共生やダイバーシティの影に-マジョリティと特権的なマイノリティにも隠されて-
大切なことは、特定の誰かの「のみ」に対応した世界になってはならない。ということである。だから、これまでの特権的な人々や恵まれた人々のためだけになってはならない。
でも、実際はまだまだ差別と偏見は消えてなどいない。
それどころか、マジョリティたちと力のあるマイノリティたちによって「ないもの」にされているマイノリティがたくさんいる。ただ自己責任にされて、ただ無能力とされてしまう。
なら僕はキャッチーなマイノリティになれればよかった。
評価されて試験も簡略化されてマイノリティ性だけで
既存の社会の幸福を得られるようなマイノリティになりたかった。
近年、マイノリティや当事者たちに開かれた社会になるように変わろうとしている。
例えば、LGBTや外国籍の人々、ハンディキャップを抱える人々、
そして女性に対しての閉鎖と抑圧された世界が取り払われようとしている。
ただ厳密にいえば、あるライン以上の恵まれをもった「人々」である。例えば、これまでは特権的な階層の「女性」にだけ開かれつつあったものが、中流階級の「女性」にまで下りてきたというようなものである。
だから、LGBTだろうが、外国籍だろうが、ハンディキャップをもっていようが、どんなマイノリティや当事者であろうが、ある一定以上の基準超えた、既存の社会で求められている恵まれがなければならない。
その恵まれを持ち合わせている、いうならばマジョリティ側の特権的な者たちの示した基準を持っていなければ閉鎖と抑圧から解放された世界には所属することはできないのである。
企業や行政は、ダイバーシティや共生社会に対する指針をだし、人事評価や入社制度に取り入れることが多くなった。そして、学問の世界においても同様な取り組みが盛んに行われている。
しかし、繰り返しになるが、特定の基準と恵まれを持ち合わせていなくては既存の制度と変わらない。いくらマイノリティや当事者のためのダイバーシティ制度や共生社会だといっても
マイノリティ性と恵まれたものを持っている“特定のマイノリティ”じゃなければならない。
指針や評価、そして制度や試験において開かれたというのは、マジョリティであり、人と異なっている部分を持ち合わせていないエリートだけに適応したものから、マジョリティでなくても、人と異なっている部分を持ち合わせていてもエリートであれば構わないとなっただけである。
オリンピックに関わる女性蔑視発言から、世界が声をあげて、企業が声をあげた。
しかし、自分たちの企業がどれだけの差別やマイノリティをないがしろにしていることには目を向けない。一部の恵まれたマイノリティのみにしか扉を開いていないのに、どうして反対できるのだろう。
派遣の経歴や無職の経歴を馬鹿にして、これまでの研究を馬鹿にして、学歴を馬鹿にして、仕事の内容を馬鹿にして評価せずにしているその差別性は目を向けずに何をほざくのだろうか。
ただSPIができなければ、ただクレペリン検査ができなければ、その人の思いや経歴を消していいのだろうか。それは、女性蔑視発言よりも非難されるべきであるはずである。
結局、共生やダイバーシティはマジョリティの特権性を示す道具であり、恵まれたマイノリティたちのスペシャルカードである。その影には、名もなきマイノリティや苦しみもがくカードを持てない人々が多く存在している。
その事実に目を向けることもなく、既存の社会に適応した一部の人のみの共生やダイバーシティは「ただの差別」と変わらない。さらなる断絶と絶望を振りまく存在でしかない。
結局、恵まれていることが基本にあって付属物としてのマイノリティ性ならば、マイノリティや当事者たちも非難されて淘汰される必要があるだろう。
この問題は、マイノリティ運動やマイノリティたちの社会でいう、運動を牽引できる恵まれたマイノリティのみが利益をえてしまう内部の差別論や教養人の問題ということで小さく語られてきたものである。
マイノリティのなかにもヒエラルキーが存在し、声をあげないのであれば総意であるかのようにしてしまう一部の特権的なマイノリティたちの再帰的な現象ともいえる。
僕は思う。本当の共生やダイバーシティは存在しないことを。
存在するためには、真実に目を向けなくてならないからである。
自分の差別性と職業的なマイノリティたちを見極めなくてはならないから。
共生やダイバーシティは雲の上の絵空事かもしれない。
実際は、血生臭い、多くの絶望と悲しみに直面した人々の
断末魔しか聞こえてこないのだから。
僕もその一人である。
ああ、いつまで叫び続けられるだろうか。
ああ、幸せなんてなれないのだろうか。
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