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『孟子』ってどんな始まり方をする?
前回は『孟子』を学ぶ必要性などを書きましたが、今回からいよいよ本文の方に入りたいと思います。
前回言い忘れましたが、『孟子』は吉田松陰の愛読書でもありました(松陰が『孟子』についての考えを記した『講孟余話』というテキストがあります)。僕は幕末史も好きなので、こうした事情も『孟子』を読むモチベーションになっています。
同じように、幕末が好きな方であれば、松陰が『孟子』のどういう部分に影響を受けたのか探ってみるのもおもしろいでしょう。
*『講孟余話』は、中央公論社の『日本の名著 吉田松陰』に、全文ではありませんが現代語訳されたものが収録されているのでそちらを読むといいでしょう。
1.古典の「出だし」をみる重要性
さて、古典において、最初の文章は印象にのこりますよね。
『枕草子』は「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山ぎは…」、『平家物語』は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…」、『論語』は「子曰く、学びて時にこれを習う、また説(よろこ)ばしからずや」。
これらの言葉は、古典の専門家でなくても、多くの人が知っていることでしょう。
冒頭の文は、それだけで古典の全体的な世界観を示していると思います。その古典を記した先人たちも、適当に冒頭の文を書いたりはしないでしょう。
『孟子』の冒頭の部分も、『孟子』全体の世界観をよく示すものになっています。
ただし、同じ儒学の古典ではありますが、『論語』と『孟子』では雰囲気が異なっています。
『論語』は各章が短めで、フレ一ズも覚えやすいです。「孔子の言葉を端的に示す」ということに重点が置かれているような気がします。
それは、我々にとってありがたい部分でもあるのですが、文章が短すぎて、「この孔子の発言ってどういう場面で言われたものだろうか?」と悩む場面も多いです。
当時の弟子たちはわざわざ文章に記さなくても孔子の発言に隠された意図といいますか、文脈がわかったのだと思いますが、今の我々がそれを知るのは難しいですよね。
一方『孟子』は、誰かとの対話が基本となっています(特に、『孟子』の前半部分はその傾向が強いです)。だいたいは当時の各国の王や、時にはライバルだった学者(告子など)も登場しています。対話もかなり具体的で、実際の問答の場面の雰囲気が伝わってきます。孟子は王が相手でも結構ストレートにものをいうタイプなので、時にその緊張感も伝わってきます。これを味わうことも孟子を読む醍醐味でしょう。
2.『孟子』の時代背景
本文に入る前に、簡単に『孟子』の時代背景を伝えておきます。
孟子が活躍したのは紀元前320~300年ごろの中国で、戦乱がなんと400年以上も続いているという状況でした(春秋・戦国時代)。
最初はたくさんの小さな国同士が争っているという状況でしたが、400年もたつうちに統合がすすみ、孟子のころには大きな国7つ(これを戦国七雄といいます)がしのぎを削り、毎年中国のどこかでは戦争が起きているという状況でした。小さな国まで入れるともう少し国はあったのですが、だいたいの戦争はこの7つの主要な国がおこしています。
そんな中、各国の王たちは「どうしたら自分の国は生き残っていけるか」、「どうしたら他国よりも強い国にできるか」と日々考えるようになるのが自然な流れです。
そのような王の望みに応えたのが、孟子など、この時代の遊説家たちです。彼らはさまざまな国をめぐり、それぞれがその国のためになると思う自説を王に述べました。孟子も、自分のことを政治顧問のような立場だと思っていたはずです。王の側も、「この遊説家の説は国のためになる」と思えばその者を重用しました。
王といえば独裁的なイメージがあると思いますが、『孟子』を読んでいくと、王の方から孟子に教えを求めたり、中には王の方から孟子に会いに行こうとしたケースもあるくらいです。王の側も、生き残りをかけて必死だったことがわかります。そのためには、多少の無礼は許していました。
孟子も、(そうした王の心情を知ってか)王に対してストレートに発言していて、「これでよく王から怒られなかったな」という箇所も複数あります。
3.『孟子』の第一声
以上のことを頭に入れたうえで、実際に本文をみてみましょう。
最初の章も、孟子と梁の恵王との対話からスタートします。
「梁」とは、戦国七雄の一つ、「魏」のことです(漫画「キングダム」を読んでいれば秦の敵として頻繁に登場するので知っていると思います)。
この時期の魏は、梁という場所を拠点にしていたのでこのように言います。
たとえていうなら、宮城県の知事を「仙台の知事」と言っているようなものです。
この対話が行われた時代はちょうど始皇帝が中国統一をする100年ほど前、紀元前320年ころのようです。
孟子、梁の恵王に見(まみ)ゆ。
王曰く、「叟(そう、と読み、先生という意味。ここでは孟子を指す)、千里を遠しとせずして来る。亦将(まさ)に以て吾が国を利するあらんか」と。
孟子対(こた)へて曰く、「王何ぞ必ずしも利を曰はん。亦仁義あるのみ。王は何を以て吾が国を利せんと曰ひ、大夫は何を以て吾が家を利せんと曰ひ、士庶人は何を以て吾が身を利せんと曰ひ、上下交(こもごも)利を征(と)れば、国危ふし(後略)。
この部分を説明すると以下の通りです。
孟子は、梁(魏)の恵王にお目にかかった。
そこで、王は孟子に言った、「先生(孟子)は千里の道も遠いと思わず、私のもとにやってきてくれた。そうであるなら、やはり我が国を利する考えをお持ちなのでしょうか」
孟子はそれに答えて言った、
「王様、どうして利益などと言う必要があるのですか。国を治めるには仁義の道があるだけです。
もし王様が『どのようにして我が国の利益を増やそうか』と思い、その下の身分の大夫が『どのようにしたら我が家の利益を増やそうか』と思い、さらにその下の士や庶民が『どのようにしたら我が身の利益を増やそうか』と思う。そのようにして、身分が高いものも低い者も、自己の利益を最優先するようになれば、国の秩序は乱れて、国家の危機となるでしょう」
4.「国益」観の相違と孟子の面白さ
この部分ですが、『孟子』全体に流れる「雰囲気」を表して余りあります。
先ほども述べたように、王としては国益に資する情報が欲しいので、孟子に対して「我が国を利するものがありますか」と尋ねるのはごく自然なことです。
おそらく、孟子も王たちが国益をもたらす情報を求めていると知っているはずですし、ほかの章も見る限り、国益の追求自体を否定したわけではないと思います。
ただし、王と孟子では、「国益」の求め方が大きく異なっています。
当時は戦国時代ですし、王としては「他国の財産(土地が一番わかりやすいでしょう)を奪って自国の利益を増やす」という考えがベースになっています。それは、魏以外の王でもそうです。
ところが、孟子としては、王がそうした姿勢ならば国の人民すべてが、「他人の地位や財産を奪う」ことを最優先にしてしまうと述べ、結局は国の統治が危うくなると説きます。
孟子の面白いところはここです。戦国時代まっただ中に生きていたのに、基本的に武力で国益を得ていくことを否定したからです(もっとも、易姓革命を認めていたり、完全に武力を排除しようとはしていないですが)。
戦国時代の王たちには、孟子の説は理想論と映ったでしょう。
しかし、この記事を読んでいるみなさんは、まさか戦争をしているはずはないでしょう。少しずつではありますが、時代のほうが孟子に追いついてきている、という部分もあります。だからこそ、現代でも孟子に学ぶ意義は大きいと私は思います。
それでは、どうやって国を富ませるのか。それが「仁」と「義」による政治というわけです。
その内容については、次章以降を読んでいくと明らかになってくるはずなので、今後述べていきます。