【翻訳】『大人のための、子供の話』―或いは、23分間の奇跡―

 原文は、こちらを用いました。

https://www.arvindguptatoys.com/arvindgupta/tcs.pdf

 作品が書かれたのが、1963年。日本で著作権法が改正されるより前に、著作権が切れているんじゃないかなあという目算で、訳してみることにしました。
 もしも怒られたらすぐに削除します。


作者前書き

 それは、ジェームズ・クラベルの日常の些細な出来事だった。学校から帰宅したばかりの幼い娘との会話――しかしそれが、静かで、破滅的な25分間に何が起こりうるのかという、このゾッとするような物語への着想となったのである。


本文

 教師は恐れていた。
 子供たちも恐れていた。
 ジョニーを除いて。
 ジョニーは教室のドアを睨み付けていた。腹の底から憎しみがわき上がっていた。それがジョニーに力を与えた。
 9時2分前のことだった。

 教師は呆然とドアから視線をそらし、教室の隅に掲げられている国旗に目をやった。しかし、女教師はこの日は国旗が目に入らなかった。彼女の恐れ――自分自身だけでなく、生徒たちへの恐れが、彼女の目を覆い隠していた。
 彼女には子供はいない。結婚もしたことがない。

 教師は、ぼんやりと、長年教えてきた大勢の子供達を思い浮かべた。数え切れないほどの顔が並んだ。しかし、誰ひとり見分けはつかなかった。大差のない同じ顔ばかりだった。いつも同じくらいの年齢。7歳。男の子か、女の子か。そして、その顔はいつも、彼女が与えようとする知識を、素直に教わろうとしていた。同じ顔が彼女を見つめていた。素直に教わるのを待つ、信頼に満ち溢れた顔。

 子供たちは、教師を見ながら、先生はどうしちゃったんだろう、と不思議に思い、ざわつき始めた。子供たちは、先生の白髪も、年老いた目も、皺だらけの顔も、くたびれた服も見ていなかった。見ていたのはただ、先生と、先生がこまねいている手だけだった。
 ジョニーはドアを睨むのをやめ、他の子供たち同様、教師を見た。ジョニーは、先生が何かを恐れていること、そして、その恐れのせいで子供たちが落ち着かなくなっていることしか理解できなかった。
 ジョニーは、みんな何も怖がらなくてもいいんだと叫びたかった。
 ジョニーの父親は言っていた。
「彼らが占領したからというだけで、恐怖でパニックにならなくてもいいんだ。恐れるな、ジョニー。恐れすぎたら、生きていても死んでいるのと同じになってしまうぞ」
 足音が近づいてきて、止まった。
 ドアが開いた。

 子供たちは息を呑んだ。
 子供たちは、鬼や巨人や野獣や魔女や怪物――電気が消され、パパとママにおやすみのキスをされた後、怖くて布団に頭まで潜ってもすぐに目が覚めてしまい、学校に行く時間になるまで眠れない、そんなときに考えてしまうような、宇宙の怪物――そんなものがやってくるのを想像していた。
 しかし、怪物の代わりにドアの入り口に立っていたのは、美しく、とても若い女性だった。彼女の服は綺麗で清潔で、全身、靴までも、オリーブグリーン色で統一されていた。そして、最も重要なのは、彼女が愛くるしい笑顔を浮かべていたこと、そして、流暢な言葉を話したことだった。子供たちはこれをとても不思議に思った。彼らは海の向こうの外国からやってきた外国人だったからだ。子供たちは皆、彼らについてすでに聞かされていた。

「皆さん、おはようございます。私があなたたちの、新しい先生です」
 その新任の教師は言った。
 それから彼女はドアをそっと閉め、教卓へと歩いた。最前列の子供たちは、清潔で、新鮮な、若い香りを嗅いだ。
 そして新任教師は、最前列の端に座っていたサンドラの横を通り過ぎるとき、こう言った。「おはよう、サンドラ」
 サンドラは顔を真っ赤にして、驚き、不思議がった。他の子供たちも同様である。
 ――この人、どうして私の名前がわかったんだろう?
 サンドラはドキリとし、胸が重く締め付けられるようだった。

 教師は震えながら立ち上がった。
「あ、え、あ、おはようございます」
 教師の言葉は震えていた。彼女も、乗り越えようとしていた。ショックを。そして、吐き気を。

「こんにちは、ウォーデン先生」
 新任教師は言った。
「只今をもって、私があなたのクラスを引き継ぎます。あなたは校長室へ行ってください」
「なぜ? 私はどうなるの? 私の子供たちはどうなるの?」
 ウォーデンから言葉が溢れ、一筋の髪の毛が彼女の目元に落ちた。ウォーデンの言葉は途切れ、その様子に子供たちは胸を痛めた。一人か二人は泣きそうになっていた。

「校長はただ、あなたと話をしたいだけです、ウォーデン先生」
 新任教師は穏やかに言った。
「本当に、もっとご自分を大切になさってください。どうか落ち着いて」

 ウォーデンは、新任教師の笑顔を見たが、その憐憫に心が動くことはなかった。ウォーデンは膝の震えをなんとか止めようとした。
「さようなら、皆さん」
 ウォーデンは言った。子供たちの返事はなかった。子供たちはウォーデンの声音と、その顔を濡らした涙に怯えていた。そして、ウォーデンが大声で泣き出したので、数人の子供たち、そしてサンドラは、ウォーデンのもとに駆けだした。

 新任教師は、ウォーデンを教室から出すと素早くドアを閉め、サンドラを抱きかかえるようにして教室に戻ってきた。
「皆さん、皆さん。泣かなくてもいいのよ」
 新任教師は言った。
「それじゃあ、みんなに歌を歌ってあげようと思います。聴いてね」

 そして、新任教師が、天使のように優雅に床に座り、サンドラを抱きかかえたまま、歌い始めたので、子供たちは泣きやんだ。ウォーデン先生は一度も、只の一度も、子供たちに歌ってくれることはなかったし、いちばん座りやすい場所である床に座ることなど絶対になかったことを、クラス全員が覚えていたからである。
 子供たちは、新任教師の楽しそうな声と、異国の舌が奏でる異国の言葉に、うっとりと聞き入った。それは、その歌が生まれた草原の波のように、舞い上がったり沈んだりした。その歌は童謡で、子供たちを落ち着かせた。歌の一番を歌い終わった後、新任教師はこの歌の物語を語って聞かせた。

 それは、二人の子供の話だった。二人の子供は、大草原で道に迷ってふたりぼっちになってしまい、怖がっていた。しかし、二人は、立派な馬に乗った、ひとりの立派な男に出会った。
 男は二人にこう言った。
 お前たちは何も恐れる必要はない、お前たちはただ、星を見ていればいい、そうすれば星が、お前たちの家がどこにあるかを教えてくれるだろう――。

「一旦正しい方向がわかったら、もう何にも恐れる必要はないのよ。恐れは内側から、あなたたちのお腹の中からやってくるものなの」
 新任教師は晴れやかに言った。
「だから、あなたたちのような、強くいい子たちは、お腹のなかに、恐れなんかじゃなく、食べ物を入れなくちゃいけません」

 子供たちは、このことを考え、そして、ほんとにその通りだなと思った。新任教師はもう一度歌い、そしてすぐに子供たちは皆、もう一度楽しく穏やかな気持ちになった。
 ジョニーを除いて。
 ジョニーは、新任教師が、恐れについて正しいことを教えていると解っていてもなお、新任教師を憎んでいた。

「それでは」
 新任教師は言った。
「何をしましょうか。そうね、ひとつ、ゲームをしましょう。私が皆さんの名前を当ててみます」

 子供たちは、目を見開いて、席を移動した。ウォーデン先生は決してそんなことはしなかったし、子供の名前をしょっちゅう呼び間違えた。
 ――新しい先生だって、全員の名前を知ってるわけがない! 絶対無理だよ!
 そう思った。そこで、子供たちは、わくわくしながら待った。その間、新任教師はサンドラに注意を向けていた。
 ああ、そうだ、どういうわけか新しい先生はサンドラの名前をもう知っていたけれど、でも、どうすれば全員の名前までわかるっていうんだよ?
 子供たちは、新しい先生が失敗するのを、喜び勇んで待ち構えていた。

 しかし、子供たちの目論見は外れた。新任教師は、全員の名前を覚えていたのだ! 
 ジョニーは手を挙げた。
「どうして僕たちの名前がわかるんですか? つまり、その、点呼も何もしていないのに、どうして、僕たちの名前を知ってるんですか?」

「簡単なことよ、ジョニー」
 新任教師は言った。
「あなたたちは、みんな、毎日同じ席に座っていますね。ひとつの机に、ひとりの生徒。だから、私は名簿であなたたちの名前を覚えました。覚えるのに丸三日かかりましたよ。先生は、いい先生になるためには、とっても頑張って働かなくちゃいけません。だから、私は最初の日からあなたたちひとりひとりを知るために、三日間頑張ったんです。先生が頑張って働くことはとっても大切なことよ。そうでしょ?」

 ジョニーは、顔をしかめ、半分頷いて座った。そして、どうして質問する前に自分で気づかなかったんだろうと思いながら、新しい先生が最初の日に全員のことを知るためだけに三日間も働いていたことに驚いた。しかし、それでもまだ、ジョニーは新任の教師を憎んでいた。

「ジョニー。教えてくれる? どんなふうに学校が始まるの? つまり、授業を始めるときに、あなたたちがまず何をするのか、ってことよ」
 ジョニーは渋々立ち上がった。
「まず、忠誠を誓って、それから、歌を歌います」
「そうだけど、それは点呼の後よ。点呼を忘れてる」サンドラが言った。
「そうよ。ジョニーは点呼を忘れたわよ」マリーが言った。
「最初に、点呼をとります」ジョニーはそう言って、それから着席した。

 新任教師は微笑んだ。
「わかりました。でもね、点呼は、本当は必要ないんです。私はあなたたちの名前を知っているし、あなたたちが全員ここにいることも知っています。誰がここにいて、誰がここにいないのか、わからないなら、そんなの怠け者の先生だと思わない? 先生ならば、わかって当然です。だから、私が担任の間は、点呼はしなくていいわ。それじゃあ、宣誓をしましょう。点呼の次じゃなかったかしら?」

 子供たちは皆、素直に立ち上がり、胸に手を当てた。新任教師も同じようにした。そして、子供たちは声を揃えて唱えた。
「私は国旗に忠誠を誓い――」
「ちょっと待って」
 新任教師が言った。
「誓いとは、どういう意味なのでしょう?」

 子供たちは、ぽかんと口を開けて立っていた。ウォーデン先生は宣誓を遮ることは一度もなかった。子供たちは、立ったまま新任教師を見つめていた。無言で、静かに。

「忠誠とは、どういう意味でしょう」
 新任教師は、胸に手を当てたまま、そう質問した。

 子供たちは黙って立っていた。それから、マリーが手を挙げた。
「ええと、誓いは、そのぅ、何かをもっとよくしたいときにするもの、です。親指をしゃぶったら歯並びが悪くなって、矯正器具をつけなきゃいけなくなって、歯医者さんに行かなくちゃいけなくなって、痛い思いをするから、親指をしゃぶらないようにする、とか誓います」

「とてもいい答えでした、マリー。素晴らしい。誓うというのは、約束するという意味ですね。では、忠誠は?」

 マリーは力なく肩をすくめ、親友のヒルダを見た。ヒルダもマリーを見、そして教師を見て、やはり力なく肩をすくめた。

 新任教師はしばらく待っていた。教室に痛ましい沈黙が漂った。
 新任教師は言った。
「自分が何を言っているのかがわからないのなら、宣誓のような長い文章を言わなければならないのは、大きな間違いだと思います」

 なので子供たちはそのまま着席し、続きを待った。
「他の先生は、どういう意味なのか教えましたか?」

 長い沈黙の後、ダニーが手を挙げた。
「先生は何も教えてないです、先生」
「僕がここの前に通っていた別の学校の先生は」
 ジョーンが慌てて発言した。
「ええと、どんな意味なのかを少し教えてくれました。たしか、休み時間の直前に何か言ってて、それから、チャイムが鳴って、その後、書き取りの授業があったんです」
 ダニーは言った。
「ウォーデン先生はね、全然教えませんでした。覚えなさい、言いなさいって、ただ、それだけ。僕たちの本当の先生は、何にも教えてくれなかった」

 子供たちは全員頷いた。そして、再び待った。

「あなたたちの先生は、一度も説明してくれなかったの?」
 子供たちは全員、首を振って肯定した。

 新任教師は言った。
「それは、あまりいいことではないですね。説明しないなんて。私には、いつでも、何でも訊いていいんですよ。それが、本当の先生がしなくちゃいけない仕事なんです。でも、みんなは、お父さんやお母さんには訊かなかったの?」

 マリーが言った。
「『誓います』がどういう意味かじゃなくて、ただ、覚えなきゃいけなかったんです。きちんと言えるようになったら、パパは、ちゃんと言えたら5セントくれました」
 ダニーも言った。
「そうなんだよ。マリーは全部ちゃんと言えるんならいいよな。僕は5セントなんてもらったことないけど」

「ふたりは、お互いに意味を尋ねてみた?」

「私は、ダニーに一度だけ訊いてみたけど、ダニーも知らなかったし、クラスの誰も知りませんでした。宣誓は、大人の話だし、大人の話はそういう言葉を使うんだって思ってました。それは、そのまま覚えなきゃいけないんです」

 ヒルダが言った。
「私が通っていた別の学校でも、何も教えてもらえませんでした。先生たちは覚えなさいってだけ言いました。私たちに、これはどんな意味でしょうなんて訊きませんでした。毎日授業が始まる前に言わなきゃいけなかっただけです」
「正しく言えるようになるまで、何週間もかかりました」マリーは言った。

 そこで、新任教師は、忠誠の意味を説明●●した。
「・・・つまり、国旗を支持すると約束したり誓ったりしていて、それは自分自身よりもずっと大切だと言っているということなのです。国旗が、生身の生きた人間よりもずっと大切だなんて、どうして言えるんでしょうね?」

 ジョニーが沈黙を破った。
「でも、その続きに、ええと、『国旗が象徴する共和国に』と書いてあります。だからこれは、つまり・・・」
 ジョニーは言葉を探していたが、見つからなかった。
「つまり、いい感じの記号のようなもの、じゃないんですか?」

「そうです。正確に言うなら、シンボルですね」
 新任教師は眉をひそめた。
「でもね、私たちが国を愛していることを想起させるための記号なんて、要らないでしょう? あなたたちはみんな、いい子です。想起させるための記号が必要ですか?」

「想起させるって、どういう意味ですか?」
 マリーが質問した。
「思い出させるという意味です。あなたたちがみんないい子だということを思い出させるという意味ですね」

 子供たちは、言われたことを考え、そして、納得したように頷いた。
 ジョニーは手を挙げた。
「これは、僕らの旗だ」
 ジョニーは力を込めて言った。
「僕たちは、いつも、誓いをたてているんだ」

「そうですね」
 新任教師は言った。
「とても素敵な旗ですね」
 新任教師は国旗をしばらく眺め、そして言った。
「この旗の欠片を貰えたらいいのになあ。とっても大切な旗なんだから、切り分けたものをみんなでひとつずつ持っておくべきだと思うの。みんなそう思わない?」

 マリーが言った。
「家には小さな国旗があります。明日持ってこられると思います」
「ありがとう、マリー。でも、私が欲しくなったのは、この教室の旗の欠片なの。だって、これは私たちのクラスの特別な旗だから」

 ダニーが言った。
「ハサミがあれば、小さく切り分けられるよな」
「ハサミも家にあるわ」マリーが言った。
「ウォーデン先生の机にいくつかあるよ」ブライアンも言った。

 新任教師がハサミを見つけ、それから子供たちは、誰が国旗を切り分けるかを決めなければならなかった。新任教師は、今日はマリーの誕生日だからマリーが切り分けるべきだと言った(どうして知ってるの? とマリーは内心驚いた)。
 それから、子供たちは、みんながひとつずつ国旗の欠片を持ったらとっても素敵だと決めた。国旗は特別なもの。だから、みんなが欠片をひとつずつ持ったら、それはただ眺めているよりずっといいこと。いつでもみんなのポケットに入れておけるから。子供たちはそう思った。

 そうして、国旗は子供たちの手で切り刻まれた。子供たちは、その欠片をひとつずつ持っていることがとても誇らしかった。しかし今、旗竿はむき出しで、不自然なものになった。

 そして、何の役にも立たないものになってしまった。

 子供たちは、旗竿をどうすればいいか、考えた。そして、最も支持を集めた案は、窓の外に放り出してしまうことだった。新任教師が窓を開け、そして、旗竿を校庭に放り投げていいと言ったので、子供たちは興奮の眼差しだった。子供たちは、旗竿が地面で跳ねた後横たわったのを見て、興奮して歓声をあげた。
 子供たちは、この、型破りな新任教師を、好きになり始めていた。

 全員が席に戻ったとき、新任教師は言った。
「では、授業を始める前に、きっと皆さん、私に訊きたいことがたくさんあると思います。何でも訊いてください。私も皆さんに質問するんだから、皆さんも私に質問できなければ不公平でしょう?」

 沈黙の後、マリーが言った。
「子供は、先生の話を黙って聞かなきゃいけないんです」
「みんな、いつでも何でも訊いていいんですよ。それが公平なやり方です。新しいやり方よ。やってみて」

 ダニーが質問した。
「名前は何ですか?」
 新任教師は自分の名前を教えた。とても可愛らしい響きだった。

 マリーが手を挙げた。
「どうしてそんな服を着てるんですか? 何だか、看護師さんの制服みたい」
「先生たちは同じ服を着るべきだと思います。そしたら、誰が先生なのかがすぐにわかるでしょ。素敵で、軽くて、アイロンがけもしやすいの。マリーはこの色、好き?」
「うん。好き」マリーは言った。「先生の目も、緑色だし」

「ねえみんな、もし、気に入ったんなら、とっても特別なサプライズがあるの。こういう制服を、みんなも着ることができるんです。そしたら、毎日学校に何を着ていけばいいか悩む必要はなくなりますよ。みんな同じ服を着るんだもの」

 子供たちは、席に座ったまま、興奮して身をよじった。
 マリーが言った
「でも、高いんでしょう。ママはお金を使いたがらないと思う。食べ物とか買わなきゃいけないし、食べ物は高いから――えっと、とってもお金がかかるんです」
「制服は、みんなにあげます。プレゼントです。お金の心配は要りません」

 ジョニーは言った。
「僕はそんな服、着たくない」

「プレゼントは、受け取らなくてもいいのよ、ジョニー。他のみんなが新しい服を着たいからといって、あなたもそうしなければならないわけではないの」
 新任教師は言った。

 ジョニーは、椅子に深く腰を下ろした。
 ――僕は絶対にあいつらの服なんか着ない。
 ジョニーは自分に言い聞かせた。ダニーやトムやフレッドと、違う恰好でも、構うもんか。

 それから、マリーが訊いた。
「先生は、どうして泣いてたんですか?」
「多分、お歳で疲れていて、お休みが必要だっただけでしょう。ウォーデン先生は、長いお休みをとることになると思います」
 新任教師は、子供たちに微笑みかけた。
「先生たちは若くなければいけないと思います。私は、19歳です」

「戦争はもう終わったんですか?」ダニーが質問した。
「ええ、そうよ、ダニー。素敵よね? もうすぐお父さんがおうちに帰ってきますよ」
「私たちは、戦争に勝ったんですか? 負けたんですか?」マリーが質問した。
「私たちが――つまり、あなたと私と私たちみんなが、勝ちました」
「わあ!」
 子供たちは嬉しそうに座り直した。

 そのとき、ジョニーの憎しみが爆発した。
「僕のお父さんはどこだよ! おまえたちは僕のお父さんに何したんだ! お父さんは、どこにいるんだよ!」

 新任教師は立ち上がって、教室のいちばん後ろまで歩いていった。子供たちは、それを目で追った。ジョニーは、膝を震わせて立っていた。新任教師はジョニーの席でしゃがんで、ジョニーの肩に手を置いた。ジョニーの肩も――膝と同じように震えていた。

「お父さんは、学校に通っています。大人でも、子供と同じように学校に通わなければいけない人がいるんです」
「だけど、あいつらはお父さんを無理矢理連れて行ったんだ。お父さんは行きたくなんかなかったのに」
 ジョニーは、涙がこぼれそうになるのを感じ、懸命にこらえた。

 新任教師はジョニーに優しく触れた。教師から若くて清潔な香りが漂った。それは、ジョニーの家の、酸っぱく、小汚い匂いとは全く違うものだった。

「お父さんも、あなたと何にも違いはありません。あなたも時々、学校に行きたくないなあって思うことがあるでしょう? 大人も同じです。子供と全く同じです。お父さんのところに、行ってみますか? お父さんは、二三日したら休日ですよ」
「お母さんが、お父さんはもう二度と帰ってこないって言ってた!」
 ジョニーは猜疑心に満ちた目で、新任教師を見つめた。「休日があるっていうのかよ」

 新任教師は笑った。
「お母さんは勘違いしてるのよ、ジョニー。だって、学校に通っている人には、みんな、休日があるじゃない。なら、そうするのが公平でしょ?」

 子供たちは、そわそわザワザワしながら、このやりとりを見ていた。
 ジョニーが言った。
「お父さんに、会えるの?」

「勿論よ。お父さんはね、少しだけ学校に戻らなくちゃいけないだけなの。お父さんは少し変な考えを持ってて、それを他の大人にも信じてもらいたがっていたのよ。他の人に、間違った考えを信じてもらおうとするのは、よくないわよね?」

「うーん、うん、それは、よくないと思う。でも、お父さんは悪いことなんか考えてない」

「そうよね、ジョニー。あのね、私は、悪い考えじゃなくて、間違った考えって言ったの。あなたの言ったことは何も間違ってないわ。でも、誰かが間違えていたら、それが大人でも、正しい考えを教えるのが、正しいことじゃない?」

「えーっと・・・うん」
 ジョニーは言った。
「でも、じゃあ、お父さんは、どんな間違った考えを持ってたんだよ?」

「一部の大人だけの、古臭い考え方です。このことはこれから授業で学ぶことにしましょう。そうすれば私たちは知識を共有できるし、私もみんなから学べて、みんなも私から学べますね。そうしましょう?」

「いいけど」
 ジョニーは新任教師を見つめた。困惑の表情だった。
「お父さんは、間違った考えなんか、絶対持つわけない。お父さんは絶対・・・そうじゃないの?」

「そうね、もしかしたらだけど、時々、お父さんに、とても大切なことを教わりたいって思ったときに、もしかしたら、お父さんは『後でな』とか、『今は忙しいんだ』とか『その話は明日にしよう』とか言ったりしなかったかしら。大切なときに時間を割いてあげないのは、よくない考えかたよね。そうじゃない?」

「それはそうだけど、大人はみんなそうするよ」
「ママもいつもそう言うわ」マリーも言った。
 そして、他の子供たちも頷きながら、パパとママも学校に戻って、悪い考えを忘れてくれないかなあと思った。

「席について、ジョニー。私たちはこれから、たくさんの善いことを学んでいきます。だから、大人の悪い考えのことは気にしなくていいんです。ああそうだわ」
 新任教師は教卓に再び座りながら、満面の笑みで言った。
「素敵なサプライズがあるの。皆さんは、私たちと一緒に、お泊まり会をします。ベッドと、たくさんの食べ物がある、とっても素敵なお部屋で、物語を話したりして、とっても素敵な時間を過ごすんです」

「やったあ!」子供たちは言った。
「8時まで起きててもいいですか?」マリーが息を弾ませて訊ねた。
「そうね、今日は初日だし、みんな8時30分まで起きていましょうか。ただし、その後はちゃんと寝るって約束するならね」
 子供たちは全員約束した。とても喜んでいた。
 ジェニーが言った。
「でも、その前に、お祈りをしなくちゃ。寝る前に」

 新任教師はジェニーに微笑みかけた。
「そうですね。もしかしたら、今、お祈りをしてみてもいいかもしれませんね。他の学校にも、そういう習慣のところはあります」
 新任教師が少し考えた。子供たちの顔が、新任教師を見つめていた。新任教師は言った。
「お祈りをしましょう。ただし、とってもいいことをお祈りしましょう。皆さんは、何がいいと思いますか?」

「パパとママに祝福を!」ダニーがすかさず言った。
「それはいい考えね、ダニー。私にも、ひとつ考えがあります。キャンディをお願いしようと思うんです。どう? いい考えでしょう?」
 子供たちは皆、嬉しそうに頷いた。

 新任教師に倣って、子供たちは皆、目を閉じ、手を合わせて、神様、キャンディをお与え下さいとお祈りした。

 新任教師は目を開け、がっかりしたように見回した。
「キャンディはどこにあるのかしら? 神様は全てを見ていて、どこにでもいて、祈ればきっと応えてくれる。これは、本当なのでしょうか?」
「僕も、子犬をくださいって何度もお祈りしたけど、全然叶わないよ」ダニーが言った。

「もしかしたら、祈り方が足りなかったのかもしれませんね。教会みたいに、跪かないといけないのかも」
 新任教師が跪いたので、子供たちもみな跪き、もっともっと真剣に祈った。しかし、それでもまだ、キャンディはなかった。

 新任教師ががっかりしたので、子供たちもとてもがっかりした。すると、新任教師が言った。
「もしかしたら、間違った名前を唱えていたのかもしれません」
 新任教師は少し考えてから言った。
「『神様』という代わりに、『指導者様』と言ってみましょう。指導者様に、キャンディをくださいとお祈りしましょう。真剣にお祈りしましょうね。いいと言うまで、目を開けてはいけませんよ」

 そこで、子供たちはしっかりと目を閉じ、真剣に祈り始めた。すると、子供たちが祈っている間、教師はポケットからキャンディを取り出し、子供たちの机に一個ずつ、音をたてないように置いていった。しかし、教師は気づいていなかった。ただ一人、ジョニーだけが、薄く目を開けて、それを見ていたことに。

 教師はそうっと教卓に戻り、お祈りが終わった。子供たちは目を開け、そして、キャンディを見つけた。子供たちは大喜びだった。

「私、これからはいつも指導者様に祈る!」マリーは興奮しきっていた。
「私も!」ヒルダも言った。「先生、指導者様のキャンディ、食べていいですか?」
「わあ、もっと祈ろうよ。お願いします。お願いします。お願いします」
「お祈りしたから、指導者様が私たちのお祈りに応えてくれたんだよね?」

「僕は見たぞ! 先生が机にキャンディを置いてたんだ!」
 ジョニーが叫んだ。
「見てたんだぞ。先生が――僕は目をつぶらなかった。それで、見てたんだ。先生がキャンディをポケットの中に持ってたんだろ! 祈りが叶ったからキャンディが現れたんじゃない! 先生が机に置いたんじゃないかよ!」

 子供たちは皆、びっくりしてジョニーを見つめ、それから新任教師を見つめた。新任教師は生徒たちの前に立ち、ジョニーを振り返り、そして子供たちを見回した。

「その通りです、ジョニー。あなたの言う通りです。あなたは、とっても、とっても、賢いのね。ねえ皆さん。私はあなたたちの机にキャンディを置きました。いい? よく聞いて。願いごとをしても、固く目を閉じてお祈りをしても、何の意味もありません。その相手が神様でも、他のものでも、たとえ指導者様であってもです。これらは皆さんに何も与えてはくれません。与えてくれるのは『他の人間』だけです」
 新任教師はダニーを見た。
「神様は、欲しかった子犬を与えてはくれませんでしたね。でも、もしあなたが懸命に努力するのなら、私があげましょう。私や、私のような人間だけが、与えてあげられます。神様にも、どんな物にも、どんな者にも、祈ることは、時間の無駄です」

「じゃあ、お祈りはしないんですか? しないほうがいいんですか?」
 子供たちは困惑して新任教師を見つめた。

「皆さんがしたいなら、していいんです。お父さんとお母さんが、しなさいって言うのならね。でも、みんなも私も、何の意味もないってこと、もう知っていますね。これは、私たちだけの秘密ですよ」

「お父さんは、親に隠し事をするのはよくないって言います」
「でも、お父さんはお母さんと二人で、あなたに内緒の話をしてるでしょう?」
 子供たちは皆、頷いた。
「じゃあ、私たちが、お父さんとお母さんに内緒にするのも、悪いことじゃないと思わない?」
「私、内緒って大好き。ヒルダと私は、二人だけの秘密をいっぱい持ってるんです」マリーは言った。

 新任教師は言った。
「みんなで一緒に、素敵な秘密をたくさん作りましょうね。キャンディは、食べたいなら食べていいですよ。ジョニーはものすごく賢かったから、監督になってもらうのがいいと思います。お泊まり会は一週間くらいよ。どう?」

 子供たちは嬉しそうに頷き、キャンディを口に放り込んで、元気よく噛んだ。ジョニーはとても誇らしい気持ちで、キャンディを噛んでいた。
 ジョニーは、新しい先生のことが大好きだと強く思った。先生は本当のことを話してくれたからだ。恐れについて正しいことを教えてくれたからだ。神様について正しいことを教えてくれたからだ。ジョニーは神様に何度も何度も祈ったけれど、何一つ叶えられなかったし、スケート靴をもらえたときも、父親が息子の祈りを聞いていて、誕生日に枕元にそっと置き、何も知らなかったフリをしていたことを、ジョニーは知っていた。
 ――どうしてお父さんは何も聞いてくれないのか、どうしてお父さんはいつも居ないのか、僕はずっとわからなかった。
 ジョニーは満足そうに居住まいを正した。そして、心に決めた。
 頑張って勉強して、言うことをよく聞いて、お父さんみたいに間違った考えを持たないようにしよう、と。

 教師は、子供たちがキャンディを食べ終わるのを待っていた。これが、この教師が訓練を受け習得した方法だった。この方法が子供たちをよりよく教育でき、善良な市民に成長させることができるのを、教師はよく知っていた。
 教師は窓の外を見た。太陽の光が大地に降り注いでいた。
 豊かで、広大な土地だった。母なる大地。
 しかし、教師を育んだのは、太陽ではない。
 全ての子供、全ての男、全ての女が、同じ価値観をもち、同じ行動をするべく、学校を通じて国全体で教育される、思想だった。
 年齢に応じて、必要に応じて。
 教師は、腕時計に目をやった・・・
 9時23分だった。


作者後書き

 ある秋。
 娘はもうじき6歳、初めて学校に通うことになった。その初日――娘は誇らしげにこう言った。
「パパ、聞いて! 『私は、忠誠を誓います――』」
 娘の小さな手は胸の上にあり、娘はたどたどしく言い終えると、私を見上げた。
「ほら!」
 娘は息を切らしてそう言うと、手を私の前に差し出した。
「それで、何だい?」
「パパ、10セントくれるんでしょ」
「うん? どうして?」
「忠誠の誓い。ちゃんと言えてなかった? 私は、言えたと思うんだけどな」
「ああ。うん、そうだね。ちゃんと言えてたんじゃないかな」当時私は市民ではなかった。
「でも、どうして10セント?」
「先生がね、言ったの。皆さん、忠誠の誓いを覚えて言えるようになりましょう、そしたら、お父さんかお母さんが10セントくれますよって。先生がそう言ったんだよ」
 私は娘に10セントを渡した。
「ありがと」娘は満足そうだった。「もう一回言えたら、あと10セントくれる?」
「1回ごとに、10セントだね。ところで、誓いってどういう意味かな?」
「えっ?」
「誓いって? 忠誠は?」
 娘は困ってしまったようだった。
「忠誠の誓いは、忠誠の誓いだよ」
「先生は、君が覚えたことがどんな意味なのか、説明しなかったのかい? そんなに長い言葉なのに、ひとつも?」
 娘の眉間の皺が深くなった。
「忠誠の誓いを覚えて、言えたら、10セントもらえるの! 先生がそう言ったんだもん」
 それから、娘は嬉しそうに付け加えた。
「私はちゃんと正しく言えたよ。ジョニーより上手だったんだから」
 それからしばらくの間、私はあらゆる年齢層の、様々な人たちに、「忠誠の誓いを知っていますか」と訊ねてみた。しかし、私が言い終わる前に、皆すぐに真似して唱え、その言葉は大抵同じようにたどたどしいものだった。ほぼ例外なく、誰も先生から――或いは誰からも――その言葉の意味を説明されたことはないのだと判った。皆、ただ覚えて唱えなければならなかっただけなのだ。

 あの日、『大人のための、子供の話』は生まれた。
 この時、私はよくわかったのだ。子供の心は――いや、あらゆる人の心も――抑圧された状況では、いかに脆弱で無防備なものになり果ててしまうのかを。
 いつもの執筆では、書いては消し、書いては消しを繰り返すのが常だが、この物語は、あっという間に書き上がった。殆ど、降りてきたようなものだ。推敲で変えたのはわずか3語だ。私は大いに満足している。この物語は、私に命題を投げかけ続けてくれるのだから・・・。
 こんな命題。
 理解を伴わない『忠誠の誓い』が、何の役に立つのか?
 思考を誘導し、違う思想を植え付けることが、なぜこんなに簡単なのか?
 自由とは何か?
 そして、それを説明するのは、なぜこんなにも難しいのか。
『子供の話』は、答えの出せない、あらゆる命題を、私に投げかけ続けるのだ。
 きっと、あなたは、答えを出せるのだろう。ならば、あなたの子供はきっと・・・。

ジェームズ・クラベル


個人的な雑感

 この物語は、日本では、1981年に刊行された、青島幸男による翻訳がよく知られています。『The Children’s Story…(But not just for children)』という原題の物語に、『23分間の奇跡』という邦題をつけるセンスの素晴らしさには、脱帽するしかありません。流石は高田文夫をして『本物のド天才』と言わしめ、立川談志が嫉妬した才能ですね。政治家としてはいささか精彩を欠きましたが。
 世にも奇妙な物語でドラマ化もされました。新任教師役の賀来千香子の、非の打ち所のない完璧な演技は、必見です。あんな巧い役者さんだったなんて知らなかった。

 この物語の舞台は、自由を国是とするアメリカがモデルとなっています。共産主義国による占領が始まった直後の世界が描かれます。終盤の「年齢に応じて、必要に応じて」というフレーズは、マルクスの「能力に応じて、必要に応じて」という一節が元でしょう。
 いわゆる東西陣営間の経済格差が明確になって久しい現在、もしかしたら、本作品の世界観を、少々非現実的だと感じる人もいるかもしれません。
 しかし、第二次大戦前夜、世界恐慌到来で、列強が軒並み喘いでいたのを尻目に、建国ほやほやのソビエト連邦が一人勝ち、かつてはそんな時代もあったようです。
 この作品が書かれたのは冷戦真っ只中の1963年。かつての時代の印象が、まだ色濃く残っていたのかもしれません。清潔な理想と繁栄を実現した共産主義に、自由が敗北する―そんな恐怖に西側が怯えていた時代も、かつては確かにあったのだと思います。

 原文を読むと、子供たちが少しずつ思考誘導されていく様子が、より鮮やかに伝わってくるように感じます。
 例えば、「子供たちは、自分はこれこれこうだと思った」というような意味の文章で、その主語は「I」または「We」が相応しそうに思えるところであえて「You」が使われていることがあります。「教師の発言をそのまま丸呑みしている」ということが伝わる、巧い表現。青島幸男はこのあたりのニュアンスをどう訳したんだろう。あんな天才の訳文、自分で訳す前に読んだら、絶対引きずられることがわかりきっていたのもあって、恥ずかしながら未読です。いつか絶対読む。

 作者自身も後書きで言っていたように、物語のテーマに関しては、いろんな方向に思考が生じまくってしまうので、ここではあえて何も触れないことにします。
 読む人ごとに、いろんな感想が生まれると思います。
 私の拙訳が、この作品の魅力を伝える一助となれば、幸いです。

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