学会無所属の私が学会大会交流会に参加した感想
1000字程度
一観測者として交流会に参加した背景として、私は元より十人十色的個性の彩りに美しさを感じるタチで、社会の導き手である先生方といえど人の子。役職柄として研究度量、時代柄として流行性といった概念に縛られて必要以上にペルソナ(仮面)を被らなければならないという認識が大いに見受けられるので、その確たる芯としての志向性、個性はどのようなものかと参加した次第です。
振り返ってみればそのような視点でした。(酒という肩の荷を下ろす場でのコミュニケーションにおいて、地位や学識といった装飾は話題の一つに過ぎない)
交流会参加者の割合としては先生が大半を占め、私のような学会無所属で売り込む意思なのない者は稀。組織人として営業の意味合いで来ている人も少数。
参加者に知り合いが複数いるという方々が多数。なので最低限の心的保証ありきで新規性といったカオスを求める人、せっかく神戸に来たのでという、一時的にでも外向性に振れる人が多い。(飲み始めたら何とかなる)
まあ個人で参加している立場としては、飲み始めたら時間とともに立場役職といった権威性(後天的個性の一要因とでもいいますか)は薄れて、人格や個性といった確たるモノ(自己認識)がある人ほどブレない自分をもっているので、それだけで話せるのだなぁと。祭りで云うと、盆踊りに参加するように個である必要はなく、集団に溶け込める無個性(ゆるさや多様性というか)が認められるように。
つまり酔ってしまえば権威という一方便、一表現手段、形作られたモノは価値が薄れて多様性(個性こだわりといったモノの見方や飾る必要のない話をできるか)が重要になるんじゃないかと。
人格の光輝というものは多様性の尊重をできるぐらいの包容力が必要であると思います。故に取っ付きにくさや硬さ難しさといった自他の垣根を取り除いてしまう酒や祭りの価値は歴史的、集合無意識的に認められ続けてきたのではないかなあと。
結局のところ、社長や教授、政治家といった役職(概念)は人工的後天的獲得の個性を支える一側面なので、その人が表現したいことを制約なくどれほど展開できるかが先鋭的コミュニケーションの要なのかなぁと思います。
次回は熊本で催される予定のようで、同席させていただいた、熊本の方々にまたお会いできることを愉しみにしています。袖振り合うも多生の縁のように。
こういった専門家の社交場は、読書会や異業種交流会と比べて取っ付き難い分、勉強させていただけますね。