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失われた脚 1

 2022年11月22日、午後三時の東京渋谷スクランブル交差点で大勢の人が血を吐いて倒れた。被害は拡大して、東京各地で謎のウイルスによって死者が多数確認された。世間はこの事を「東京血の海事件」と呼んだ。

 陸上。走ることが彼のすべてだった。
 「速水俊太郎はやみしゅんたろう」の片脚は思うように動かなくなった。昔のようにただひたすらに走ることはできなくなった。人生に夢も希望もない。子どもの頃に夢見た陸上選手という夢は、片脚と共に失われた。

 九年前のあの日、東京オリンピック誘致で日本は盛り上がっていた。当時の俊太郎は高校一年生。陸上部にすべてを捧げていた少年だった。

「なあ、もしかしたら俺たちの中でオリンピック選手になる奴が出てくるんじゃないか」
「ないことはないよな」

 二年生の先輩たちがそんな会話を交わしていた。俊太郎はいつものように黙々と部活の準備をしている。

「速水。お前、足速いよな。短距離の選手になれるんじゃないか」

 先輩にそんなことを言われたのは初めてだった。部活の外部コーチは厳しく、いつも空気がピリついていた。声をかけられることは滅多になく、驚いた。内心嬉しかったが、そんな簡単な世界ではないことを知っている。

「俺は無理ですよ。まだ上がたくさんいますから」
「それはそうだけど、自信持てよ」
「ありがとうございます」

 そう上には上がいる。俊太郎はその頂点には行けなかった。その存在が過去に、すぐそばにいた。
 グラウンドに急ぐ陸上部員たち。

「一秒も遅れるなと言ったよな」

 部員たちは揃ってすみませんと謝る。その中に俊太郎もいる。一人の失態が連帯責任となる。部長が頭を上げた後、コーチは部長の頬を叩いた。俊太郎の頭に「体罰」という二文字が浮かんだ。しかし、それを口にする者はいなかった。何事もなかったかのように部活が始まる。

 翌日。同じクラスの陸上部の「馬川うまかわ」が俊太郎に声をかけてくる。内容は昨日の件だった。

「先生に報告した方がいいと思うで、あの事。部長、何回も叩かれているやろ」

 部長が叩かれているのはあの一回だけではない。何回も行われている。しかし、部長は大丈夫だと周りに口出ししないように部員に伝えていた。

「部長はさ……」
「部長とか関係ないやろ。事故が起きてからじゃ遅い。俺、一人で行ってくる。お前にがっかりしたわ」

 彼は一人だけでも顧問の先生に伝えると教室を出た。
 昼休み。陸上部の部員は部長に呼ばれ、部室に集まった。

「誰が言ったんだ」

 部員が集まったところで突然、犯人捜しが始まる。部長が何のことを話しているのかすぐに分かった俊太郎。馬川に視線を向ける。彼が本当に顧問に伝えたのだ。

「言ったよな。言うなって」
「でも!」

 馬川が前に出た。自分が顧問に伝えたと説明した。

「俺は大丈夫だって言っただろ。それに大会も控えている」
「部長! 大会とか言っている場合じゃないでしょ」
「馬川!」

 部長は話を続ける。

「ここにいる連中は次の大会に向けて頑張ってんだよ。邪魔しないでくれ」
「本当にそれでいいんですか」

 普段、前に出て発言するタイプではない俊太郎が部室を出ようとする先輩たちを止めた。

「お前たちは部活だけに集中すればいい。気にしなくていい」

 部長を含む二年生の先輩たちは部室を出て行った。
 馬川から聞いた話を顧問がコーチに問いただしたところ、指導の一環だと話したという。それからは目立った問題はなかった。
 翌年。二年の先輩は三年生に、俊太郎たちは二年生になった。春季大会を終え、三年生の先輩たちは引退する。
 部室で引退式を行う。そこで俊太郎が次の部長に選ばれた。

「俺が部長ですか」
「心配だけどな」

 俊太郎は陸上のことになると周りが見えなくなる。いつも単独で行動する俊太郎を部長は心配しているが、誰よりも陸上のことを考えている彼を適任だと判断した。
 俊太郎は信じられなかった。まさか自分が部長に選ばれるとは。部長は手を差し出す。

「任せたぞ。速水」

 俊太郎は部長の手を握った。

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