三重歴史紀行(4):豪商の町、松阪
松阪の町はもう少しじっくり見たかったのですが、あまり時間がなくさらっと廻ることになりました。
伊勢国を治めていた北畠氏が織田家に乗っ取られる原因となった大河内城の戦いに初陣として参加していたのが蒲生氏郷でした(三重歴史紀行(2)参照)。
勇敢に戦ったと評価された氏郷は、信長の娘を妻としてもらいます。
しかし、信長が本能寺の変で斃れた後は豊臣秀吉に従い、この松阪を含めた領地を与えられました。畠山氏の分家である木造氏は大河内城の戦いで織田軍と密通していましたが、最終的は滅ぼされます(そうなることが予測できなかったんですかね…)。
蒲生氏郷は、松阪城をわずか3年ほどで築城しました。木造氏の城であった松ヶ島城の瓦を再利用したと言われていまです。
氏郷は、信長の楽市楽座を真似て、城下町へ松ヶ島、伊勢、日野(かつての領地)に住んでいた町人を呼び寄せました。
三井財閥はここが発祥の地です。他にも、長谷川家、小津家(映画監督、小津安二郎の生家はここの分家)など多くの豪商が集まりました。
また、『古事記伝』を書いた本居宣長の実家は木綿問屋で、宣長はこの地で生まれたのでした。
当時の町の様子を伝えるものが沢山残されていますが、今は賑やかさは消え去り、静かに佇むのみです。
松阪商人は、「伊勢商人」と呼ばれ、江戸、京都、大阪などに出店を構えました。
中でも江戸で松阪木綿を扱う店は大伝馬町(日本橋周辺)に70軒あまりもあり、最盛期には毎年約55万反(1反は約1着分)もの松阪木綿を江戸に送り出したそうです。
長谷川家では江戸の出店は従業員に任せ、主人は松阪に家族と住み、手紙で経営方針を指示していました。商売繁盛とともに、稼いだお金は主人のもとに送られ、趣味や芸術にも使われました。本宅はどんどん拡大し、屋敷の広大な庭は、近隣から買い取っていったものなのだそうです。
同じ魚町には、郷土の偉人、本居宣長の生家跡が残されています。
建物は、松阪城の中に移転されていますが、しっかり邸宅跡も保存されていました。
本居宣長の実家も、木綿商だったのです。
宣長は立派な商人になるべく16歳で、江戸日本橋伝馬町の叔父さんの店へ商人見習いとして上京(?)しますが、なんと1年で返されてしまいます。その後、伊勢の紙商のところへ養子として入りますが、これまた3年で離縁と相成ります。
息子は商人には向いていないらしい…と悟ったお母様は(お父さんは11歳の時に亡くなっています)、宣長に医者になるように勧めたようです。こちらはうまくいったようで、京都で5年半勉強したのち、松阪へ帰ってきて医者として働きだします。
京都で勉強している時に、国学に出会い、「古事記」の勉強を志し、賀茂真淵の書いた『冠辞考』と出会い衝撃を受けました。その熱意のまま、伊勢参宮の為に旅籠に泊まっていた真淵のもとへ押しかけます(松阪の一夜)。直接会ったのは一生にこの一回だけで、弟子入りしてからの教えは全て文通(!)によるものだそうです。突撃してきた宣長を一晩平気で(?)相手する真淵もですが、この時代の学問への熱意はすごかったのでしょうね。
郵便制度が整ったのは明治からのようなイメージがあったのですが、江戸時代にちゃんと手紙が届くシステムが確立していたとは…
もっとも、伊勢は手紙が届きやすい地であったそうです。なぜなら、「伊勢参り」に来る人に「伊勢国にいったら、どこのだれそれに手紙を渡してね。よろしく。あ、帰りもね」とできたのだといいます。これがまたちゃんと届くってところが日本人ですねえ…宣長もまた、門下生が全国に500人くらいいたそうで、どんどん手紙が届いたんだそうです。すごいな。
古来より、豊な国であった伊勢国は、戦国の世から江戸にかけても栄えました。今もまた、伊勢神宮を中心にたくさんの観光客が訪れる場所です。長い歴史を感じる旅が非常に面白かったです。
ひとつだけ残念だったのは、松阪牛が食べられなかったことでしょうか…ちゃんと予約していきましょうね…
最後、三重歴史紀行(番外篇)に続きます。