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あの人の名は信長(仮) 1

 2022年11月22日、午後三時の東京渋谷スクランブル交差点で大勢の人が血を吐いて倒れた。被害は拡大して、東京各地で謎のウイルスによって死者が多数確認された。世間はこの事を「東京血の海事件」と呼んだ。

 夕方。いつもの時間帯に来店する男性は、ずっと立ち読みをしていた。スーツ姿からして、仕事帰りだろうか。この古書店は立ち読み禁止であり、出入口にも注意書きの張り紙がある。なのに、その男性は平然と立ち読みをしている。不思議なことに店長は注意しない。
 大阪の梅田駅近くにある古書店で働く「坂本加恋さかもとかれん」は気になっていた。しかし、注意できずにいた。

「じゃあ加恋ちゃん。おつかいよろしく」
「はい。わかりました」

 加恋が注意しようとする時に限って店長がおつかいを頼んでくる。それも毎日。なんで私が店長の小腹を満たすためのおやつを買いに行かなければならないのかと思いながら、今日も店を出る。そして帰ってきた頃にはその男性はもういない。

「買ってきましたよ。店長」
「ありがとう」

 加恋が買ってきたチョコレートを満足そうに食べる店長。営業時間中に本屋の店主がチョコレートを食べているのは如何なものかと首を傾げる加恋。ただこの古書店は歴史が長く、継続して来店する常連客のお客様が多い。潰れない理由の一つである。
 八十過ぎの店長はたまに居眠りしていることがある。加恋がここで働く前は一人でやっていたと聞いたものだから、ものすごく心配になった。商品は盗まれていないだろうか、レジからお金が盗まれていないだろうか。店長の居眠りは深く、近くで大声を出さないと起きない。
 商品棚を順番に清掃していく加恋はいつもあの男性が立ち読みする位置に辿り着いた。不思議なのは男性が読んでいた本である。タイトルは信長兵法書。見覚えのない本だ。この店に置いてある商品は大体把握している加恋。その理由は四年前に遡る。

「閉店!?」

 店長から告げられた言葉にその場にいたスタッフ全員が驚いた。加恋がアルバイトとして働いていた居酒屋は大阪全域を襲った地震の影響を受けた。ダメージは大きく、復帰の見通しがつかなくなった。店長の苦渋な決断を受け止めるしかなかった。
 その帰り道、加恋は梅田駅近くにある古書店を見つけた。出入口の「立ち読み禁止」の張り紙の隣に、従業員募集と雑に書かれた紙が目に入る。すぐさま古書店に入る加恋だったが、その店内は凄まじかった。地震の影響を受け、棚に置かれていた商品が崩れ落ちている。でも、あの地震が起きてから一週間も経っていた。ということは、この店は一週間もこの状態だったということになる。

「お客さん、すまない。今は休業中なんだ」

 八十過ぎた男性が奥から加恋に声をかけた。

「すみません。表にあった募集の……」
「えっ? なんて?」

 男性は耳が遠いみたいで聞き返される。加恋は散らかっている本を踏まないようにレジカウンターに近づき、再度同じことを口にした。

「それは助かるよ。見ての通り、地震の影響を受けて……あっ、私はここの店長」
「ありがとうございます。で、他の従業員はいるんですか?」
「いや、ずっと一人で営業している」

 それは時間がかかると頷く加恋。二つ返事で新たなバイト先が決まった加恋は翌日から古書店で働く。

「在庫管理とかはどうしてるんですか?」
「何もしていない。売れたら売れたで。買取したら、そのまま値札貼って店に出す」

 よくその状態でこれまで潰れずに営業できたなと思う加恋。在庫管理を正しくするためにリスト化を提案する。

「それすると大変だから」
「パソコンがあれば、簡単にできます」

 機械に疎い店長は顔をしかめる。加恋は店長のためにも必死に頼み込む。

「私、リスト化したりするの好きですし得意なので教えますよ」
「本当か?」

 頑固な店長は中々折れない。でも、あと一押しすればいけると確信する。しかし、その希望は打ち破られた。
 本棚の整理をしていたある時、店長が居眠りしていることに気づく。加恋が声をかけても全く起きる様子がなかった。

「あの!」

 店長の近くで大声を出した加恋。それに気づいて目覚める店長。

「やっぱり心配です。店の為にも今ある本をリスト化します」

 強引に押し切った加恋。店にある本をすべてメモし、それを自分のパソコンに打ち込む。この作業は加恋にとって苦ではなかった。おかげでこの店にある本は大体把握できた。加恋の頑張りを見た店長は店用のパソコンを用意した。

 加恋が作成した在庫リストは店長も更新できるようにやり方を教えている。だから、信長兵法書というリストに載ってない本を不思議に思う。この件を問いただした時、店長は明らかに話を逸らした。一度、この本に触れたことがあるが開いたことはない。店長が直前で止めたのだ。この本には何が書いているのか凄く気になる加恋。信長兵法書だから歴史に名を残した織田信長の戦術がずらりと書いてあるのだろう。しかし、果たしてそれは面白いのだろうか。
 そんなことを頭に浮かべている間に午後六時を回っていた。退勤時間になった加恋は挨拶するとすぐに店を出た。
 勤務中は仕事のことで頭いっぱいの加恋だが、退勤するとプライベートモードに切り替わる。

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