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読み手に届いた瞬間から、文章は書き手の手を離れ多彩な花を咲かせる


こうやって日常的にブログなどを書いていると、私が意図しないような受け取られ方をすることがあります。

「そこだけ切り出されても……」
「それはそもそもの前提が……」
「そういう解釈も可能かもしれないけど……」

SNSなどの投稿にいただいたコメントに、こんな風に感じたこともあります。

ネット上で読んでいただく文章でも、紙媒体でお届けする文章でも、言葉で何かを伝えようとする人の多くが経験することかもしれません。


最初はそういうとき、少し嫌な気持ちになりました。


何か伝えたいことがあって書いている以上、伝えたいことが、伝えたかったように伝わらなかったことにストレスを感じ、イラだつわけで。


日常生活でもありませんか?

職場の上司と部下の間で、親子で、友人同士で。

「そういうつもりで言ったんじゃないのに」

って思うやりとり。

そのたびに軽く凹んだり、ちょっと傷ついたりします。


でも、文章については徐々に捉え方が変わって、今では私が意図しないような受け取られ方をすることに、あまり心がザワつかなくなりました。



最初は、上述したように私が意図しないような受け取られ方をしたら、イラだったり、「そういうことじゃないんだけどな~」と軽く凹んだりしました。


でも、

◆書き上がったものを読み手がどう受け取るかは「読み手の問題」であって、私の問題ではない
◆その文章をすでに書き上げて世に放った私には、読み手がどう受け取るかをコントロールできない

こう考えるようになったんですよね。

『7つの習慣』(スティーブン・R. コヴィー、キングベアー出版)で提案されている「影響の輪」の考え方で言えば、「読み手がどう受け取るか」は「関心の輪」の内側にあるけれど「影響の輪」の外側にある、つまり自分が変えたり影響を及ぼすことができないこと。

「読み手がどう受け取るか」に自分の心を向け続けても、何もできないし、何も得るものがありません。

そう捉えることができるようになって、公表した文章にどのようなリアクションやコメントがあっても、さほど気にならなくなりました。



ただ、最近、私の中で捉え方がもう一段階、変わったのです。


文章は作者の手を離れて
読み手に受け取ってもらうことで完成する


これが今の私の、自分の文章と読み手との関係についての捉え方。

たとえ自分が意図したような受け取られ方ではなかったとしても、その読み手の中に着地した私の言葉は、結果的に「そのように根をおろした」ということ。そこで咲いた花こそが、私と読み手との協同作業の結果なんですよね。それが賛意でも批判でも勘違いでもそれ以外でも。


そう考えるようになったのは、2021年2月に初めて本を出させていただいたときでした。

様々な感想を読ませていただいて、お一人おひとりの中で私が本をつうじてお届けした言葉が、それぞれのお考えや置かれた状況という「土壌」の中に根付いていくような、そんな感覚を覚えたのです。

とても深く根をおろしている人もいれば、広く根を張っている人もいたり、たくさんの花が咲きそうだなと思う人もいれば、大きな花を咲かせるかもしれないなと思う人もいて。

「あ~、書き上げて書店に並んで終わりじゃないんだな、こうして読んでくださったお一人おひとりの中で完成していくんだな」という感覚。

それまで意識することがありませんでしたが、きっとSNSの投稿もブログもWEBメディアの記事も同じことなんですよね。



文章を書くことの魅力って何でしょうか?

・自分の考えをたくさんの人に知ってもらえる。
・モヤモヤを言語化してスッキリできる。
・誰かの心を少し軽くすることができる。

どれも文章を書きながら私自身が期待することです。

でも、この魅力に目を向けすぎると、読み手がこちらの意図と異なる受け取り方をしたときに、期待した成果が得られなかったと感じ、結果的に文章を書く楽しさも小さくしてしまうかもしれません。


そこから私自身、捉え方が変わって

文章は作者の手を離れて
読み手に受け取ってもらうことで完成する

こう考えるようになったら、「届けたい」「伝えたい」「理解してもらいたい」という願いを込めて書いたものを、その意図に沿って受け取ってもらえなくてもいいんだと思えるようになりました。


それどころか、

[私の意図]×[読み手の受取(土と根)]=[成果(花)]

この予測できない[読み手の受取(土と根)]から咲く[成果(花)]を楽しめるようになってきました。


自分の小さな考えから生み出された文章が、いろいろな人たちの様々な考えに触れることで、新しい多様な価値につながる。

それがたとえ私の考えとは異なるものだったり、私の考えを批判するようなものであっても、それが価値であることに変わりありません。


私はそのことに今とてもワクワクしています。



自分が意図しないような受け取られ方をして……
第1段階
▶「そういう意図じゃないのに」と凹んだり、イラだったりする
第2段階
「影響を及ぼせないこと」と気にならなくなる
第3段階
「多様で新しい価値が生まれる」とワクワクする


書いたものは1つでも100人が読んだら、100通りの受け取り方があり、それらは「私はこういう意図で書いたのだから、こういう意図で受け取るべき」と管理することはできない。

それは他人の庭に手を突っ込んで、勝手に土をいじろうとすること。

読み手に届いた瞬間から文章は書き手の許を離れ、メディア(媒体)という風に乗って読み手に届き、その心に根をおろし多彩な花を咲かせる。


それが文章を書く面白さなのかもしれないなと感じる今日この頃。


皆さんはいかがお考えですか。





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2021年2月に初の著書を出させていただきました!

主に若手公務員を対象に「公務員が充実した気持ちでイキイキと働くことが、住民の幸せにつながる」という信念のもと、「自分の人生のハンドルは自分の手で握ろう」というメッセージを込めて書かせていただきました。

そのあたりのことは、こちらの記事でもお伝えしています。

よろしければお手に取っていただけたら嬉しいです。

また拙著に関連する記事はこちらのマガジンにまとめて掲載していますので、併せてご覧ください。


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