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失われた脚 3

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 中学三年生の頃の担任の先生は「新道司しんどうつかさ」という名前だった。ベッドの近くにあった丸椅子に座る新道。

「何も言えないな」

 彼は何も変わってなかった。俊太郎が大丈夫ではないことを知っていた。あえて、新道は「大丈夫」などの心配する言葉は口にしなかった。

「だったら、何しに来たんですか」
「そうだよな。おかしいよな」

 新道は笑う。大して面白くもない俊太郎は無表情で顔を背ける。

「でも悪いか? 成長した教え子の姿を見に来たら」

 俊太郎はこんな姿を見に来てほしくなかった。陸上で活躍している姿を見てほしかった。それに自分は何も成長していない。

「速水が陸上部の部長になったって聞いた時は嬉しかったな」
「先生。陸上の話は止めてくださいよ。もう俺できないんです」

 新道はごめんなと謝った。部長に選ばれた時は自分も嬉しかった。それは新道と同じ気持ちだった。

「もう俺、立ち直れないです。先生なら知ってるでしょ。陸上がすべてだったんです。小学生の時、走りで一番になった時からずっと」

 過去を振り返る俊太郎。小学一年生の時、初めての運動会で一番になった時から走ることが好きになった。それ以来、ずっと走ってきた。中学生になると自分よりも、もっと上がいるってわかって、でもそこに辿り着こうと必死に努力して。それでも、まだ辿り着けなくて。時に休めと注意され、怒られて。

「お疲れさまだな」

 新道は横向いている俊太郎の背中を軽く触れた。堪えていた涙が溢れた。新道はその言葉を最後に病室を出た。

 数ヶ月経った俊太郎は無事に退院し、久しぶりに登校した。あれから外部コーチは解任されたと顧問から聞かされる。俊太郎は入院時に決めていたことがあった。
 会議室。俊太郎は担任の先生に退学すると伝えた。

「速水。しっかりと考えたのか」
「自分で決めました。親も納得してます。俺がこの学校に入学したのは陸上のためなので。できなければ、意味がないです」

 頭を下げた俊太郎は会議室を出た。顧問から聞いて、駆けつけた馬川は俊太郎に声をかける。

「速水が辞める必要はない。みんな待っている」
「みんな待ってるって……俺はもう陸上できないんだ」
「お前がいない間、先輩も後輩も必死になって――」
「もう放っておいてくれ」

 思うように動かない右脚を引きずって歩く俊太郎。馬川はそれ以上何も言わなかった。いつも走っていた母校である中学校の近くに地域グラウンドがある。ベンチに座る俊太郎。走っている過去の自分がそこに映る。悔しくて仕方がなかった。

「情けない顔してんな」

 声をかけて来たその男子は中学時代、同じ陸上部の「稲本公平いなもとこうへい」だった。大会で好成績を残しており、長距離選手。足が速く、持久力もあり、あらゆる高校から推薦入学の話があった。彼はそれをすべて断った。

「噂ってのが回ってくるんだよ」

 稲本は俊太郎の隣に座る。事故で後遺症が残ったことを稲本は噂で聞いていた。それに加えて、俊太郎の母親から退学する話も聞いていた。

「なんで人はいちいち周りに話すかな。余計なお世話なんだよ」
「皆、お前のこと心配してんだろ」

 俊太郎の胸倉を掴む稲本。

「心配してくれても、何も嬉しくねぇんだよ」

 稲本の腕を振り払う俊太郎。

「競争するぞ。勝負だ」

 袖を捲った稲本はベンチから立って遠くで俊太郎を待っている。

「位置につけよ。速水」

 自分は片脚が動かない。勝負をしても負けるに決まっている。行くつもりはなく、俊太郎はずっとベンチに座ったまま。稲本を無視して、俊太郎は帰ろうとする。

「逃げんのか!」

 俊太郎の足が止まった。遠くにいる稲本のその言葉が伝わる。引き返して稲本のところへ向かう俊太郎。

「陸上捨てたお前に説教とかされたくねぇんだよ。陸上がすべてだった俺の気持ちなんかわからない」
「だったら今、ここで走って証明しろよ! 陸上がすべてだったことを」

 俊太郎は持っていたかばんをその場に置いた。稲本と競争することを決める。スタートの合図は俊太郎が出した。
 容赦ない稲本は先を走る。中学の頃と何も変わらない。衰えておらず、一段とスピードが増している。一方の自分が片脚が不自由、完全に劣っている。上手く走れず、俊太郎は転んでしまう。
 思うように走れない。今まで通りに走れない。

「立ち上がれ!」

 先にゴールした稲本の声が聞こえた。

 ふざけんなよ。俺は――

 しかし、俊太郎はわかっていた。あれが稲本の優しさだと。好奇の目で見られる中、稲本は変わらず俊太郎に接する。それでも、陸上を辞めた稲本を許すことはできなかった。誰も俊太郎の気持ちはわからない。
 足を引きずりながらも稲本のところまで到着した。

「俺は本気で陸上選手を目指していた。上を目指して、オリンピックに出たかった」

 いつかの日に言われた先輩の言葉。オリンピック選手になれるのではないかと言われた時。

「もう俺は夢を失った」

 俊太郎は自宅へと帰った。そしてもう二度と、稲本と会うことはなかった。

 時は2022年へと戻る。
 あのグラウンドはもう使えなくなっている。市が新たな施設を建設するらしい。完成はまだ先の話。新しく広場もできており、一台のキッチンカーが停まっていた。コーヒーを頼んだ俊太郎は一人、ベンチに座る。グラウンドがあったその場所は今まさに工事中。まるであの時の思い出が消されていくようだった。
 死にたい人の気持ちなんて、一生わからないと思っていた。自分がこのようになって初めてわかった。将来が見えない。楽しいことが見つからない。また仕事を辞めてしまった。

 中学校を通る俊太郎。外から見えるグラウンドからあり得ない光景を目の当たりにする。高校の頃、陸上部の外部コーチをしていた彼がそこにいたのだ。グラウンドで走っている中学生の姿、おそらく陸上部だろう。
 俊太郎は許せなかった。自分は人生を奪われたも同然なのに、かつてのコーチは普通に陸上を教えている。

「ふざけんなよ」

 自宅に帰ってきた俊太郎は自分の部屋に直行する。一晩考えた末、俊太郎はあることを決意する。今の俊太郎に失うものはない。過去にすべて、失った。

 決行日。ある競技場の外、合同練習を行うとSNSで発信していたかつてのコーチはそこにいた。危機感がまるでない。誰かが止めなければならない。二度と自分と同じ目に遭う人が現れないように。
 俊太郎の右手にはナイフがあった。その手はパーカで隠されてある。

「俺はあいつのせいで。あいつのせいで」

 俊太郎は片脚を引きずりながら、彼に向かっていた。

[終]

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