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「誰かのせい」であると落ち着く人へ~無責思考のすすめ~


私自身は、学生時代から働き始めてしばらくの間、20代後半までは何かと他人のせいにしていたような気がします。

仕事がうまくいかないのはちゃんと教えてくれない先輩のせい
友人たちとの飲み会で気が乗らないのは店を選んだ幹事のせい
大学院を中退して公務員にしかなれなかったのは家族のせい

今思えばサイテーでした。

でも、そんな私も職場でそれなりにザラザラした感情を味わい、ヌルッとしたやり取りを経験しながら、世の中がそう単純じゃなくて誰かのせいにしても前に進めないことを学びました。
そして何より『7つの習慣』(スティーブン・R. コヴィー著、キングベアー出版)を読んで、「他者は変えられない、まず変えられるのは自分」「影響力を及ぼせる範囲に集中し、及ばない範囲は気にしない」といった考え方を心に纏うことができたのが大きかった気がします(他にもたくさんの本に支えられています)。


結果的に、私は他責思考から自責思考へと変わりました。

【他責思考(たせきしこう)】自分にとって望ましくない出来事、結果などについて、他人のせいであると考えること。
【自責思考(じせきしこう)】自分にとって望ましくない出来事、結果などについて、自分のせいであると考えること。


この変化はとても大きいものです。

たとえ他部署との調整で仕事が思うように進まないとしても、他責思考に陥って相手のせいにしていると、相手が変わるまで仕事は進みません
でも、自責思考を纏って「私の何が足りなかったのか」と考えることができれば、改善し、改めて相手と向き合うことで前に進めることがあります。

自分が望む部署に異動できず幸せに働けないことを人事課のせいにしていると、結果的に人事課が自分の幸せを握っていることになってしまいます。
でも、自責思考を纏って「どんな部署でも自分次第」と考えることができれば、そこで何ができるのかを考え、行動することができます

仕事はもちろん、友人や家族との関係でも同じです。

もちろん、どうしようもないくらい悔しくて、頭にきて、大きな感情の波に押し流されそうになることはあります。聖人君子になったわけではありませんから。
それでも嵐が静まった後には、自責思考のおかげで自分の両の足で大地をしっかり掴んで立っていることができます。


他責思考のままなら、きっと自分の幸せが他人に影響されてしまうばかりで、自分の手で人生のハンドルを握ることができなかった気がします。


だから、一旦、私自身が他責思考から自責思考へと変化できたことは感謝し、本当によかったなと振り返っています。


ただ、最近になって、自責思考から少し考え方が変化しつつあります。

それはあえて言えば「無責思考」。


私が見ている範囲では、他責思考から一歩進んだステージとして自責思考が位置づけられることが多い気がします。

その一方で、自責思考が過ぎると、「自分に責任がある」「自分が責められるべき」という気持ちが強くなりすぎて、いつしか「自罰思考」とでも呼ぶべき状態のひとも見受けられます。

「私が悪いんだ」
「私があんなことを言ったからだ」

そんなふうに自分を責めてしまい、自分を精神的に罰する気持ちになってしまうひとがいるとしたら、それは本来あるべき自責思考の使い方ではないでしょうし、もしかしたらそもそも自責思考が馴染まないのかもしれません。

自責の「責」とは、「責任がある」「責任をとる」といった意味です。

ここに自責思考の限界がある気がします。


私は、そもそも「責任」という言葉に限界があると考えています。

何かのミスや不祥事があったときに、責任をとって辞めるひとがいたり、誰かが減給などのペナルティを引き受けたりします。

でも、これで責任をとったというなら、「責任をとる」って見かけだけで大した行為ではないと思うんです。
だって、辞めても減給されても、そのミスや不祥事による影響はなかったことにはできません。私には「はいはい、私が悪うござました」というミソギ・パフォーマンスに見えてしまうのです。

禊が悪いとは言いません。
でも、禊では治癒も回復もできません。


じゃあ、どうしたら十分な形で「責任をとる」という行為を完遂できるのでしょうか?

私の結論は「責任なんてとれない」です。

時間は巻き戻せない。
なかったようには元に戻せない。

だからちゃんと責任をとるなんて、実は誰にもできないんです。


これは原因の追求という面からも言えます。たったひとりの人間、たった一つの行為だけにその原因が収れんすることはありません。あらゆる出来事は様々な因果の糸で結ばれています
「そのボタンを押したあいつが原因だ」と断言しても、それはつまり「あいつを生んだのが原因だ」とも言えますし、「ボタンの仕組みを導入したことが原因だ」とも言えてしまいます。

だから「無責」。「責任をとる」「責任がある」なんていう言葉は幻想で、責任なんて言う言葉に意味は無いし、誰も責任なんてとれない。


私は、一旦は受け入れてとても頼りにしてきたのですが、「責」という言葉を自分に向けて使う「自責思考」という考え方が、だんだん自分には馴染まなくなるのを感じてきました。

その代わりに取り入れた無責思考では、他の誰かのせいだとも考えないけれど、自分のせいだとも考えません。


考えるのは「何ができたのか/できるのか」。


「あのとき私に何ができたのか」「あのときあなたは何ができたのか」を考え今後に活かすことと、「今私に何ができるのか」「今あなたに何ができるのか」を考え行動することを大切にするようにしています。

誰のせいであるのかは、さほど大切なことではないのです。

その「責任が問われる出来事」においては、関係するすべてのひとたちに、何かしら「できたこと/できること」があるはずです。


「大事な事業なのに、どうしてあの部署は協力してくれないんだろう?」

そんなシチュエーションで3つの考え方を比較すると。

他責思考 ⇒「あの部署のせいだ」
自責思考 ⇒「自分に足りないことがあるんだ」
無責思考 ⇒「自分にできることはなんだろう」

こんな違いがあります。自責思考に近いようで、さらに一歩前に踏み出すような考え方です。


検索エンジンで調べるといくつかの記事がヒットするので、同じような言葉を考えているひとはいるようです。中身まで詳しく確認していないので、まったく同じ意味で使っているひとがいるかどうかは分かりませんが。


ひとは何か良からぬことがあったときに「原因」が特定できると安心できるようです。誰かのせいにすることで落ち着けるひとっていますよね。
他人のせいにすることで「私は悪くないんだわ」と安全地帯を求めたり、自分のせいにすることで「どうせ私のせいなんでしょ」と弱者を装ったり。共通するのは、安定することです。

一方、無責思考では原因は特定されず、自分の立場も安定しません。むしろ「できること」に着目して、これからその行為へと歩みだすので、足元は不安定なままです。だから、少々居心地は悪いかもしれません。

それでも、他責思考よりはマシな自責思考で終わらずに、「あいつのせいとか、私のせいとかどうでもいいから、みんなで何ができるか考えようよ!」という構えが、その場で必要な行動を生み出すと思うんですよね。

もちろん、自責思考で様々な状況に向き合っている人の多くは、自責思考を経て、「自分のせいだ。だから何をしたらいいんだろう。そもそも何ができるんだろう」と無意識のうちに無責思考的な考え方から次の行動へ踏み出しているような気がします。

そうだとしたら、私のこの記事は今更次郎な内容かもしれません。それはそれでいいことですね。


他責思考から自責思考へ、そして無責思考へ。


皆さんは、如何お考えでしょうか?



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