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短篇小説|ギはギルティのギ

 ギルがゆるやかにハンドルを切ると、目の前に青い海が広がった。ネモフィラの花畑を思い出す色彩。セリは息を呑み、わずかな時間、苦悩を忘れた。
「ほんとうに、私の頼みもきいてくれるの」
「もちろん」
 約束だからねと、彼は前方を見たまま答えた。車内にはミントの香りが漂っている。
「どこへ行くの。そろそろ教えてくれてもいいんじゃない?」
「もうすぐ着くよ。それに」
「私は知る必要がない、でしょ」
 セリは彼の言葉を遮って、助手席で座り直した。海沿いに並ぶパームツリーが、車のスピードに合わせて後ろに流れていく。きらきらと光が踊る、初夏の空。のどかすぎて、逆に責められている気分になる。
 ギルというのは、彼のほんとうの名前ではない。彼の名をセリは知らない。だから、自分の中だけでギルと呼ぶことにした。
 ギルティのギル。

 なぜセリが名前も知らない男とドライブしているかといえば、それはほんの偶然、あるいは運命からだった。今日の昼、いつもの病院まで来たはいいがなぜかどうしても入る気にならず、セリはふらりと近くの小さな公園を訪ねた。
 木陰のベンチに男がいた。見覚えがある、と思った瞬間に目が合った。病院の帰りにしばしば立ち寄るバーの、無口なスタッフ。「酔わなくて、気が楽になるカクテルを」そんな無茶で曖昧なオーダーに黙って従い、美しい飲みものをつくってくれる。それらはすべて、セリの舌に合った。
 公園でセリに気づいた彼は、開口一番に言った。
「頼みごとをきいてくれませんか」
 ほんの2、3時間、ドライブにつき合ってほしい。かわりにあなたの頼みもひとつ、僕にできることなら。その交換条件を、セリは呑んだ。

 海辺のさびれた町を抜け、くねくねした坂道を上り、高台の四角い建物の敷地に彼は車を乗り入れた。ガラス製の自動ドア。その横に、小さなピエタが飾られている。
「ここで育った」
 正面玄関に彼は堂々と車を横付けした。児童養護施設だった。
「こら! そこは駐車スペースじゃないって、何度言ったらわかるんだ」
 通用口から白髪の男がいきり立って飛び出してきた。エンジンはかけたままでギルは車を降り、白い包みをその男へ手渡す。
「ヒロに渡してくれ」
「自分で渡したらどうだ」
 ふたりは顔見知りのようだった。
「パーティーは欠席。おめでとうって言っといて」
「だから自分で……っておい、こら」
 最後まで聞かず、ギルは運転席に戻って車のドアを閉めた。
 白髪の男が、助手席のセリをまじまじと眺めている。
「これでいい」
 つぶやいて、ギルは車を発進させる。タイヤが高い音をたてた。

 車はさっき来た海沿いの道を反対方向へ走っている。今度はギルの横顔越しに海が見える。日がすこし傾いて、波間にトパーズ色の輝きがあった。
「それで?」
「え?」
「あなたの頼みは」
「まだドライブは終わっていないけど」
「こっちの用事はもう済んだ。おかげさまで」
 セリは釈然としなかった。あの白髪頭に助手席の女を見せるのが、ギルの目的だったというのだろうか。そんな程度のことと交換で、セリの頼みをきいてくれると? どんな頼みかもわからないのに? たとえば、ひと晩一緒にいてほしいとか、このままどこかへ連れて行ってとか……。
「賢者も、愚者も」
 いきなりギルが話を変えた。
「賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない」
「何、それ」
「聖書の言葉。あの施設、キリスト教系なんだ。それでいろいろ教わったけど、覚えているのはこれだけ。なんとなく、好きだった」
 ギルは続きを暗唱した。
「やがて来る日には、すべて忘れ去られてしまう。賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか」
「なんだか、空しい言葉だね」
「そうかな」
「じゃ、どうしてこの言葉が好きなの」
「気が楽になる。賢者も愚者もどうせ同じだとしたら、あなたはどう生きたい?」
 セリははっとした。すぐには答えられなくて、「あなたは?」と問い返した。
「賢者になりたがる愚者、かな。たぶん」
 ギルははじめてほほ笑んだ。

 トンネルの照明が、ふたりをオレンジ色に照らしている。事情を尋ねてみると、意外にも彼はすんなり話してくれた。
「1年前に友達が死んだ。そして来週、もうひとりの友達が結婚する」
 死んだ友人と、結婚する友人は、ギルと施設での幼なじみ。白髪頭(今は施設長だという!)から、3兄弟と呼ばれたやんちゃ仲間だった。そしてひとりが死に、その婚約者だった女と、もうひとりが結婚する。週末に施設でささやかな祝賀パーティーがある。そのため祝いの品を届けに来たのだ、と。
「あなたも、その人を好きだったの? 親友の元婚約者であり、別の親友の妻になる彼女のこと」
「さあね」
 はぐらかされたが、セリは納得した。とにかくそういう事情の中で、今日は助手席に女が必要だったのだ。週末になれば、施設長から新郎に伝わるだろう。当然、新婦にも。
「やだ、どうしたんだろう」
 はらはらと自分の目から涙がこぼれ落ち、セリはうろたえた。
「ごめん、なんか……」
 止めようと思うと涙はますますあふれ出て、ついには嗚咽まで。ギルは何も言わなかった。
 車は長いトンネルを出た。まぶしい光が視界に満ちた。

「ほんとうに何でも頼みをきいてくれるの」
「……いいよ。愚者だから」
〝何でも〟なんていう約束ではなかった。〝僕にできることなら〟と彼は言っていたはずなのに。許容されてしまったら、無茶なことを言って困らせて、誤魔化すわけにいかなくなる。セリはまた泣きそうになった。
「だけど、頼みなんてないのよ。私の望みは叶わない。無理なの」
 交換条件なんて、セリには最初からどうでもよかった。
「ただ、逃げたかった。今日は逃げ出したかったの。それだけ」
「あの病院から?」
 驚いて、セリは彼を見た。公園のベンチから見られていたとは思わなかった。
「前にも見かけたことがある。あの病院にあなたが出入りするところ。うちの店、近いから」
 セリはひとつ、ため息をついた。
「……身内が、入院してる」
「その人?」
 ギルは視線で、セリの左手の薬指をさした。プラチナのシンプルなリング。彼女はうなずいた。
「もうずっと長いこと、意識がないの。明日死ぬかもしれないし、いつまで待っても今のままかもしれない」
 白い病室。横臥した肉体を這う、数本の管。白いシーツ。点滴の器具。かすかな呼吸音。セリの脳裏に見慣れた光景がよみがえる。
 ギルは運転席側の窓ガラスをわずかに下げた。ロードノイズが沈黙を覆う。なかなか暮れない夏の夕べの、ぬるくて切ない風が流れこんでくる。
「だけど」ギルは前を向いたまま言った。「その人はまだ、地上にいる」
 膝の上でセリは両手を組み合わせた。指に力をこめる。
 念を押すように繰り返すギルの声が耳に響く。
「その人は、まだ地上で生きている」
「そうよ」
「生きているんだ」
 ギルの横顔の向こうで、海はトパーズのきらめきを増している。突如、セりの中で記憶が洪水を起こした。夫と出会った日の空。はじめて抱き合った日のぬくもり。他愛もないことで笑い合った日々。小さなけんかと仲直り。それは〝生きている〟のリフレイン。病室で眠る夫の手を握ったときの、確かなあたたかさ。
「そうよ」
 セリは両手をかたく結んだ。
「自分では、変えられないことだと思ってた。あの人の病状は、私にはどうにもできない。だから自分のことも、どう生きたいかなんて考えられなかった。だけど、違うね。自分で変えられることはある。希望を持つか、持たないか。それは自分で選択できる」
「賢者の道を行くんだね」
「そうかしら。バカみたいに希望を持ち続けるのって、愚者かも。でも、それなら私も愚者でいいって、思った」
「それで?」
「え」
「あなたの頼みは」
「……病院まで送ってください」
「日没前に着きますよ」
 ギルはアクセルを踏みこんだ。

 カリフォルニア・サンセット。オレンジジュースとグレナデン・シロップのグラデーションが美しい、夕陽色のカクテル。病院に着いたとき、世界はその色に染まっていた。
 礼を言い、車を降りたセリに、ギルは助手席の窓を開けて尋ねた。
「また店に来る?」
「そうね」
 じゃあまた。そう言って走り去った彼の車のテールライトが、カクテルの色に溶けていく。そうね、と答えはしたものの、セリは知っていた。彼のいる店をひとりで訪ねることは、もうないだろう。
 今日の記憶。自分が現実から逃げ出した、夏の日のこのショートドライブの記憶を、これから先、希望の支えにして生きるのだから。
                              (了)

賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか。
(コヘレトの言葉2:16 聖書 新共同訳)


◇見出しの写真は、みんなのフォトギャラリーから、
Yoshi(yoshitravelogue)さんの作品を使わせていただきました。
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