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「愛」は「信じること」さ 【しまさんの読むラジオ】
昨年、「オンライン表現プログラム」として、Cplus3期に参加したことを書いた。
そこでのテーマは「普通ってなんだ?」だった。
そこでの議論で下記に記載するような話があって、作品ができあがっていった。
いま改めて、「普通」が(もし)存在しうるなら、それは環境や育ち・能力、人生観が偶然その場、その地域、その世代の多くの人が合意に至る共通概念(場合によっては平均値)であっただけであり、それは外に出たら変わるものだ、と僕だったら定義するでしょう。
一方で、今回参加者の方との対話で面白いことに気づかされました。
それは、「"普通"がなければ、社会は作れない」こと。
世の中の「普通」に動いているもの、ことがなければ、社会はすぐに壊れてしまうのでは、と。
この指摘にハッとさせられました。
憎きで、ちょっと冷静になれていなかったのかな(とはいえ冷静な判断で”普通は存在しない”つもりでもいましたが)と反省しています。
そのようにして誕生した劇は、「人のライフスタイルや愛情対象に普通って存在しない」をテーマに、「バツイチでネコを愛でに愛でるカフェマスターの日常」を描いたものだった。
僕はマスターの役だった。オンラインで(本物の!)ネコを愛でた。そしてこう言う。「僕にはこの子(ネコ)が今はいるから、結婚はいいかな」と。結婚したことない人がこのコメントを言うのもアレだが。
愛こそ、「普通はない」
それを発表したのが去年の3月21日。約1年以上経った。
先日、プログラムを開催している団体である、NPO法人コモンビート理事長(本人曰くりじちょー)の安達さんがこんなツイートをしていた。(告知ツイートだけど)
ダイバーシティとか多様性とかの話をすると必ず出てくる「普通ってなに?」という問いかけ。今回は視覚障がいがある加藤健人さんと、彼の日々の生活から感じるこの問いかけへ答えを聞きつつ、一緒に考えたいと思ってます。 https://t.co/HErtrMoZwk
— 安達亮@NPO法人コモンビート代表 (@adaryo1018) March 5, 2022
そこにひもづけて、僕が感じたことをこう書いた。
この問いかけで、ひとつ演劇(=表現)をしたのがCplus3期だったなぁと。
— しまさん@お寺息子でファンドレイザー (@shima_sun_0) March 5, 2022
僕が演じたのは「人のライフスタイルや愛情対象も多様だよね」をテーマとして、「バツイチでネコを愛でに愛でるカフェマスター」だったんだけど… https://t.co/IjTWApRNJI
ライフスタイルや愛情を注ぐ先なんて、まさに「普通」という概念を常に超越し続けることだと思う。
— しまさん@お寺息子でファンドレイザー (@shima_sun_0) March 5, 2022
ご自愛でも他者を愛することでも、「普通」なんてない。
それは、昔の映画「博士の異常な愛情」(=ストレンジラブ)でも語られていた話。
「普通」を疑うのではなく、「普通」を常に超越し続ける、「男だから」「女だから」という枠組みを破壊し続ける。
— しまさん@お寺息子でファンドレイザー (@shima_sun_0) March 5, 2022
「LOVE & PEACE」とは、まさに「多様性」と「包摂性」を代表する言葉に思う。
こんな(クサイ)ことをつぶやいていた。
偶然にも、以前演じたテーマ「普通ってなんだ?」と重なり、僕自身も感じることがあったので、追いかけるようにツイートした。というか、指が勝手に動いていた。
当初、「愛情を注ぐ対象に、”普通はないよ”」という文脈でつぶやいていた。改めて、とある本を読んでから見返して、少し雰囲気が違うように聞こえてきた。
お互いが、選び取りあうこと。
先日、この本を読んだ。
ずっと前から、Twitterはフォローしてて、センス高すぎw草wとか言いながらnoteとかツイートとか読んでたんだけど、この本もその期待は一切裏切らない。
この本では、岸田さんの家族とのエピソードを通じて、「自分だけでは生きていけないと感じたこと」や「助けられる生き方ってなんだろう」という問い、さらには「家族愛って結局なんだろう」という深い問いまで差し込んでいる。
そのなかでも特に印象に残ったのが、このフレーズだ。
私はずっと後ろめたさを感じながら、会社員をやってきた。
(中略)
学生の頃から感じていた、ちょっとした生きづらさが、どんどん肥大化した。
わたしはなんてダメなやつなんだろう。悔しさと情けなさの濁流に溺れそうになった私を助けてくれたのは、いつも家族だった。
でも、家族にすら私は後ろめたさを感じていた。家族なんだから、私の味方をしてくれるのは当たり前。それに甘えてはいけない。そう思っていた。
でも、ようやく気付いた。
家族だから愛したのではない。愛したのが家族だったのだ。
(中略)
わたしは家族を信じることを、自分で選んでいいのだ。逆もまた同じで、家族は私を信じることを、選んでくれたのだ。
このフレーズが個人的にすごく響いた。家族愛がよくわからなかった(口は出さず、手を出してくれること?かな?とか思ってた)僕にはそれまでなかった感覚だったとともに、僕にその葛藤は必要だけど、そこから逃げたことを自覚した。涙が出てきた。
家族は、血縁という関係で無理やり結ばされる、という部分もありつつ、でも「信じるか信じないかはアナタ次第」じゃないけど、それは選択権がある。そしてその逆も然りで、家族が信じてくれることを選んでいる、という事実もあるんだ、と体感することってなかなかない気がする。一般的な(この言葉はなるべく避けたかったが、使わざるを得ないので使う)家庭に育った自分には少ない機会だったのかもしれない。いや、最近あったな。
涙が出てきたのは、それだけじゃない。多分、「信じること」という主体性以前に「相手が信じてあげることにしてくれたことを感じ取れなかった自分」が悔しかったんだと思う。思うだけに過ぎないのがより悔しいけど。
さらに思い出した曲がある。
信じることさ 最後には
それは、KANの「愛は勝つ」だ。
ご存じの方も多いと思う。ちょっと古いけど、僕の世代(だいたい1995年生まれ)より早く生まれた人はおぼろげでも記憶にあるであろう曲である。
まさに、岸田奈美さんの先述のフレーズが、そのままオマージュしたんじゃないか?というくらい近いものがある。
傷つけ傷ついて愛する切なさに すこしつかれても
Oh, もう一度夢見よう
愛されるよろこびを知っているのなら
「愛する切なさ」という言葉で表現していることが面白い。
自分から起こしたその行動が報われない、場合によっては拒否されることって多いと思う。もしくは、岸田奈美さんみたいに「自分が受け止められてしまっているから、愛するという行動を起こすこと自体当たり前じゃないか。」と思っている中で行動を起こすしんどさもあるのだろう。
でもKANさんは「もう一度夢見よう 愛されるよろこびを知っているのなら」と切り返している。
家族から愛されていること、それ自体を自覚できれば、もしかしたら「愛すること」自体はいつか返ってくるのかもしれない。だから「もう一度夢見よう」ということなのかな。
愛することが「努力だ!」みたいな一辺倒な強さをもって歌っているのかな?とこの歌は感じていた。
なにぶん、歌詞の内容で
どんなに困難で くじけそうでも
信じることさ 必ず最後に愛は勝つ
とあるくらい、マッチョイズムな曲だと思っていた。
でも、岸田奈美さんの本を通し読みしたうえで、「家族を信じて、愛すること」自体選択権があって、逆も然りで家族が信じて、自分を愛してくれることを選んでいる、という事実もあるんだ、とわかってからは、マッチョイズムどころか、真綿で包み込まれるような、優しくも強い歌詞なんだ、と感じた。(真綿は優しくて強いかどうかはちなみに知らん)
信じているうちに、信じられていることに気が付く。
そんなことが、家族(場合によってはパートナー)の愛なのかもしれない。
※KANの「愛は勝つ」全歌詞はこちら▽
さて、最初の(クサイ)言葉に戻ろう。
「愛こそ普通はない」、信じる先に愛は勝つ
ライフスタイルや愛情を注ぐ先なんて、まさに「普通」という概念を常に超越し続けることだと思う。
— しまさん@お寺息子でファンドレイザー (@shima_sun_0) March 5, 2022
ご自愛でも他者を愛することでも、「普通」なんてない。
それは、昔の映画「博士の異常な愛情」(=ストレンジラブ)でも語られていた話。
岸田さんの本を読んで、KANさんの「愛は勝つ」を聴きなおしたうえで、このツイートを見返してみて、「クサイ」以上に、「自分が考えている”愛”に関するコメントが、自分以外の人に向けすぎていて、自分が感じていることとは違い過ぎているな」と思った。
そもそも、Twitterではなかなか「自分が素直にどう思っているのか」書きにくい(と思っている)。
だから、引用することで、だれか権威がある程度あって信頼できそうなソースがあることを話そうとしている自分がいる。感じていることを書く、ということではなく、「そのソースはタイムライン上でぶっ叩かれないか?」ということを優先してしまった感じがある(事実そう思っている)。
脱線した。僕自身が多様性ガー、普通なんてもんはー、みたいなコメントを吐きつづけることよりも、僕が「愛していること」「愛されていること」、ないしは「愛しているとは言い切れないけど信じることにしたこと」「愛されているかはわからないけど信じてもらっていること」をもっと明快に示せる必要がある、というのが一つ結論である。
それらのことを、感じていける心を持つこと、それが「愛こそ普通はないよ」という言葉を言うために必要なことだと思った。
信じる先に、または信じられることを自覚する先に、愛はある。
Mr.childrenの「名もなき詩」の歌詞の
愛はきっと奪うでも与えるでもなくて
気が付けばそこにあるもの
というのは、そういうことなのかなあと。
だから、まずは感じる心を、そして「信じることを選べる相手」を探すことをやってみよう。
「読むラジオ」バックナンバーはこちら▽
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