞きながら、彩子はベッドに身を投げ出した。張りつめていた心身が、束の間の休息を希求し、彩子は目を閉じた。
右の足裏に刺激を感じ、彩子はびくりと目を開いた。紺色のボクサーブリーフだけを身に付けた透が、彩子の右足を持ちあげ、唇を這わせている。
「そのまま。ただ感じて……」
透は彩子の爪先から太腿まで、熱い唇と指を這わせていく。その動きは音楽を奏でるように優雅で、彩子は何度も吐息をもらし、声にならない声で応える。
透の唇と長い指は、彩子の腕、首筋、耳、顔、髪、唇と進んでいき、レーダーのようにスポットを探知する。知らなかったスポットを次々に探り当てられ、彩子はそのたびに声をもらす。
「彩子を全部知りたいんだ」
彩子は、半ば強迫的な透の動きに、こんなところにも強迫が出るのかと苦笑いをもらした。
「何がおかしい?」
透はやや荒々しく彩子のバスローブと下着を脱がせた。彩子は思わずベッドカバーを引き寄せたが、透にはぎ取られる。彩子の引き締まった体は成熟した女性の美しさを放っているが、白く柔らかい肌は少女のようなあどけなさを醸し出している。
透は大きく息をもらし、彩子の2つの膨らみを手と唇で執拗に刺激する。左の膨らみの先端を口の中で転がしながら、左手で右の膨らみを愛撫する。彩子の膨らみの先端はすぐに固くなり、透を昂らせる。
緻密な愛撫に、彩子は何度も身をよじらせ、しならせて応える。全身が熱を帯び、これ以上は耐えられない。彩子は起き上がって透の昂ぶりに触れ、その大きさに驚嘆した。彩子は、そこに何度も接吻してから口に含み、歯があたらないように注意しながら入念に愛していく。
透は獣のように咆哮して体を起こし、彩子の熱く湿った脚の間に、敬意をもって口づけを始める。右手で彩子の2つの膨らみを愛撫しながら、脚のあいだを左手と舌で執拗に攻めていく。彩子の息が荒くなり、身をよじり、やがて糸が切れたように解放される。再び透の指で愛撫されると、敏感になった場所は電気を受けたように反応する。
透は力を抜いて俺を感じてと囁き、慎重に先端を入れていく。彩子の入り口は狭くて固い。彩子は、始めこそ痛みに顔をしかめたが、透がゆっくりと時間をかけ、優しく扉を叩いたので、少しずつ受け入れていった。透は半分ほど入ったところで、堪えきれずに叫ぶ。
「彩子は狭くて、きつくて、温かい……!」
彩子は透をきゅっと締めつけた。呻く透に、彩子は小悪魔のような笑みを浮かべる。「みんな同じようなことを言ったよ……」
透はむっとし、一気に奥まで入ってきた。彩子は衝撃に顔をしかめる。
透は彩子の瞳を覗き込み、そこに自分しか映っていないことに陶酔し、リズミカルな音楽を奏で始めた。彩子は透の音楽に呼応するように締めつける。透は汗を滴らせながら、テンポを上げていく。彩子に自分のメロディーを刻み込み、それでなければ満足できないようにしてしまわんばかりに。2人のハーモニーは、速度を増し、高みに駆け上っていく。
透は、目を閉じ、眉を寄せ、解放されたがっている彩子の顔を見つめながら、タイミングを合わせるように叫ぶ。2人は、ほぼ同時に昇りつめた。
滑子の味噌汁の味が調い、炊飯器が炊き上がりのメロディーを奏でるころ、下着姿の透が、細い縁なし眼鏡をかけてダイニングに入ってきた。彩子は黒縁眼鏡をかけ、髪をまとめ、白いセーターにブラックジーンズ姿で透を迎える。
彩子は初めて見る透の知的な眼鏡姿に見とれ、誰にも見せたくないと思った。
「おはよう。透さんがリクエストした定食メニューみたいな朝食できてるよ」
卓上には、しらす干しと京葱入りの厚焼き玉子、鰆の塩焼き、ひじきの煮付け、蕪の浅漬け、大根おろしと刻み柚子を添えた冷奴、冷やしトマトと水菜のサラダが並ぶ。
「こういうの食べたかったんだ……」透は目を細め、愛おしそうに食卓を見渡す。
「シャワー浴びてきたら? それまでに、用意できるから」
「うん」
透は子供のように頷き、乱れた髪を撫でつけながらバスルームに向かった。彩子は、透はそろそろ散髪が必要だと思いながら、炊きたての玄米ご飯と、湯気の立つ味噌汁を食卓に並べた。
彩子は、昨夜のディナーが重かったので、野菜多めのさっぱりとしたメニューにした。だが、黒のパーカーとブルーのスリムジーンズを身に付けて出てきた透は、予想外の食欲を発揮する。用意した朝食では足りず、昨夜の残りのビスクとスペアリブまで平らげ、ケーキの残りまで食べたいと言う。
コーヒーを淹れようとした彩子は、豆を切らせてしまったことを思い出した。昨夜淹れたので、最後だった。料理に気を取られ、買い物の際、補充を忘れていたのだ。
「ごめん。コンビニで買ってくるね」彩子は黒縁眼鏡を外し、コンタクトを入れ、コートを羽織る。
「俺も行くよ。今度はきちんと買い物をする」
朝の清澄な空気に、透のシャンプーの香りがほのかに漂う。2人の髪から、同じ香りが立ち上ることに、彩子はくすぐったいような幸せをかみしめた。
嗅覚過敏の透は、すぐにそれに気づいた。
「フジグリーンティーのシャンプー、借りたよ。いい香りだな」
「ああ、いつもはしっとりするストロベリーを使っているけど、今日は私もそれを使ったの」
「あのストロベリーは、俺には我慢ならない匂いだ。ボディソープのピンクグレープフルーツの香りは、俺も好きだ。彩子がいつも付けているボディミストと同じ香りだろ?」
透がそっと彩子の手を取り、2人は初めて手をつないで歩きだす。木枯らしが2人の背中を押してくる。
暖房の効いたコンビニに入り、インスタントコーヒーを選ぶと、透はSuicaを握りしめ、速足でレジに向かった。
「いらっしゃいませ。こちらにどうぞ」
「ありがとうございます。お願いします」
透は緊張した面持ちで、文字を店員の正面に向け、両手で差し出す。
「袋に入れます?」留学生と思われるアルバイトの店員が、ややぎこちなさの残る日本語で尋ねる。
「いえ、このままで大丈夫です。ありがとうございます」
「298円になります。お支払いはどうしますか?」
「Suicaでお願いします」
「タッチをお願いします」
透はSuicaをタッチする向きに戸惑ったようだが、どうにか決めて、タッチする。
「レシートになります」
「ありがとうございます」
「ありがとうございました」
透と店員のタイミングは、同時だった。見守っていた彩子の目には、透がうまく会計できたように映り、心のなかで拍手を送った。
「今日は完璧だったね」
入口で待っていた彩子は透を労った。
「店員さんと、最後のありがとうございますの声が、かぶってしまったんだ。せっかちな俺の悪い癖だ。失礼だから、やり直す!」
透は目を吊り上げ、周囲など目に入らない空気をまとい、入口の扉に手をかける。
「そのままにしてみようよ」
彩子は透の腕を掴み、留めようとする。
「このままじゃ、気になって、おかしくなってしまうんだ!」
「時間が経てば、不安は消えていくよ。強迫行為をして安心したら、次も同じようにしたくなって、そのループから抜け出せなくなるのは、わかってるでしょ。お願い、今日は一緒に頑張ってみよう」
彩子は透の背中に腕を回し、強引に方向転換させ、アパートに向けて歩き出す。
「気になり続けて、おかしくなったら、どうするんだ! 彩子が責任をとってくれるわけじゃないだろっ?」
「そうだね。透さんは、もうやっちゃったんだよ。そのいや~な気持ちを味わいながら、このまま私と過ごそうよ」
彩子は透の腕に、自分の腕を絡める。
「それどころじゃない!」
透は彩子の腕を勢いよく振り払う。もはや、甘い雰囲気など完全に一掃されていた。スーツ姿の男性が、大声で言い合う長身のカップルに、不審なものを見るような眼差しを投げて、通り過ぎていく。
「だったら、好きにすれば。そのままにできないなら、もう戻ってこなくていいから!」
彩子は、透をおいて大股で歩き出した。
透はしばらく歩道の真ん中に佇んでいたが、諦めたように歩き出し、彩子に追いついてくる。2人は無言でアパートに戻った。
彩子は水を入れた薬缶を火にかけ、リビングのソファに掛けて、頭を垂れている透に視線を投げる。透は血管が浮き出るほど拳を強く握りしめ、コンビニに戻りたい衝動を渾身の力で抑えているように見える。
彩子は2つのコーヒーカップをサイドテーブルに置き、遠慮がちに、透の隣に掛ける。
「怖くてあのコンビニに行けなくなると困る……。やっぱり、行ってくる」
彩子は心を鬼にして、立ち上がろうとする透をソファに留める。
「明日の午前中、赤城先生の診察でしょ? 相談してみたら?」
透は機械的に頷く。
「今年最後のカウンセリング、月曜日だったよね? 私、もう休みに入ってるから運転するよ。一緒に行こう」
「悪いな」
透は顔を上げ、血走った眼で彩子を見た。
彩子はコーヒーカップを手に取り、透にも勧めた。だが、透は立ち上がり、猛獣のようにアパートのなかを行ったり来たりし始める。
「外を散歩してみようか? 気分が変わるかもよ……」
透は耳に入らない様子で、ベッドに座り、頭をかきむしる。
結局、その日は透の気分が変わることはなく、彩子は無力感に苛まれ続けた。