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誰かが消えても・誰かが野垂れても関係ないのが社会



10月の自殺者が2000人(警察庁集計)を超えた。

去年の自殺者は、2000人を超えた月がなかったことが驚きを助長させたのだろう。

一昨年よりも前は、何か月も2000人をゆうに超える人数が亡くなっていたわけで、驚いているメディアや人々に疑問の念が拭えない。

完全失業者数は、コロナ前から200万人はいる。しかし、2020年とほぼ同時に発生したコロナにより1~10月で6万人~10万人もの失業者を出した。

とはいえ、コロナ前から200万人ほどの完全失業者がいるにも関わらず放置しているわけで

本来、潜在的な人々を野放しにしていることも問題にしなくてはならないのに・・・


社会は、決められた能力や価値観というのを重視している。それは、既存の価値観や制度に疑問を持って戦う人々も同様である。かえって、社会正義や人権(ダイバーシティ)などの第一線にいる人ほど矛盾した思考と行動の下で動いている場合が多い。それに気が付かない、指摘すると権力や暴力にでるという人までいる。

柔軟な社会形成や多様な価値基準が広まってきたかのように見えても
それは、一部の恵まれた人たちのなかでの不都合を解消したに過ぎない。

私のように、人権やダイバーシティを専門とし、勉強のために派遣を選んだり、元から戦ってきたような人はどこも絶対に受け入れてはくれない。たとえ、人権を扱うNPOでも、ダイバーシティに取り組み、経歴を気にしない公的機関でさえも排除の対象になってしまう。

それが今現在の社会である。そんな差別的な社会のなかで、よく戦ってこれたと思うが、自分の心をあとどれだけ壊して生きていけばいいのだろうか。

自分の周りには優秀な人が多いし、恵まれた企業にいたり、支援をしてくれるような人間関係を持つ人も多い。しかし、私の場合には「自分の力で」「あなたのような波乱な人は・・・」「助けられるような恵まれた経歴を持ってないから無理」だとされてしまう。

自分自身がどうにもならないことを経験して、初めて世界や社会がやり直しの利かないことに気が付いていく。そして、自分自身の力のみでやってくることには限界があるということも。

恵まれた人は、自分の力だと声を高らかにしていうが、その勘違いももうやめてほしい。
どれだけ恵まれたものを他者からもらい培えたのかを理解しなければならない。
自分の力で得たものをほぼなかったことを認めてほしい。


それなのに、絶対に自分の能力や社会関係資本を使おうとしない。自分だけのものにするか同じぐらいの恵まれを持つ者にしか交換をしない。

社会は、基本的に誰かを消して、自分だけ生きるようにするのは当たり前である。

けれど、それなのに誰かを救おうと奔走し、でも自分の利益になれない人は助けないというのが全く理解できない。

誰かが消えても・誰かが野垂れても関係ないのが社会に、何も期待してはならないということなのかもしれない。だからこそ、人はどんどん死んでいき、どんどん倒れていく。努力をしても決して報われないのなら恵まれた人々を消してしまおうという思想も理解できる。

幸せになりたい、せめて「らしく」いたい。その最低ラインの望みされも叶えられない社会は、果たして存在していいのだろうか。


恵まれた人々の幸福の調整弁になんかなりたくない。

自分さえ幸せであればいいと願うような人の人身御供になりたくない。

実力だと勘違いしているような甘ったれになりたくない。


しかし社会は、誰かが消えても・誰かが野垂れても関係ないのである。

ならばどうすればいいのか。普通の人生や自分の幸せを叶えられない人生を歩めないのならば、

もう徹底的な悪魔になれるべきなのだろうか。

殺戮と化してしまう前に、幸せになれるのだろうか。

夢はルポライターなどです。(/・ω・)/「声なき声を」届けることや草の根活動を頑張っている人や世に出せるように、そのために使えたらなと思います。