言葉を届ける。読み手さんと1対1で向き合うこと。
最近、「たくさんの人に『届く』ってどういうことだろう」と考える瞬間がありました。
たくさんの人に聴かれた曲。
たくさんの人が欲しがる絵。
たくさんの人が買った本。
たくさんの人が読んだnote記事。
それらは、「たくさんの人に届いた」ものたちです。
では、どうやったら「たくさんの人に届く」のか。
「たくさんの人に届く」とは、そもそもどういうことなのか。
そこでふと、先日大学の授業で先生に取り上げていただいたコメントを思い出しました。
その授業では、毎回コメントシートを提出して、次回授業の冒頭で先生が何人かのコメントを(学生の名前は伏せて)紹介します。
私は、先生が講義内で触れた「演劇は、観客と演者一対一でも成立する」という言葉を挙げて、こんなコメントを書きました。
(確か、この本について取り上げた講義でした。)
このコメントに対して、先生が「その通りだと思います」と同意してくださったのが、とても嬉しかったわけなのですが。
これを思い出して、はっとしました。
どんなにたくさんの人が読んだ記事だったとしても、それは、「ひとりの書き手」対「多数の読者」という図式にはならないのだ、と。
たとえば、私がnoteにひとつの記事を投稿して、それを100人の方が読んでくださったとしても。
書き手である私と、私の記事に出会ってくださった読み手さんとが、ひとつの記事を通して1対1で結びつく、ということは絶対に変わりません。
つい、「100人もの人に読まれた」という事実と、大きな数字に目が行きがちだけれど。
それは、インターネット上でnoteのシステムによってつながって、「1対1」による言葉を通した関わりが100人分、つまり100回繰り返された、ということ。
100人の方が、私の言葉に出会ってくださったということは紛れもない事実です。
でもそれは、「1対100が1回」ではなくて、「1対1が100回」。
もし私が講演会を開いて、そこに100人の方が集まってくださったとしたら、それは「1対100が1回」です。
でも、インターネットでの言葉の交流は、違います。
1対1のコミュニケーションを(システム上、どうしても一方通行に「差し出す側」と「受け取る側」の役目は固定されてしまうけれど)、無数に繰り返すことができる。
「たくさんの人に届く」ために、どうすればいいのか。
結局のところ、「誰かひとりに深く突き刺さるもの」を目指すしかないんじゃないかなと思います。
読み手さんと、1対1で向き合う覚悟をもって。
それこそ、手紙をしたためるような、そんな気持ちで。
フォロワーさんが増えても、投稿するときは「色々な人に読んでほしいな」と思ったとしても。
書いているときの心持ちは「たったひとりに届ける」でありたいです。
P.S.
これまで、私の記事は「こんにちは。桜小路いをりです。」で始めて、冒頭に前置きを書いていたのですが、今回の記事からは、書き出しから話題に入っていこうと思います。(もちろん、読む方を選ぶ内容の場合は、前置きを入れる予定です。)
印象的な書き出しを頑張って考えていきますので、ぜひお楽しみに。