自分より得意な人を知って「得意」をやめた日

「得意だったけど、自分より得意な人がいて、得意をやめた」
「好きだったけど、自分より好きな人がいて、好きをやめた」

本来、「好き」は人と比べるものではない。 
頭ではわかっている。
ただ自己肯定感が低いと、つい他人の「好き度合い」や「得意度合い」を自分のそれと比べて引き下がってしまう。そんなことはないだろうか。
私はめっちゃありますよ。
一貫しない自分を責めながら、誰かのせいにして、人生の選択をコロコロ変えてきた。

得意なことがあったこと 
今じゃ もう 忘れてるのは
それを 自分より得意な誰かがいたから

大切な夢があったこと
今じゃ もう 忘れたいのは
それを 本当に叶えても金にならないから

隣人は立派 将来有望 才能人
そんな奴がさぁ 『がんばれ』ってさぁ
怠けて見えたかい
そう聞いたらうなずくかい
               BUMP OF CHICKEN 「才悩人応援歌」


自分よりナニカが優れている人や好きな人はいくらでもいて、そのたびに「好きをおりて」道を変える。
この人生の主人公は誰。
しまいに、自分の「好き」がわからなくなる。

「得意」と「好き」は意味合いが異なるけれど、「ポジティブな側面がある」点で共通している解釈でまとめ、ここでは違いについて書きません。


自分より「得意」な人に勝手に気圧されて、進んでいた道を引き返す人へ。
自分より「好き」な人がいるからと、自分の好きをやめなくてもいいだろう?

「好き」は、誰かと比べるものじゃない。

「私よりあの人のほうが
 クリエイティブなことが1000S好きだから、私はかなわない」

とか、ないのだ。(Sは架空単位SUKI)

わかっている。
だけど「キラキラした誰かと比べて自身を腐すパターン」は、長年強化されてきたから、ほとんど自動的にいつの間にか比較している。
自分の「ワクワク」にケチをつける。
輝く誰かを前に、自らを値踏みして「好き」「ワクワク」からおりてしまったのだ。

自分の好きに値段はない。
好きだという気持ちに優劣はない。

「好き」が、どんなサイズでも、どんなまだら模様でもかまわない。
「好き」にはそもそも計ったり測ったりできない。

自分基準【自分が好きなら他者を気にせず好きを貫けばいい】
ではなく
他人基準【あの人より好きが劣るから、私はもう好きをやめよう】と
出会った何人もの登場人物の輝きぶりによって、自分の関心の舵をきってきた自分へ。
舵を「きる」というより、「捻じ曲げてきた」自分へ。
この人生の主人公は誰。

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